虎と朝までドライビング

9.

 翌朝、周は耳に迫る爆音で目を覚ました。
 涎を垂らし眠りこける泰我の腕を振り解き、周は慌てて窓を開けた。吹雪の夜から一転、澄み渡った青空に大きな影が映り込む。
(何だ……?)
 思うより早く、立っていられないほどの突風が周の全身を襲った。バリバリ、と恐ろしいほどの振動を響かせ降ってきた影は、一瞬にして薄いプレハブの屋根を吹き飛ばした。
「えっ!」
 振り仰いだ周の頭上に、迫り来る機体。
 ――ヘリコプターだ。
 衝撃に、寝起きでぼやけていた思考が一気に覚醒する。すると、ようやく目覚めた泰我が背後でのろのろと体を起こし、
「やべ……GPS切んの忘れてた」
 と言って携帯をいじっている。
 まさか――周が目を見開くより早く、
『若! ご無事ですか!』
 と、拡声器越しの声が空から降ってきた。
 ヘリのハッチが開き、ロープが垂らされる。オレンジ色のライフジャケットを背負った人影が次々と降下を始めた。
 ヘリの胴体には半井重工の社章。よくコマーシャルで見るロゴそのものだ。
「あー、もう朝からうっせぇなぁー」
 泰我は心底煩わしそうに後ろ頭をぼりぼりと掻いている。そのさして驚いた様子もない態度に、周はくらくらと目眩をもよおした。
 だって、そんな。まさかヘリコプターで迎えにこられるのが日常茶飯事だなんて言わないよな。
 ちら、と視線を向けると、泰我が青空に向かって両手を振っている。着地を誘導する仕草は慣れたものだ。
(……どんだけ)
 周はわなわなと唇を震わせた。
 うっすらと気づいてはいたけれど、ここまでの格差だとは思いもよらなかった。
(……どんだけ金持ちなんだよ!)
 気持ちよく晴れた青空に向かって、声にならない声で叫ぶ。
 そして、やっぱり昨晩抱かれておけばよかったかも、なんて俗なことを考え、また深い自己嫌悪に陥った。



「舎弟の篠原と桑原だ」
 泰我がそう言って後部座席に座る二人を紹介してきたのは、もうすぐ車が高速の入り口にさしかかろうといったときだった。
「お初にお目にかかります。篠原です」
「桑原です。以後お見知りおきを」
 黒いスーツに揃いのサングラスをかけ、二人はそう言って頭を下げたきり、腕を組み、再び岩のように押し黙った。
「まぁ置物だと思って、あいつらのことは気にするな」
 泰我はそんなことを言って平然と車を走らせているが、後部座席から届く無言の威圧感に周は肝を縮ませた。
 だって、まさか教習にまで一緒についてくるとは思わなかった。
 吹雪の翌朝、ヘリから降ってきた泰我の付き人、もといSPの二人はどう見てもその筋の人間だ。
 きっちりとした締めたスーツの襟元から覗く青い入れ墨。頬に斜めに走った刀傷。周はルームミラーでちらちらとそれらを確認し、緊張に体を強張らせた。
(なんでこんな危ない人達雇ってるんだよ! 半井財閥は!)
 たしかにボディガードとしては最適なのだろうけど、怖いものは怖い。いかにヤンキーの指導には慣れていようと、これはまた話が別だ。
 気を紛らわそうと泰我の教習手帳にいつものように所見を書き込んでいると、ぬっと首が伸びてきて後部座席から四つの目が食い入るように覗き込んでくる。
「あ、あの……」
 勇気を振り絞って困惑した声を聞かせると、
「失礼」と言ってすぐに引っ込んだが、周はまるで生きた心地がしなかった。
 頼みの綱の泰我は我関せずと、一人運転に熱中している。今日は高速教習なのだ。
 あの雪の夜の一件以来、合わせる顔がなくて周は泰我を徹底的に避けていた。代わってもらえる教習はすべて他の教官に頼み、どうにか泰我の教習に被らないようにわざと他の生徒の教習を持ったりもした。
 けれど、本当は保之が担当するはずだった今日の高速教習。ついに周は捕まってしまった。保之が例によって不在だったのだ。
「おい」と呼ばれ振り向くと、般若のような顔をした泰我がそこに立っていた。首根っこを掴まれ、有無を言わさず教習車に乗せられる。
 ぎょっとしたのは次の瞬間だった。
 ヘリでとっくに帰ったとばかり思っていた泰我のSP。二メートルはあろうかという大きな体を丸めて彼らは後部座席にごく自然に収まっていたのだ。
(困ったな……)
 先日のことを謝らなくちゃと思っていたのに、これではとても切り出せない。けれど、狭い車内に泰我と二人っきりにならずに済んだことに、心のどこかでほっとしている自分もいた。
「何考えてんの?」
「べつに」
 高速に乗ると、泰我が声をかけてきた。
 周は必要最低限の指示を出しながら、再び窓枠に頬杖をついた。
 どうしてこんなに不機嫌なのか、自分でもよく分からなかった。
 どちらかと言えば、泰我のほうが臍を曲げて然るべき状況ではある。
 真剣に想いを告げた相手から蹴り飛ばされ、あまつさえその後、徹底的に無視されているのだ。
 あんなことがあったばかりなのに、泰我は気まずくはないのだろうか。
 普段と変わらぬ様子を見せられると、まるで自分だけが悶々と悩んでいるようでなんだか腹が立つ。
(僕がお前のせいでどれだけ寝不足だと思ってるんだ!)
 周は膝の上で苛々と指を遊ばせた。
 いや、もちろん寝不足の原因はそれだけではないのだが、土地の権利書が見つからないのも、借金の返済目処が立たないのもひっくるめてなんだか全部泰我のせいにしたくなってくる。
「おい、周」
「……」
「おい。聞いてんのか?」
 泰我がハンドルを握りながら、何度か声をかけてくる。無視をしていると、急に車のスピードが上がった。
「わっ!」
 反動で大きく上体が揺れる。シートベルトをしていて本当に良かったと周は思った。
 見ると、メーターが120キロを振り切れている。思わず「おい!」と固い声を張り上げるも、
「周が俺のこと見てくんねーから」
 と言って、泰我は悪びれた様子もなく、さらにアクセルを踏みしめる。ギアはずっとトップに入ったままだ。
「馬鹿っ、スピード出しすぎだ」
「うるせぇな。そういう教習なんだろ、今日は」
「違うよ!」
 周は慌てて天井の取っ手に捕まり、声を荒げた。
「初心者がいきなり150キロなんて出すな! 捕まるぞ!」
 泰我がハンドルを右に切ると、上体を圧し倒す強烈な重力に舌がもつれた。
「でもそのときは周も一緒だろ?」
「は?」
「周と一緒なら、ブタバコ暮らしも悪くねぇ」
 泰我は何が楽しいのか、そう言って目を細めて笑う。
 エンジンが唸りを上げ、車体が無理な加速にがたがたと震え始める。レース用の車でもないのに無茶な負担をかけるからだ。
「冗談言ってる場合か! 止まれって、この」
 泰我の腕を掴み、周は叫んだ。泰我は荒っぽいハンドル捌きで車線を自由に変え、ひたすらに真っ直ぐな道を突き走る。
 衝突寸前でどうにか追い抜かしたバスの運転手が怒って、けたたましいクラクションを鳴り響かせる。
「おい、泰我!」
「……ハッ、ハハハ! たまんねぇ、その顔」
 再び周が甲高い声をあげると、泰我は弾かれたように笑い始めた。前髪を掻きあげながら、まいったな、と呟く。
「今、自分がどんな顔してるか気づねーだろお前」
「馬鹿っ! 手ェ離すな!」
「でも、このスリルがたまんねーんだろ? そういう顔してる」
「……っ!」
 いつ見抜かれたのか。周は思わず息を飲んだ。
 ビュンビュンと風を切って走る車の揺れに、鼓動なんてとっくに高鳴っている。全身の血がざわめいて、居ても立ってもいられなくなる。
 サーキットを弾丸のようにただ駆け抜けていた頃の記憶が呼び覚まされ、一気に毛穴が開いた。
「スピード狂はお互い様だな、周」
「う、るさい……」
 勝ち誇ったような声に、周は頬を火照らせた。きっと泰我はすべて分かった上で、自分を高速教習に連れ出したのだ。
 腰骨に伝わる心地いい排気音に、凝り固まっていた心がほぐれていく。
 ああ、もうちくしょう。
「やっと笑ったな」
 泰我が横目で満足げに周を見遣る。
 そのときだった。
「……なんだあの車」
 ふいに泰我がルームミラーを見つめ、声を低めた。そこには一台の緑色のトラック。先ほどからスピードを競うようにぴったりと背後についている。
 その影がみるみるうちに大きくなってきたのだ。
「危ないっ!」
 周は咄嗟にハンドルを奪った。加速したまま、大きく左に舵をとる。キキッと音を立ててタイヤが路面を滑った。
 寸でのところで、トラックは泰我の真横すれすれを駆け抜けていった。
 150キロ出しているのに、危うく追突されかけるなんて、どういうことだ。
 走行車線に逃れ、前を走るトラックのナンバーを読み取ろうと首を伸ばす。瞬間、
「伏せろ周!」
 泰我の左手が周の頭を掴み、深くシートに潜らせる。
 バンバン、と乾いた銃声が響き、フロントガラスが割れ、頭の上に降ってきた。
「な、なんだ?」
「ちっ、どこの組のヤツだ」
 周の頭を膝の上に庇ったまま、泰我が運転席の窓から前方に顔を覗かせる。
 再び銃声が轟いた。ヒュン、と音を立てて泰我の顔の脇のシートに被弾する。
 何が起きているのか瞬時に理解できず、周が固まっていると、
「若! これを」
「ああ」
 と言って、泰我が後部座席から何かを受け取る。護身用のピストルだ。本物なんて初めて見た。泰我は片手で充填口を回し、前を走るトラックを睨むと、周に恐ろしいことを告げてきた。
「周、ハンドル任せたぞ」
「えっ?」
「いいから。ちゃんと握ってろよ」
「うわっ! 泰我! ちょっと」
 言うやいなや、泰我がハンドルを手放す。
(正気かよ!)
 周は慌てて言われた通りハンドルを握り締めた。
 泰我は左足でアクセルを踏んだまま、運転席の窓から仰向けに外に体を乗り出す。
 後部座席の二人もそれに倣い、いつの間にか派手に銃撃戦を始めている。
(な、何が……なんで僕が……)
 がちがちと歯の根を震わせていると、泰我がトラックの助手席に照準を合わせながら叫んでくる。
「もっと前だ! 走れ、周っ!」
「無茶、言うなよっ!」
 周は唾を飛ばせた。懸命にハンドルに喰らい付くも、いかんせん助手席からの運転だ。
 まっすぐ車を走らせるだけでも難しいのに、そのうえ、前を走る一般車を避けながらトラックに追いつけというのか。
「大丈夫だ! できる! 自分の腕を信じろ!」
 泰我が力強い声で叫ぶ。左手でがしがしと頭を撫ぜられ、とどめに引っ叩かれた。
「ち、くしょ……、もうどうなっても知らないからな!」
「おう」
 小気味の良い返事。周はハンドルを強く握り締めた。必死で勘を手繰り寄せ、割れたフロントガラスの先を睨み据える。
 今にも後輪が浮かび上がりそうなほど低い唸り声を上げて、教習車は風の中を突っ切ってゆく。
「ちっ、まだ届かねぇか」
「どうしますか、若」
「向こうの正体が分からねぇ限り、下手に手は出せねぇ。とりあえずこのまま振り切るぞ」
「了解」
 泰我の声が耳の遠くで響く。銃声も吐息も、駆けつけたパトカーのサイレンも、もう何も聞こえない。
 エンジンの音だけが腹の奥に響き、周の意識を車体に乗り移らせる。
 と、泰我の放った銃弾がトラックのタイヤを撃ち抜き、ゆっくりとトラックが横転を始めた。
「周っ!」
 泰我が叫ぶ。周は大きく頷き、歯を食い縛った。
「飛ぶぞ、泰我!」
 ハンドルを限界まで右に切る。凍った路面にスリップし、視界が360度に大回転。
 教習車はガードレールを突き破り、ジャンクションから下道へと弧を描いてダイブした。



「何ですか? これ」
 急死に一生。命からがら教習所に戻ると、泰我のSPが勝手に事務所のパソコンを乗っ取って、目にも止まらぬ速さでタイピングを始めた。
 見たこともない青い画面に白文字が点滅し、滝のように流れていく。
「西郷生命の今月の新規契約者リストです」
 泰我のSPは(たしか桑原といったか)、答えながらも変わらず恐ろしいスピードでキーを叩く。
 周はこんなにこのパソコンがうめき声を上げているのを初めて聞いた。なんせ七年物の年季の入ったパソコンだ。いつ壊れてしまうか気が気でない。
 しかし、今留意すべきはパソコンの安否ではない。
「保険会社の? どういうことですか?」
 周は桑原の背に尋ねた。
「若の思った通りです。情報屋からのタレコミを待っている暇はありませんので、少し強引にアクセスしてみたらこの通り」
 桑原は機械のように答えながら、上体を丸めしばらく見えない敵と戦っているかのように思う存分キーボードを痛めつけたあと、「よし」とエンターキーを押した。
「周さん」
 桑原に呼ばれ、周は画面に顔を近づけた。桑原の指差す先に書かれた文字を、目を細めて読み取る。
「これ……」
「見覚えは?」
 桑原の言葉に、周はごくりと唾を呑んだ。
 住所、氏名、年齢、電話番号、そのどれもが一致している。
「スキャンデータだ。持ってこい」
「はい」
 泰我の指示に、背後に控えていた篠原が素早く壁際のプリンタへと走っていく。
 すぐに印刷した紙を持って戻ってきた。
「被保険者は保之様。そして受取人は――」
「貸して」
 篠原が読み上げるより早く、周はその紙を奪った。
 契約した覚えのない生命保険の加入書。捺印欄に押された印鑑は、シャチハタではない。西門の「門」の字のはらいが少し欠けた、祖父の代から使っている西門家のものだ。
 保之に賭けられた保険総額は一千万円。受取人はすべて周名義だ。
「周?」
 周は無言で、契約書をプリントした紙を握りつぶした。誰が勝手にこんなものを。腹の奥から徐々に怒りが込み上がる。
 踵を返し、椅子の背もたれからコートを引っ掛けると、周は足早に出口へ向かった。
「おい、待てよ! どこ行くんだ」
 目指す場所は一箇所だ。
 慌てて追い縋る泰我を振り切り、周は「一人で行かせてくれ」と抑揚のない声で呟いた。