虎と朝までドライビング

8.

「まいったな……携帯も圏外か」
 周は暗闇の中で青い液晶画面を見つめ、くそ、と舌打ちをした。
 四角い掘っ立て小屋のようなバスの待合室にパッ、と灯りがともる。今ドキ珍しい吊り下げ式の石油ランプだ。
「やっと点いた!」と泰我が部屋の真ん中であぐらをかいて喜んでいる。
 結局、完全に動かなくなってしまった教習車をひとまずその場に置き、助けを呼ぼうと思い立ち、歩き始めたのが三十分前。
 雪道に慣れていない泰我の手を引き、周は吹雪の中、道なき道を進んだ。その途中で見えてきたバス停に運よく屋根のついたプレハブ小屋が併設されているのを発見したときは、せめてもの不幸中の幸いだった。
 少し休憩しようと迷わず中に入り、頼りないサッシの扉を閉めると、風を凌げただけでもいくばくか人心地がついた。
「ここから教習所まであとどれぐらいだ?」
「……軽く一時間ぐらいかな」
「マジかよ。聞くんじゃなかったな」
 泰我がげんなりと肩を落とす。
「どうする? 別に無理して歩いて帰らなくても、明日の朝になればここにバスが来る。それを待ってから帰っても……」
 至極建設的な提案をすると、泰我はランプから手を離し、顔を上げた。
「俺は別にいいけど。お前は大丈夫なのかよ」
「え?」
「ここ泊まんの。その薄着で平気なのかって聞いてんだ」
 泰我の目がじろりと周の体を睨む。
 教習車から降りることはないだろうと油断して、周はシャツの上にカーディガンを羽織っただけの軽装だった。
「ああ……。少し雪で濡れちゃったけど、乾けばまぁなんとかなるだろ」
「俺は寒いぞ」
「そりゃお前、スウェット一枚でこの吹雪の中を来たんだから当たり前だろう」
 それは泰我も同じだった。むしろ泰我の方がひどい。いつも着たきりの黒いスウェットの上半身が雪で濡れすっかり色が変わっている。
 泰我は雪と泥で汚れた靴をその場で脱ぎ捨てると、靴下をつまみ「こりゃもうダメだな」と一人ごちた。
 泰我が板張りの床の上で素足になる。続いて腕を交差させ「よっ」と躊躇いもなくスウェットを脱いだ。
 ランプの明かりに照らされ、暗闇の中にうっすらと泰我の裸の上半身が浮かび上がる。
 よく鍛えられた鋼のような筋肉。スウェットをしぼる腕から肩にかけてのラインは、美術館の彫像のように美しい。
(……ていうか、寒くないのか?)
 そこまで見惚れて、周は思わずくしゃみをしてしまった。裸の泰我より、見ているこっちのほうが寒々しい。
「周、こっち来いよ」
 すると、泰我が手招きをしてきた。寒いから寄れ、ということだろう。
 暖房器具が何一つない待合室だ。離れて座るよりは、少し身を寄せ合ったほうが暖が取れる。
 シャツの袖で鼻水を啜り、周は頷いた。おずおずと膝でにじり寄る。
「よし」
 すると今度はぐっと腕を引かれた。
「お前も脱げ」
「うわっ…! 何するんだ」
 そう言うやいなや、泰我はいきなり周のシャツを一気にたくし上げた。
「こんなん着てたらよっぽど寒いだろ」
「いや、だからって脱ぐのはちょっと……おい! やめろ! 寒い寒い寒い!」
「ああ、もううるせぇなぁ!」
 そして、あっという間にカーディガンごと剥ぎ取られてしまう。「ぎゃー」と悲鳴を上げるも、泰我は構わず裸に剥いた周の体を後ろからすっぽりと抱きかかえた。
「ほら、こーしてりゃ少しはマシだろ」
「……全然マシじゃないよ。冷たい……」
 泰我の股の間に座る形になって、背中にひんやりと感じた肌の冷たさに、周は歯の根を震わせた。
 ただでさえ、激しく吹雪く氷点下の夜だ。いくら壁で囲われているとはいえ、この寒さの中で裸になるなんて気が狂ってるとしか思えない。
「すぐにあったまる」
「そうかな」
「いいからじっとしてろって」
 泰我はそう言って、生真面目な声で強く周の体を抱き締めた。長い腕だ。肌と肌が密着して、吐息が耳朶を掠めると、訳もなく心臓が高鳴った。
(何だこれ……何だこれ!)
 落ち着け心臓!
 周はぎゅっと目を瞑った。同じ男同士だ。何も恥ずかしいことはない……はずだ。
 静まり返った山間のバス停だ。降り荒ぶ吹雪の音以外何も聞こえるものがない部屋で、重なり合った肌からとくんとくんと泰我の鼓動が伝わってくる。
(駄目だ……気にしちゃ、駄目だ……)
 一人で何を馬鹿みたいに意識してるのだろう。僅かに身じろぐと、右足に鈍い痛みが走った。
 長い間、吹雪の中を歩いてきたせいで、冷やしすぎてしまったのだろう。じん帯が痙攣を始めている。
 顔を歪め、そっと足をさすっていると、
「痛むのか?」
「え?」
「それ。傷」
 と言って、泰我が目敏く周の足を指差してきた。
「気づいてたのか」
 目を丸くすると、
「気づいてないとでも思ってたのか」と言って泰我は唇を尖らせた。
「歩くとき、いつも右足引きずってるだろ。少しだけ」
「ああ、うん。まぁね。まいったな。バレてるとは思わなかった」
 周はハハ、と頬を掻いた。
 別に隠していたつもりではなかったけれど、足が悪いことを言って下手に同情されるのは御免だったのだ。
「……俺の周りにもいるからな。そういう奴」
「ん?」
「自分の命顧みないでよ。一人で鉄砲玉みてーに敵のシマ乗り込んで行って、腹に数え切れねーぐらい弾丸ぶち込まれて帰ってきてよ。一生治らない怪我しちまったのに、俺のためなら死ぬのは本望だとか言って笑うんだぜ。やってらんねーだろ」
 何を思い出しているのか、泰我が険しい表情をして言う。
 穏やかでないその内容に、周は追及することが怖くなり、適当に笑って誤魔化した。
 おおかたヤンキー同士の抗争の話だろう。
「お前は?」
 泰我は周を抱え直しながら言った。
「何があったんだ? 何のために命張ってそうなった?」
 泰我が周の背に顔を埋めてくる。どうも価値観がずれている気がするが、とりあえず泰我が心配してくれているのだけは分かった。
「安心しろ。僕のはそんなキナ臭い話じゃない」
 周は薄く笑み、言葉を選んで言った。
「そうだな……強いて言えば、夢、かな」
「夢……?」
「あの日は世界選手権が懸かった大事なレースだったんだ。前半コーナリングに失敗して順位が落ちてしまって……焦った僕は結局判断ミスをした。気がついたら体が地面に叩きつけられていたよ。ハハ、期待の新人だなんて言われて調子に乗ってたんだろうねあの頃の僕は」
 目を閉じると、今でも思い出すサーキットの風。香り。沢山の観客の歓声。
「すげぇ、レーサーだったのか? 周」
「まぁな。フォーミュラワンにも出たことあるぞ」
「マジかよ! ハンパねぇ!」
 泰我が興奮した様子で、周の肩口から顔を覗かせる。
 その素直な称賛は心地よいものだった。
「だけど羨ましいぜ」
「え?」
「俺には夢がねぇからさ。ガキの頃から、親父の跡を継ぐのが当たり前で、他の選択肢なんて最初からなかった。だからといって他にやりたいことがあるわけじゃねぇんだけど。だから、周が羨ましい」
 泰我がごりごりと額を周の肩に押し付けてくる。
 泰我も泰我なりに悩みがあるのだ。当たり前のことだけど、失念していた。
 大企業の御曹司として約束された将来があることのほうが周からしてみればよっぽど羨ましい。
 しかし、それが同時に泰我にとっては重い枷となっているのだ。
 夢を語ることも許されず、敷かれたレールの上を歩くだけの人生はつまらないだろう。
 今ならば、泰我が髪を染めて乱暴にふるまっている理由が分かる。それはきっとささやかな反抗なのだ。
 あまり自分を語りたがらない泰我が弱音を聞かせてくれたことが嬉しく、周は泰我の頭を宥めるようにぽんぽんと叩いた。
「だけどそれも事故を起こして全部パァだ。もう誰もレーサーとしての僕の名前を覚えてる人なんていないよ」
「そんなことねぇだろ。今からだって復帰すれば」
「無理だよ」
 周は苦い気持ちで微笑んだ。まっすぐな泰我の言葉はときに眩しく、鋭利に胸を衝く。
「どれだけリハビリをしてもこの傷が完全に消えることはない。僕はもう二度と車に乗って風を感じたり、力いっぱいアクセルを踏みしめて走ることなんてできやしないんだ……」
 右足をさすり、述懐するように呟く。それは何度も自分に言い聞かせてきたことだ。
 そうやって割り切らなくては生きてゆけなかった。もしかしたら、なんて叶うともしれない希望に縋って苦しい道を選ぶことから逃げた自分への言い訳だ。
「見せてみろ」
 すると、泰我がおもむろに口を開いた。
「いいから。見せてみろって」
「うわっ! 何だ! 何する……」
 泰我の手が周のズボンにかかる。手早くベルトを外され、引き下ろされる。「あっ」と叫ぶ間もなく腰を抱かれ、太腿まで抜かれてしまった。
「寒い! 寒いから止せって! 脱がすな!」
 泰我の腕の中で暴れるも、泰我はがっちりと周を抑えたまま、もう片方の手で確かめるように周の大腿をさすってきた。
「綺麗な脚だ。白くて、滑らかで……俺の手に吸いついてくるみてぇだ」
「何言って……」
「ちゃんと見てみろよ周。これのどこに傷があるって言うんだ」
「お前の目は節穴か……あるじゃないか。こんなに大きく」
 周は溜め息混じりに、膝から太腿へ駆け上る傷痕を指差した。しかし、泰我は首を振る。
「いやねぇな。俺には見えねぇ」
「お前な……」
「ふん。俺が白いって言えば黒いもんも白くなんだよ。いいからそういうことにしとけって」
「調子に乗りやがって……」
 周は下唇を噛んだ。笑いを噛み殺すためだ。
 いつもながらの泰我節がこんなに心強く感じるなんて。自分もたいがい末期かもしれない。
「もう気は済んだだろ。ああもう触るなまさぐるな! 気持ち悪い!」
 いつまでも足を撫でさすっている泰我に焦れて、周は声を荒げた。
 すると、泰我は急に不穏に声を低めた。
「……あいつには触らせてたくせに、俺には駄目なのかよ」
「あいつって……?」
 周は首を傾げた。
「藤城って言ったか? あの眼鏡のくせぇインテリヤクザ」
 その名を口にするのも嫌そうに、泰我は眉間に深く皺を寄せた。
「何話してたんだよ。あんなに必死な顔で食らい付いて」
 そこまで言われ、さっきの出かける前の一件のことだとようやく思い当たった。
「相談に乗ってもらってただけだよ。藤城は僕の後輩で、税理士だから」
「税理士?」
 泰我はますます怪訝に顔を顰めた。
「なんで税理士に用があるんだよ」
「それは……」
「俺には言いたくねぇってか。俺には関係ねぇって?」
「生徒の耳に入れるようなことじゃない。気にするな」
 周は静かに首を振った。余計なことを言って泰我に心配をかけたくない。
「フン、生徒……かよ」
 泰我が面白くなさそうに呟く。
 後頭部を掴まれ、「え?」と振り向いた瞬間、強引に唇を塞がれた。
「ん…? ンぅ?」
「周は生徒だったら誰とでもこういうことすんのかよ」
 呼吸を塞がれること六秒。音を立てて唇を離した泰我は、挑むような視線を周に向けた。
「……っ、何言って……」
「本当は気づいてるくせに。よく言うぜ」
 そして、もう一度キスを仕掛けてくる。今度は唇を甘噛みするような柔らかいキスだ。
「周をもっと知りてぇ。この傷も、体も唇も全部だ。俺の知らない周をもっと見てみてぇ」
 正面から熱っぽい目で見つめられ、周は思わず抵抗を忘れてしまった。
「好きだ、周。俺のもんになれよ」
「な……、な……?」
 それを言われたときはパニック寸前だった。
 恥ずかしい話だが、生まれてこのかた、こんなストレートな告白を受けたのは初めてだったのだ。
(好き? 何が? 泰我が? 僕を?)
 脳内の情報処理が追いつかず、目を瞬かせていると、
「何だよ今さら。気に入った、って最初に言ったよな俺」
 と言って、泰我が不思議そうに首を傾げる。
「あれはそういう意味じゃないだろう! だってお前」
「キスだってしたじゃねーか。今も」
「それは……っ! お前が無理矢理」
「でも、嫌じゃなかったんだろ? 本気で嫌だったら殴ってでも止めればよかったんだ。こないだだって……。でも、周はそれをしなかった」
「違う……そんな、僕は……」
 泰我がにやにやと笑って、右手で頬を包んでくる。
 まるで蛇に睨まれた蛙だ。頭が真っ白になって、うまく言葉が返せない。
「どうして僕なんだ……どうして急にこんなことを言う。からかってるなら他をあたってくれ」
「からかってなんかねーよ。俺はお前に惚れた。だから俺のものになれっつってんだ。以上」
 泰我は簡潔に言い切って、再び周の口を塞いだ。今度は舌が入ってきた。
「んっ…ンぅ…? んっ?」
 驚いて舌を引っ込めるも、すぐに泰我が追いかけてきて強引に吸い出されてしまう。
 ぴちゃぴちゃとした水音が耳の近くで響いている。咥内をくすぐるように泰我の舌が好き勝手に動き回る。
 ありえないありえない、こんな――。
「俺をここまで本気にさせたのは周が初めてだぜ」
「はっ…ぁ、は……」
「前も思ったけどよ。周、キス下手くそすぎ。もしかして初めてとか言わねぇよな?」
「う、うるさい!」
 ようやく唇を離されたときは息も絶え絶えだった。
 泰我は目を細めて笑い、なおも下唇をむにむに噛んでいる。ぞくっとするほど色っぽい瞳に見つめられ、周はようやく泰我の意図していることに気づき、唾を呑んだ。
 これは、もう冗談なんかでは済まされない。
「だ、駄目だ。僕は教官で、半井くんは生徒だ。こういうのは」
「泰我って呼べよ」
 泰我は周の体を床に押し倒しながら言った。
「俺だけ名前で呼んでんの。ずりぃ」
「ずるいって……」
「呼ばなきゃ止めてやんねー」
 泰我の顔が周の胸へと下りてくる。と同時に、冷たい手で股の間をまさぐられ周は一気に硬直した。
「うわっ…、あっ……どこ触ってんだバカっ!」
「俺はバカって名前じゃねーよ」
「……ぁ、あっ……」
 泰我の手の平が、下着の上から周の局所の形をなぞるように撫でてくる。
 駄目だ。これ以上は本当に。まずい!
「っ……た、泰我! 止めろ!」
 恥を忍んで思い切って呼ぶと、泰我は目をぱちくりと瞬かせて、僅かに頬を染めた。
「やべぇ……想像してたよりクんな。周、手貸せ」
「え……?」
「いいから」
「うわっ!」
 泰我の手が、己の下半身へと周を導く。
 分厚いスウェット越しにも感じた熱い息吹き。固い感触。
「な、なに触らせ…」
「なにって分かるだろ? 周に呼ばれただけで勃っちまったんだ。責任、取れよな」
 泰我が恥ずかしそうに笑う。周は信じられない気持ちで、唇を戦慄かせた。
「冗談だろ? どうして男の僕で勃つんだよ。お前、ゲイだったのか?」
「違げーよ。周だから勃ったんだ。それぐらい分かれよ」
「分かるかよ! 信じられない……こんな、こんな……」
 泰我の手を振り払い、周は両手で顔を覆った。同じ男に欲情の対象として見られていただなんて。しかし、それ以上にショックだったのは、それを告げられて不思議と嫌悪感が沸かなかったこの体だ。
 どうかしてる。泰我の熱を直に感じて、伝染してしまったように肌が火照って仕方ない。
「往生際悪ぃな。俺は周が好きだっつってんの。だから諦めて俺のもんになっちまえよ。可愛がってやるからよ」
「やっ、……ぁ」
「それとも何だよ。俺のこと嫌いなのかよ」
 泰我の長い指がするすると下着の中に入り込んでくる。周は慌ててその手首を掴んだ。
「好きとか嫌いとか……それ以前の問題だよ。僕は、お前をそういう目で見たことなんて一度もないし、男だし、お前よりずっと年上だし……っぁ」
「俺のこと嫌いなのか?」
「うっ……」
 泰我が上目遣いで聞いてくる。こんなときだけ、子供っぽい表情で。――反則だ。
「……嫌い、では……ないけど」
「ならいいじゃねーか。しよーぜ。動けば体もあったまるしよ」
「いやいや待て待て。落ち着けって。違う。おかしいだろ。だからってこういうのは」
 恥ずかしさに頭が沸騰して自分が何を言っているのかも分からない。
「周……」
 泰我が少し呆れたように名前を呼んでくる。
「いいからもう、お前、黙れ」
「うっ――ンッ!」
 もう何度目のキスになるだろう。
 泰我の胸を叩き抗議しても、泰我はまったく聞く耳をもたない。
 噛みつかれるような、魂まで根こそぎ奪われそうなキスだ。こんなの、何度もしていたら正気が保てなくなってしまう。
「大事にする。痛くなんかしねぇから安心しろ」
「う……、あ……」
 キスを終えた泰我の手がいよいよ直接周のペニスを握り込んでくる。
 初めて他人の手でそこを握られ、ゆるゆると上下に扱かれて、周は果てしない羞恥と緊張とざわめく快感に翻弄された。
(やばい、このままじゃ……流される!)
「あっ、ダメだ……やめろっ……」
 震える手で泰我の腕を掴むと、
「なんだよ。ノリ悪ィな。こういうときぐらいムード出せねぇの?」
 と言って、泰我がますます手の動きを早め、追い上げてくる。
「無理、言うな……っ」
 周は上体を仰け反らせ、魚のように喘いだ。
 ぶるぶると全身が震え、すっかり力が抜けてしまったように腰から下に力が入らない。
 こんな、他人の手でされるのがこんなに気持ちいいだなんて。
「固くなってきたな。気持ちいいんだろ? 周」
「ちがっ……」
「口からも、こっちからも涎零しといてよく言うぜ」
 泰我が好色な笑みを浮かべ、舌なめずりをする。溢れ出てきた先走りを指先に絡め、幹を扱かれると、クチュクチュといやらしい音が響いた。
「あっ…あ、アッ…っ」
 爪先が床を滑っていく。中途半端に脱がされたズボンが膝の下でたわんで、周の足枷となっていた。
 泰我の指が敏感な先端を円を描くようにしてゆする。ひっきりなしに涎を零す割れ目を親指でほじくられ、過ぎる快感に周は「ひっ」と喉を引き攣らせた。
「待っ…まって、泰我っ……」
 泰我の肩を掴む腕はもう何の力も入らない。
 かちかちに火照って反り返ったペニスを、泰我がとどめとばかりに、二、三度大きく扱き上げる。
 途端に全身を電流のような痺れが駆け上った。
「ぅあっ、あ……ダ、メだ……も、出……」
「いいぜ。イケよ」
「い、いやだ……見、るな…ぁ、やっ…」
 咄嗟に腕を交差し、顔を覆い隠す。
 そんな、溜まっていたわけでもないのにどうしてこんなに早く。嘘だ。嘘だ――
「アッ…あっ、あ……んぁ!」
 がく、と顎が仰け反る。と同時に一気に尿道口が爆ぜ、精液が切れ切れに迸った。
「はっ……ぁ、っは……」
 周はそれを信じられない気持ちで見守った。
 出してしまった。泰我の手に。七つも年下の生徒に弄られて、イッてしまった。
 こんなことってあるか。
「何だよ、泣くなよ。なんだか悪いことしてるみてーじゃねぇか」
「泣いてない!」
「あー、はいはい。っていうか、もういいか? 俺もそろそろ限界なんだけど」
 泰我が切羽詰まったような声で囁いてくる。
「何がだよ。まだ何かするつもりか!」
 これ以上好き勝手されてたまるか。
 周は泰我の腕の下で力の限り暴れた。しかしイッたばかりで力の入らない腕力では到底叶わない。周は悔しさに唇を歪め、きつく泰我を睨みつけた。
「当たり前だろ。まだ始まってもねぇじゃねぇか」
 泰我は怯んだ様子もなく、再び周の耳に顔を近づけてくる。
「最後までするつもりはなかったんだけどよ。周の顔見てたら、我慢できなくなってきた」
 耳朶に直接低い吐息を吹き込まれ、周はぞくぞくと背筋を震わせた。
 そして嫌な予感を湛えつつ、恐る恐る訊く。
「す、するって…?」
 これ以上何を? 見上げた視線はきっとさぞ怯えていたことだろう。
 泰我が小さく噴き出した。「わかってるくせに」と言いながら、周の尻に手を回し、
「周のここに、俺のを挿れる」
 固く閉じたままの蕾をとんとん指先で軽く叩いてきた。
「じょ、冗談だろ」
 周は声を震わせた。
「冗談じゃねーよ。俺は嘘は嫌いだ」
「む、無理だ。そんなの、絶対入るわけない」
 下着を引き下ろした泰我の、天井に向かってそそり立つ逸物が視界の端に映る。
 周は、ごく、と唾を飲み込んだ。
 知識としてなら知っている。男同士では肛門を使って愛し合うのだ。けれど、まさかそんなことが自分の身に降りかかってくるだなんて思ってもみなかった。
「慣らせばイけるって。なぁいいだろ」
「イッ…! 何、入れ」
「何って指?」
 泰我がしれっと答える。周はかぁ、と羞恥に頬を染めた。そんな汚いところによく指を入れられるな、とか、もういい加減にしろ! とか、言いたいことは沢山あるのに、体の奥深くを探るように抉られ、引き攣った吐息を零すので精一杯だ。
「すぐ気持ちよくしてやるからよ。まかせとけ」
 泰我が興奮した面持ちで、乱暴に中の肉を押し広げてくる。指はいつの間にか二本に増やされ、周の吐き出したぬめりを助けに、ぐちぐちと抜き差しが始まる。
「痛っ…ぁ、う……やめ、やめろっ……泰我っ」
「そう言われてやめる馬鹿がいるかよ」
「な……っ、あ、ぁ……」
 そして、つぷん、と勢いよく指が引き抜かれ、代わりに熱い昂ぶりが小刻みに撃ち震える蕾に宛がわれる。
「これが終わったら、何でも周の言うこと聞いてやるからよ。いいから大人しく抱かれとけって。一生不自由はさせねぇ。俺が死ぬまで嫌ってほど愛してやる」
「あ……」
「そう、力抜いとけよ」
 力強い言葉とともに、泰我の先端がぐっと押し当てられる。
 自信たっぷりなその宣言に、周は泰我が超のつく大企業の御曹司であることを思い出した。
(もしこのまま抱かれたら……)
 ふと頭をよぎったのは汚い考えだ。何でも言うことを聞いてやる――不自由はさせない――もし、このまま泰我を受け入れて泰我の寵を得ることができたら。
(いや、駄目だ!)
 そこまで考えて、周はきつく目を瞑った。
 借金の代わりに体を売るなんて、最低なことはしたくない。
「いっ……、嫌だ! 離せ!」
 気がついたら最悪のタイミングで、泰我を力の限り突き飛ばしていた。
 はあはあと荒く呼吸をしながら、シャツを拾い、部屋の隅へと尻をついたまま後ずさる。
 泰我が呆然としたように顔を上げた。
「……んだよ、泣くほど嫌なのかよ」
 ぼそりと傷ついたように呟かれ、周はそこでようやく自分が涙を流していることに気がついた。
「違う……」
 慌てて目元を拭い否定するも、震える声ではちっとも説得力がなかった。
 泰我が嫌いなわけではないのだ。ただ、自分の気持ちが分からない。このまま流されてしまえば楽なのは分かっている。
 けれどそれでは自分に納得がいかないのだ。
「ごめん……でも、本当に、これだけは」
 拭っても拭っても溢れてくる涙を、周は持て余した。
 こんなに感情が揺れて歯止めが利かなくなるなんて、大人になってから初めてのことだ。
 泰我が戸惑っている気配を感じる。さすがに呆れられただろうか。面倒臭いと思われただろうか。
「あー……悪ぃ。俺も悪かった。さすがにちょっと焦りすぎた」
 しかし、泰我の口から出たのは意外にも謝罪の言葉だった。
「泰我……」
「泣くなって。んだよこれ。俺が泣かせてるみてーじゃねぇか」
 忌々しげに呟き、泰我が眉を寄せる。いつもは自信満々な泰我が、こんなに弱気な顔を見せるなんて。
 申し訳なさに、周はますます体を縮こまらせた。
「こっち来いよ、周。もう何もしねーから」
 泰我が四つん這いになって、部屋の中央から手招きをしてくる。
 周は首を振ることしかできなかった。
 泰我をこんなにはっきりと傷つけて、今更どの面下げて泰我の腕の中に戻れというのか。
「……ったく、仕方ねぇなぁ」
 部屋の隅でじっとしていると、業を煮やした泰我がゆっくりと立ち上がる。
 そして周の前までやってくると、その場でしゃがみ、背後から優しく抱き締めてきた。
「俺、待つからよ。絶対ェ、周を俺に惚れさせてみせる。だから……こっち向けよ」
 薄いプレハブの壁が、吹雪の風に負けぎしぎしと揺れる。
 耳元に感じる白い吐息と、背中に覆い被さる温かな肌の感覚。
 裸のランプが照らす頼りない明かりの中、宥めるように髪を撫でる規則正しい手つきに、周は次第に瞼を落としていった。