虎と朝までドライビング

6.

「うわー!」
 頬に感じたリアルに感触に、周は布団から飛び起きた。
 ちゅんちゅんと裏山から小鳥の鳴く声が聞こえる。爽やかな朝だ。結露した窓枠の向こうは昨夜また一気に降り積もったのか、一面の銀世界だ。
「ゆ、夢……? 夢だよな?」
(むしろどうか夢であってほしい!)
 周は昨夜起きたありえない出来事を思い出し、布団の上で身悶えた。
 一晩寝れば忘れるだろうと思っていたのに、夢の中にまで出てきてしまった。
 最悪だ。頬を押さえると、まざまざと真新しい記憶が鮮明に蘇る。
 ライトに照らされた静かな夜のコース。教習車を指定の位置に停めた泰我は「さて」と切り出した。
 周の予想を裏切り、宣言通り一発で縦列駐車をクリアした泰我は得意げな表情で言ってくる。
『早くしろよ』
 何の罰ゲームかと思った。「何のこと?」とすっとぼけてみるも、泰我は許してくれなかった。
『汚ねーぞ。今更逃げるつもりか?』
 焦れた泰我が圧し掛かってくる。周は助手席で絶体絶命のピンチを迎えていた。
 だって、そんな。男が男の頬にキスをするなんて。そろそろ冗談は終わりにしたほうがいいんじゃないかなぁ、うん。
 そんなことを思いながら、だらだらと冷や汗を流していると、
『してくんねーなら、俺からしちまうぞ』
『待っ……』
 言うより早く、頬に生暖かい触感が走る。
 周はひっと喉を引き攣らせた。
 舐めた。今、舐められた。ざわざわと全身に鳥肌が立つ。
『約束破るつもりかよ周。俺ちゃんと一発で決めたろ? ご褒美くんねーの?』
 耳元に口付けられんばかりの近さで、泰我が顔を寄せてくる。
 なんで。どうしてこんな事態になっているんだ。あの口約束は冗談だったんじゃないのか? まさか本気で?
 周は混乱する頭で必死に考えた。
 泰我が何を考えているのか分からない。冗談ばかり言っているかと思えば、ふいに甘えたように真剣な表情を見せる。
 ただ唯一分かるのは、自分から泰我の言う「ご褒美」を与えない限り、この絶対的に不利な状況から逃げられそうにないということだ。
 暗く人気もまばらなコースで、車の中に二人っきり。普段だったら何も思わないごくありふれた仕事のワンシーンだが、泰我が耳元で囁いてくる『周……』声が、身に纏うただならぬ雰囲気が――。一言で言えばパニックだったのだ。
『……これで、いいだろうっ?』
 ヤケになって施したのは、泰我の頬を掠るだけの瞬間的なキスだった。胸倉を引っ掴んで、用が済んだらどん、と強く押した。
 約束は果たした。これで満足なはずだ。これ以上何の文句がある。
 しかし、泰我は周の顎先をとらえ、なおも傲岸に言い放つ。
『……そんなの、キスしたうちに入んねーよ』
「だーーーー!!」
 そこまで思い出し、周は枕を握り締め、バンバンと布団の上に叩きつけた。狭い六畳間に埃が舞い飛ぶ。
 駄目だ。これ以上は思い出したくない。
 耳の遠くでピピピ、と目覚まし時計が鳴っている。
(これからどうしろっていうんだよ……)
 起床時刻を知らせる電子音に、周は深く顔を枕に沈めた。
 そっと、厚く腫れぼったい唇をなぞって、「うわぁ」と身悶える。それは、やめろと言っても聞かず、泰我に執拗に吸われた痕だ。
(なんでこんなこと……)
 周は果てしない後悔と自己嫌悪に見舞われた。
 ほんの口約束からの遣り取りとはいえ、生徒とキスをしてしまった。それも男だ。ありえない。まだ泰我の教習は半分も残っているというのに、これからどうやって顔を合わせればいいのか。
(いや、待てよ)
 周はむくっと上体を起こした。落ち着いてよく考えてみろ自分。
 昨日は突然のことに訳が分からなくてなって考える余裕もなかったけれど、あの妙に場慣れしたようなキス――唇を執拗に食むだけでは飽き足りず、あまつさえ舌を……舌を!
 さては今まで相当に遊んできたに違いない。周は「フフ」と低く笑った。まだ二十歳にもなっていないというのになんて末恐ろしい男だ。
 女は嫌いだと言っていたから見かけによらず硬派なタイプなのかと思っていただけにショックだ。ショック? いや違う。日本の将来が不安になっただけだ。
 そもそも「気に入った」とは言われても、それは舎弟としての意味だ。時折ふっかけてくる際どいセリフも、全て自分の反応を見て楽しんでいるだけに過ぎない。
(これは完全に、遊ばれているよな……)
 周はがくっと項垂れ、ようやく目覚まし時計のアラームを止めた。
 ここで下手に反応を返したら負けだ。あくまで普段通り普段通り。泰我は完全に自分を馬鹿にしているから、たまには年上の余裕というものも見せ付けてやらねば。
 とりあえず昨夜のことは忘れる!
「よし」
 周は頬を叩き、あと十日間を戦い抜く決意を新たにした。



 どうにか始業時刻ぎりぎりに事務所に滑り込むと、近藤が「あ」と顔を上げて周に電話を取り次いだ。
「藤城さんって方から」
「藤城から?」
 走ってきたせいで弾む息を抑え、周は「もしもし」と受話器を耳にあてた。
「おはようございます、先輩」
「ああ、おはよう。どうしたんだ、こんなに朝早くから」
「先輩の声が聞きたくなりまして」
 藤城が掠れた吐息を受話器越しに響かせる。周が無言でどん引きしていると、すぐに
「……冗談ですよ」と藤城。
「わかってるよ。お前が冗談を言うなんて珍しいなと思っただけだ。それで? 何の用だ?」
 受話器を肩で挟み、周はパソコンを立ち上げた。ぱらぱらと溜め込んだ書類の山を捲る。
「前にお話した権利書の件ですが」
「あ……」
 そうだ。忘れていた。「できれば早く持ってきてもらいたい」要約すると、藤城の電話の用件はそれだけだった。言葉巧みに会話を進めていくものだから、ついつい余計なことまで長電話してしまった。藤城は昔からこんなに饒舌な男だっただろうか。
 苦笑いとともにようやく電話を切ったときは、もう一時限目の教習開始を報せるチャイムが鳴っていた。
 周は立ち上がり、手近なキャビネットの中を漁った。裏山の土地の権利書。呟きながら、かすかな記憶を頼りに探す。
 父子二人暮らしで荒れ放題の家の箪笥に眠らせておくよりかはいくらかマシだと、事務所のファイルを拝借して、事業登記書類と一緒にしまっておいたはずだ。
(問題はそれをどこにやったかなんだよ)
 所長席を見渡すも、保之は今日も出払っているのか、姿は見えない。周は仕方なく所長席の周囲の棚を徹底的に調べることにした。
 埃被ったファイルの背表紙を指でなぞり、上から下までしらみつぶしに当たっていく。
 仕事の関係書類に混ざって、なぜかその中には周の高校時代の卒業アルバムまで保管されていた。その隣の黄ばんだ背表紙は中学時代の文集だ。
(なんでこんなものとってあるんだよ……)
 せめて家に置けよ家に!
 周はかぁ、と羞恥に頬を染めつつ、つい好奇心が勝って文集を手にとってしまった。
 記憶を頼りに自分のページをめくってみる。そっと覗き見て、すぐに「ああ」と後悔に襲われた。
 「将来の夢」と題した青臭いテーマの文集だ。それだけでも恥ずかしいのに、しかも何を考えたのかご丁寧にイラストつきだ。
「カーレーサーになって有名になった僕」と書き添えられた横で、「将来の僕」と思しき宇宙人と、髪の長い女性のエイリアンがこっちを向いて笑っている。
 ――これは母を描いたものだ。
 周は直感的にそう感じた。まったく覚えていないが、あの頃はただ有名になって、誰よりも速く走って、母が移り住んだという東京まで辿り着くことができたら、母がもう一度会いにきてくれる。そんな馬鹿みたいなことを夢想していたのだ。
(本当に、馬鹿だよ……僕は)
 周は黙って文集を閉じた。やっぱり見なければよかった。過去なんて思い出すものではない。
 下の引き出しを開けると、今度は保之ご自慢の天然石のコレクションが所狭しと顔を出した。父さんったらこんなところにまで……がっくりと脱力し、引き出しを閉めかけたときだった。ふと、その中で青黒く光る鉱石に目が惹かれた。
 昨日、泰我がじっと見つめていたものだ。黒い石肌に切なく眉を寄せた自分の顔が映り込む。この石の美しさに今まで気づくことがなかったように、自分もまた埋もれ、そこに在ったことも忘れ去られていくのだろうか。
 西郷の村という狭い引き出しの中で、このまま一生深い雪に閉ざされて……――
「周ちゃん、ちょっといい?」
「え、あ、はいっ!」
 突然、背後から近藤に呼びとめられ、周は弾かれたように背筋を正した。
 両手で引き出しを閉め、元に戻す。
「何か探し物? 今、忙しいかしら」
「いえ、大丈夫です。どうしたんですか?」
「それがね……」
 近藤が浮かない顔をして口を開く。周は思わず素っ頓狂な声で聞き返した。
「佐々木さんが辞めた?」
「ええ、そうなの。私達に何の挨拶もなしに突然」
 近藤がほぅと溜め息をつく。
「なんでも急に引越しが決まったとか。ご家庭の事情なら仕方ないとは思うんだけれど、せめて挨拶ぐらいは……ねぇ」
 近藤はそう言って、組んだ腕の上で指を苛立たせていた。その気持ちは周も分かる。長い間ともに働いた仲間が辞めると知っていたら、送別会のひとつでも開いてやりたかったものだ。
「それでね、周ちゃん」
 近藤はなおも言い募る。
「何か変わったことは起きてない?」
「え?」
 質問の意図が分からず、しばしきょとんとしたあと、「あ」と周は思い当たった。
 ――土地の権利書。
 いや、でもまさか。佐々木はそんなことをするような男ではない。
「やっぱり何かあったの?」
「いえ、そういうわけでは……」
 表情を曇らせる近藤に、周は咄嗟に否定した。たまたまタイミングが重なっただけだ。権利書がなくなったことを、何の証拠もなしに佐々木を疑いたくはない。
 近藤は唇を尖らせて言った。
「佐々木さん、薄々勘付いてたみたいよ。うちの業績。この分じゃ閉校も近いんじゃないかって、休憩室でみんなに噂してた」
「そんな……」
「もし閉校になったら、最後の数か月分のお給料が払われなくかもしれない。そうなる前に辞めたほうが得策だって教官の皆さんに説いて回ってたから、もしかしたら」
「今後、佐々木さん以外にも辞める人が相次ぐかもしれないってわけですか」
「そう。もちろん私はそんな噂、信じてないけどね。いたずらに不安を煽るわけにもいかないから」
 近藤が窺うような視線を周に向けてくる。
「でも、もし本当に閉校になんてぐらい悪いことが起きているのなら、一度みんなの前できちんと説明をしたほうがいいわ」
 そして、そう前置きした上で、近藤は優しく周の肩に手を置いた。
「何か本当に困っていることがあったら相談してね。私は周ちゃんの味方よ」
「近藤さん……」
 周は思わず返す言葉に詰まった。近藤が本当にこの学校のことを、自分のことを心配くれているのが分かって胸が詰まったのだ。
「ありがとうございます」
 小さく呟くと「あらいやだ」と言って、近藤がハンカチを差し出してくれる。
 藤城といい近藤といい、なんて自分は周囲の人間に恵まれて生きているのか。
 みっともなく鼻を啜りながら、周は一度でも生まれ育ったこの町を息苦しいと感じた自分を叩き割ってやりたいほどの後悔に襲われた。