虎と朝までドライビング

7.

 結局その日は教習所に保之は戻らず、権利書が見つかることはなかった。
「で、どうするつもりなんですか?」
「ごめん。もう少しだけ待ってもらっていいか? 明日、父さんが帰ってきたら必ず」
 周はそう言って藤城に頭を下げた。仕事を終えたあと、心配してわざわざ出向いてくれたのだ。教習所のロビーで「ごめん」ともう一度深く謝る。
「私は構いませんけれど、担保の受け渡しが遅れればそのぶん融資可能額がマイナスされる恐れがある。この世界の取引はすべて信用で成り立っているんです。それは分かっていますよね?」
「ああ」
「この業者を逃がしたら、もう他に先輩にお金を貸してくれるところはないかもしれません。そうしたら自己破産だ。私としても先輩にそんな道を勧めたくはないんですが」
「自己破産って……」
 周は思わず反芻した。それは口にするだけでぞっとする響きだった。
「表に出ましょう」
 藤城がソファから立ち上がって、くるりと背を向ける。周に気を遣ってくれたのだ。ロビーでは、どこで誰が聞き耳を立てているか分からない。
「自己破産って……この教習所を閉校するってことか?」
「それだけで済めばまだいいほうです。家や土地、すべてを差し押さえられ、先輩は今後一生保険に入ることも、選挙に行くこともできなくなる」
「そんな」
 淡々と答える藤城に、周は言葉を失った。
 よくテレビのドラマやニュースなんかで見たことがある。多重債務者がたどる最悪の末路だ。
「どうすればいいんだ……」
 周は震える指で藤城のスーツの襟を掴んだ。
「助けてくれ藤城。そんなの嫌だ!」
 まさに藁にも縋る思いだった。
 夜間教習用のライトが照らす、雪の降りつもった狭い所内のコース。父が築き、今まで必死に守ってきたものが、粉雪のようにはらはらと音もなく崩れていってしまう。
 そんなの、絶対に嫌だ。
「大丈夫です。先輩には私がついていますから。そんなことは絶対に……」
 藤城の腕が周の肩に回る。力づけるように優しく肩を抱かれ、周はこくんと頷いた。
 胸は不安でいっぱいだけれど、今は藤城の言うことを信じるしかない。どうにか、どうにか閉校の危機だけは免れなければ。
「……っ!?」
 そのときだった。ボスッ、と鈍い音が響いて、藤城が咄嗟に横面を掌で庇った。
 もう一撃。今度は藤城の背中だ。黒い上等な布地のコートにぶつかり、周の足元に転がる。それは、よく固められた拳大のサイズの雪玉だった。
「なんだね、君は」
 藤城が雪で汚れた眼鏡を外しながら、暗闇に視線を向ける。
「テメェこそ何者だ。くせぇにおいがこっちまでブンブン匂ってきやがるぜ」
「何を言って……」
 ライトの下に現れたのは、赤い髪だった。
 周は「あっ」と息を呑んだ。すっかり忘れていた。
 次の教習をずっと外で待っていたのか、泰我は赤い鼻をして、ずかずかと歩み寄ってくる。
「俺は今からこいつに用があるんだ。返してもらおうか」
 そして、藤城の前に直立し、ガンを飛ばす。上背は僅かに藤城に及ばないものの、その迫力といったら普通の人間なら思わず失禁してしまいそうなほどだ。
 あーあ、と周は頭を抱えた。まずい。なぜだか知らないけれど、泰我の不機嫌メーターがいきなりMAXに振り切れている。
 しかし、藤城は気丈にも譲らなかった。
「何だい、その言い方は。君、ここの生徒だろう? どうして先輩をこいつだなんて」
「うっせぇなぁ。いいから引っ込んでろよ、このインテリヤクザが」
「なっ……」
 鼻白む藤城を横目に、泰我は「ふん」と顔を背け、
「おら、行くぞ周」と言って周の腕を引いた。
 止める間もなくずるずると引きずられる。こうなってしまった泰我は止めても聞かない。
 周は呆気に取られる藤城に向かって、両手を合わせた。
「悪い、藤城。これから教習なんだ。さっきの話はまた今度」
「先輩!」
 藤城が声を張り上げる。泰我は構わず、周を荷物のように教習車に押し込んだ。



(怒ってる……? 怒ってるよな……?)
 周は助手席で泰我の顔色を窺い見ながら、「なんでだよ」と心の中で低く呻いた。
 初の路上教習だというのに、泰我はむっつりと黙ったまま、ちっとも嬉しそうな様子を見せない。
(仮免取得おめでとうって言ってやりたかったのにな)
 周は窓枠に頬杖をついた。
 泰我が仮免許の取得に向けて、検定試験の勉強に励んでいたことを知っていたからだ。
 大きな体を丸めてロビーの自習用パソコンの前に座り、虚ろな目つきで標識の種類を念仏のように唱えている姿は、生徒と問わず教官達の間でも専らの評判だった。
 お節介の虫が出たのは、そんな泰我の勉強を心から応援してやりたくなったからだ。
 七時限目を終え、生徒がみな帰った教習所に泰我を残らせ、ここ数日は毎晩つきっきりで勉強を見てやった。
「意味分かんねー」「こんなの覚えて何の意味があるんだよ」そう口癖のように呟く泰我の頭をボールペンの頭で引っ叩きながら、何度も根気よく教え続けた。
 そのかいあって、泰我は学科の検定に見事満点で一発合格。技能教習の「みきわめ」はこちらも周直伝のものなので無論余裕で合格だ。
(少しぐらい感謝してくれてもいいと思うんだけどな……)
 ちら、と泰我の横顔を盗み見る。泰我は車を発進させてから一言も喋らない。そればかりか一度も周を見ようともしなかった。
 初めての路上教習は夜でアイスバーンでそのうえ吹雪だ。視界は五メートル先も開けていないように感じる。
「大丈夫?」
 周はふと気になって声をかけた。泰我は相変わらず無言だ。怒っているのか? いや違う。これは――
「もしかして怖いの?」
 問いかけると、泰我はびくっと肩を震わせた。
(あ、ビンゴ……)
 周は心の中でひゅうと口笛を吹いた。
「たしかに初めての路上が雪道だなんてツイてないかもしれないけど」
 周は込み上げてくる笑いを噛み殺しながら言った。
「雪のおかげで道路の白線も見えないし、対向車も全然いないから、ま、気楽に運転しなよ。大丈夫大丈夫」
「うるせぇ。怖くなんかねーよ。何言ってんだバカ」
 やっと口を利いたかと思えば、これはまた可愛らしい強がりだ。
 きょときょとと忙しなくあちこちに視線を遣っている泰我は、まるで野生の動物のようだ。所内での運転には随分と慣れてきたと思っていたが、やはり実際に外の道を走るのは勝手が違うらしい。
 何度か信号を見落として赤信号を驀進したときは、さすがの周もひやっとした。今日が夜で吹雪で、他に車がいなくて本当によかった。
「うおっ!」
 だから、ある程度のハプニングは想定していたのだ。
 交差点のど真ん中で泰我がエンストを起こしときも、危うく民家のブロック塀にミラーを擦りかけたときも、「まぁ、あるある」と周は生暖かく見守っていられたのだが。
 ――これは少し話が別だ。
「おい、嘘だろ」
「……」
「普通突っ込むか? 田んぼ。頭から」
 がくん、と大きく前に傾いた車内で、周は呟いた。ここまで来ると驚嘆レベルだ。
 おっかなびっくりに雪道を走っていた泰我が、少し慣れてきてスピードを出し始めた矢先の出来事だった。
 山道を抜けて教習所へ帰る途中の道だ。両脇に広がる田んぼと道の区別もつかなかったのか。
 泰我いわく「全部真っ白で、どこまでが道かなんて分かるわけねぇだろ!」との逆ギレだ。
「仕方ない。外出て。引き上げてみよう」
 周はシートベルトを外し、やれやれ、とドアに手をかけた。
 すると、泰我が殊勝にも「俺がやる」と言い始めた。さすがに責任を感じているらしい。
「周は運転席入っとけよ」
「一人で大丈夫か?」
「だって仕方ねぇだろ。田んぼ、泥で汚れるし」
 そう言って、泰我はさっさと車から出ていってしまった。
 開け放したドアの外は猛吹雪だ。車内との温度差にフロントガラスが一気に曇る。
(……ったく、こういうところで変に優しいんだからな)
 車内のエアコンを切り替えながら、周は思った。ワイパーを出し、ようやく開けたフロントガラスの向こうで、膝まで田んぼに浸かった泰我が車を持ち上げようと奮闘している。
 周はエンジンをかけた。駄目もとでバックを試みる。しかし、やはり車はびくとも動かなかった。完全に前輪が田んぼに埋まってしまっているらしい。
「どうだ? 周」
「駄目だ。全然動かない」
「ちくしょう……」
 窓を開け、答えると、泰我は両腕でこれでもかというほど強く車を押した。
「こんなところで負けてたまるかよっ!」
 フロントガラスの向こうで赤い髪が揺れている。そこに徐々に雪が降り積もっていくのを見ていられず、周は「いいよもう。諦めよう」と声をかけた。
 しかし、泰我は「嫌だね」と言って取り合わない。
「俺は中途半端なとこで諦めんのは絶対ェ嫌なんだよ!」
 うおぉぉ、と声を上げて、泰我が車を押す。
 そのひたむきな姿に、周の胸はちくりと痛んだ。
 泰我はどうしてそんなにいつも強くいられるのだろう。頑固で一本気で誰よりもプライドが高くて――絶対に自分の意思を曲げないその強さはどこから生まれてくるのだろう。
 周は下唇を噛み、たまらず車から飛び降りた。どうしようもないと努力する前から諦めて、あっさり匙を投げていた自分がなんだか恥ずかしい。
「周っ、お前……乗ってろって言っただろ」
「手伝うよ」
 泰我の隣に並び、一緒に車を押す。
 うまく踏ん張れない右足では、ちっとも力にならないかもしれないけれど、このまま黙って見ていることはできなかった。
「風邪引いても知らねぇぞ」
 泰我が少し苛立ったように言う。
「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ」
 周は目線だけを泰我に遣り、挑発的に微笑んだ。
 何故だろう。泰我といると眠っていたはずの、勝気で前向きだったあの頃の自分が蘇ってくる。
 何にも怖いものなんてなかった。自分の力だけを信じて、限界に挑戦し続けたあの頃の強さが、両腕に戻ってくる。
「せーの」
 視界ゼロの猛吹雪の中、周は三年ぶりに腹の底から大声を張り上げた。