虎と朝までドライビング

10.

 藤城の事務所は隣町の繁華街から一本外れた路地の、奥まった雑居ビルの四階にある。
 入り口に乱雑に放置された立て看板を退け、陰気な階段を上がると、すぐに「富藤城会計事務所」と書かれた金プレートの看板が目に入る。
 扉をノックすると、ほどなくして中から声が聞こえ、すぐに藤城が驚いたような顔をして周を迎えた。
「どうしたんですか? 先輩。突然」
 周は黙ってかつての後輩を見上げた。
 いくら事務所を構えているからといえ、所詮は片田舎の会計事務所だ。そこまで羽振りが良いとは思えないのに、藤城はいつも金色の腕時計をはめ、新調したばかりの高級ブランド物のスーツで身を固めている。
 どうして最初からその違和感に気づかなかったのか。通された応接用の革張りのソファはどれも海外の特注品だ。
「先輩から来て頂けるなんて、嬉しいです」
 藤城はそう言ってにこにこと笑い、周にコーヒーを淹れてくれた。
「藤城」
 周は固い声で後輩の名を呼んだ。
「何を考えてる」
「……え?」
 藤城がカップを手に持ったまま、固まる。
「正直に答えろ。父さんに保険金をかけたのはお前か?」
 周は出されたコーヒーには手をつけず、両膝に拳を置き、正面に座る男に静かに問いかけた。
「言ってる意味が分かりませんが」
 藤城が首を傾げる。
「どうしたんですか? 急に」
 藤城は変わらず平静な声で答え、ずず、とコーヒーを啜る。
「生命保険会社に問い合わせた」
 周は鞄から持参した書類を抜き取り、テーブルの上へ投げた。
「僕がサインした覚えのない書類に判子が押されている。これは、僕が藤城に預けた判子だ」
 ぐしゃぐしゃに握り締めた契約書の上に、ばん、と手をつき、周は藤城の顔を睨み上げた。
「どういうことだ藤城。僕に断りもせずこんなものに勝手に入って……何を考えてる」
 緊張と怒りから、語尾が震える。
 藤城だからと思って、判子を預けたのだ。すべては債務整理のために使うからと。
 その信頼を、藤城は裏切ったのだ。
「答えろ、藤城。僕はお前を嫌いになりたくはない」
 それは、血反吐を吐くような思いだった。
 どうか、違うと。何か事情があったのだと言って聞かせてほしい。
 だが、藤城の端正な唇が紡いだのはぞっとするようなセリフだった。
「死んでもらえればいいと思ったんですよ」
 いつもと変わらぬ穏やかな声。藤城はカップを置き、正面から周の目を覗き込んだ。
「だって、先輩を苦しめているのは先輩のお父様なのでしょう? 借金の元凶だ。だったら、その死でもって借金を返済してもらえればいい。そうは思いませんか?」
 藤城の唇が弧を描く。眼鏡の奥に見えた暗い光に、周は背筋を震わせた。
「言っている意味が分からない……」
「分かりませんか? 土地の権利書がなければ、先輩を救う手立てがない。私はすべて先輩のためを思ってしたんです。どこか間違っていますか?」
 周は思わずソファから立ち上がった。
「藤城! 一体どうしたっていうんだ、目を覚ませ!」
 テーブル越しに、藤城の肩を掴み力の限り揺する。自分の知る藤城はこんなことを言うような男ではない。
 一体、再会するまでのこの八年間に藤城に何があったというのか。
 借金返済のために殺し屋を雇うだなんて。狂っているとしか思えない。
「困りましたね……」
 ややあったあと、藤城はそっと周の手首を掴んできた。
「どうしてあなたはそうやっていつも私を理解しようとしてくれないんですか?」
「痛っ、藤城? 何を」
 ぎりぎりと手首を締め上げられる。
 周は慌てて藤城の顔を見た。
「私、言いましたよね? 先輩が好きだと。卒業式の日に」
 藤城は相変わらず無表情に、淡々とした声音を聞かせる。
「けれど、あなたは私に何の返事もしないまま、その翌日には逃げるように東京へ行ってしまった」
 藤城がテーブルを越え、周の体の上に圧し掛かってくる。
「やめろ…っ! 何するんだ」
 掴まれた腕を背中に折り曲げられる。そして、苦しい体勢のままソファにうつ伏せに押さえつけられ、周は声を張り上げた。
「私は八年間待ちました。三年前、先輩が西郷へ戻ってきたのは知っていましたが、声をかける勇気がなかった。私のことなどもう忘れているかと思って、確かめるのが怖かったんです」
「ふじ……しろ」
「けれど、先輩は私の名を呼んでくれた。昔と変わらぬ笑顔で……覚えていてくれた。それだけで私がどれだけ嬉しかったことか」
「いっ、嫌だ! やめろ藤城!」
 ビリ、と音がして、背中に冷たい風が吹き当たる。シャツを引き裂かれたのだ。
「何を今さら。あなたに拒否権などないでしょう。自動車学校がどうなってもいいんですか?」
「……っ」
 藤城の冷たい指先が、背中から腰のラインを確かめるように下りてくる。
 腰骨に音を立てて口付けられ、周はぞっと血の気を失った。藤城が何を求めているのかが分かったからだ。
「お父様をどうしても殺したくないというのなら、そうですね……。今回は私の信用貸しということで金融業者とは話をつけましょう。その代わり、先輩は私に何か別のものを担保として提供してください」
「別のものって……」
「簡単です。担保とは債務を必ず履行すると確約するために差し出されるもの。お金の貸し借りは全て信用で成り立っています。だから、先輩は私を満足させる振る舞いで私の信用を勝ち取ればいい」
 藤城が背後から覆い被さり、首筋に唇を寄せてくる。ねっとりとした触感が肌を這い、嫌悪感に周はきつく眉根を寄せた。
「うっ…っ、く……」
「何を、なんて下衆なことは聞かないでくださいよ? 私はずっとこのときを待っていたんですから」
 ちゅっ、ちゅっ、と音を立てて藤城の唇が周の肌のあちこちを蹂躙する。
「そう、そうやって大人しくしてれば痛い思いはさせません」
 仰向けに体を返され、手首を一纏めにソファに縫い付けられた。
 藤城がうっとりした声で、周の胸に手を置く。
「ああ、先輩の肌だ。やっぱり思っていた通り、美しい……」
「さ……わるな」
 指先で筋を辿るようになぞられ、周は声を震わせた。
「愛しています先輩。どうか私を受け入れてください」
 藤城の唇が顔に近づいてくる。周の怒りは限界に達した。
「ふ、ざけんな…!」
 叫び、自由になる足で藤城の股間を蹴り上げる。容赦のない力だった。
「いい加減にしろ藤城! そうやって脅せば何でも思い通りに行くと思ってるのか? お前のしてることの意味をもう一度よく考えろ。下手をすれば犯罪だ。……殺人未遂だぞ!」
 藤城が低く呻いて後ろによろける。その隙に周は体を翻し、ソファから転げ落ちた。
 床に片膝をつき、ハァハァと乱れる息を整え、忌々しく吐き捨てる。
「交渉は決裂だ。僕はもうお前の力は借りない。自己破産でも何でもして、地道に借金を返済することにするよ」
 そして、ズボンの後ろポケットから、忍ばせていた録音機を取り出し、藤城によく見えるようにぶら下げる。
「だから、反省して、もう二度とこんなことはしないって約束してくれ。今ならこのテープは僕の胸にしまっておいてやるから」
 もう十分に証拠は取った。このテープを持って警察に行けば、藤城はまず間違いなく恐喝罪に問われることだろう。
 けれど、周は藤城が逮捕されるところなど見たくはなかった。
 いつも弟のように自分を慕ってくれた可愛い後輩が、人生を踏み外す様なんて。
「……先輩は相変わらずお優しい」
 藤城はうっそりと微笑んだ。が、次の瞬間には、
「けれど、殺してやりたいほどに小賢しいですね」
 と言って、したたかに頭の頬を平手で打ってきた。氷のように冷えた目だった。
「藤、城……」
 頬の内側が切れたのか、口の中に地の味が広がる。呆然と見つめていると、
「痛いですか? 可哀相に」
 赤く腫れた頬の熱を確かめるように藤城が優しく右手で包んでくる。
「大人しく私に抱かれていれば良かったものを。――残念です」
 そして、もう一発。今度は鼻だ。拳で容赦なく殴られ、周は「ぐっ」と顔を背けた。
 次々に藤城の拳が飛んでくる。腕で顔を庇い、周が必死に耐えていると、周を殴ることに飽きたのか、
「入れ」と言って、藤城が誰かを部屋に引き入れた。
 ぞろぞろと乾いた靴音がいくつも聞こえる。
「手筈どおりだ。自由に犯って構わない。ただし」
 藤城が、部屋に入ったきた男達に事務的に告げる。「ああ、わかってるよ」下卑た笑いが、再び密室へと戻った部屋に響いた。
「言われなくとも。撮影の準備ならここにちゃんと」
「撮り逃がすなよ。せっかくの上物だ」
 男達はそう言って、藤城の体の下で押さえつけられたままの周の体を、じろじろと検分する。
 藤城から殴られたショックでまだ意識が朦朧とする中、周は懸命に声を絞り出した。
「ふじ、しろ……」
「先輩」
 藤城が昔と変わらぬ笑みでにっこりと笑う。
「できればこういう手は取りたくなかったのですが」
 そして残念そうな口ぶりで血で濡れた周の唇を撫でさすったあと、一気に周の下肢の着衣を剥いできた。
「借金分はきっちりとその体で稼いでもらいますよ」
「い、嫌だ! ……やっ……ぁ」
 ぞっと背筋が凍る。男達の手で四肢を押さえつけられ、逃げようにも身動きが取れない。
(……っ泰我!)
 反射的に名を呼んだそのときだった。
「周!」
 扉が蹴破られる音とともに、いきなり部屋に散弾銃が乱射された。
 ダダダダタ、と周の周りに群がる男達の足元が次々に薙ぎ払われていく。
「てめぇら……人のモンに何してやがる!」
 見えたのは、両脇を銃を抱えたSPに囲まれ、怒号を上げる泰我の姿だった。
 嘘だ。なんで、こんなタイミングで。
 自分の希望が見せた幻かと、周は思わず目を疑った。
「また君か……」
 痛みに蹲る男達の中心で、藤城がむっくりと頭を起こす。右肩に被弾したのか、裂けたスーツの布地に血が滲んでいる。
「いきなり断りもなしに銃を乱射するだなんて随分と乱暴なことをするじゃないか。……どこの組のモンだ」
 藤城は幽鬼のように立ち上がり、今まで聞いたこともないような低い声で凄んだ。
 しかし、泰我は「フン」と軽く鼻を鳴らしただけだ。
「人に名を尋ねるときはまず自分から名乗るのが筋だろーが。それとも、仁義も切れねぇ半端者か? その臭い――シャブか? ガンジャか、アシッドか? うちの直参なら、一発で破門してやるところなんだがな」
 そして、数歩部屋に足を踏み入れ、正面から藤城を睨みつけた。
「インテリ風情がこんな田舎くんだりまで来て、何を狙ってやがる」
 藤城は途端に噴き出した。
「それは君も同じだろう。何をしに、半井組の三代目がわざわざこんな寒村にまでやってくる」
(半井、組……?)
 聞こえた言葉に、周は恐る恐る顔を持ち上げた。今、藤城は何と言った?
「フン、知ってたなら話は早ぇな。だが勘違いするな。俺はただ、買い付けに来ただけだ」
 泰我は言いながら、藤城を素通りし、周の元へやって来た。
「泰我……」
 信じられない気持ちで名を呼ぶと、泰我は膝を折り、
「なんつー格好してんだよ、お前は……ったく」
 と言って、突然スウェットの上を脱ぎ始めた。
「着てろ」
 有無を言わさず手渡され、周は目を瞬かせた。たしかにシャツもズボンも破られてしまったけれど、そんなに自分はみすぼらしい格好をしていたのだろうか。
 いや、それ以前に待て待て待て!
「た、泰我っ、お前、それっ!」
「あん?」
 目に飛び込んできたのは広い背中。なだらかに息づく筋肉の稜線の上で、今にも襲い掛からんばかりに鮮やかな虎が周に牙を剥いていた。
「と、虎っ、虎、それ、その虎」
「ああ、これか? 格好いいだろ?」
 泰我が背を振り返りにんまりと笑う。見事な筆致で描かれた極彩色の和彫りの猛虎だ。
 こないだは暗い部屋の中で見たから気づかなかった。泰我の背中。
(三代目って、そういう意味だったのかよ!)
 若、若、と泰我を呼んでいたSP達をはっと振り仰ぐと、彼らはサングラスの奥で誇らしげに微笑んでいた。
「そうか……権利書を奪ったのは君だったというわけだな。道理で見つからないと思った」
「奪ったとは人聞きの悪い。てめぇみてぇな人間のクズに言われたくねぇセリフだな」
 泰我はぎゅっと周の肩を抱き寄せて言った。
「周をさんざん騙した挙句に、信頼を裏切って傷つけた。この借りは安くねぇぞ」
「君に何が分かる。君みたいな子供に説教を垂れられるほど私は終わってなどいない!」
 藤城が激昂する。不気味に震える指先はあてもなく宙を掻いていた。
「うるせぇなぁ……」
 泰我は低く呟き、「ちょっと待ってろ」と周の額に軽く口付け、立ち上がった。
「……これ以上を俺を怒らせてみろ。命はねぇぞ」
「うあ、あああああああ!」
 藤城が部屋の隅に立て掛けてあったゴルフクラブを掴み、泰我に襲い掛かってくる。
 振り下ろされたゴルフクラブは泰我の脳天を直撃、寸前で泰我の手首に阻まれた。
「先輩は渡さない! 私のものだ!」
「ぬかせっ」
 泰我がゴルフクラブを掴み、腕をはね返す。
 藤城の体が壁際まで吹き飛ばされる。
「男なら拳だけで勝負してみろよ。あぁ? このインテリヤクザが」
「ふっ……いいだろう。臨むところだ」
 泰我がぼきぼきと指を鳴らして近づくと、藤城は血反吐とともに眼鏡を投げ捨てた。
「オラッ、いくぜ!」
 泰我が上体を屈め、獣のような咆哮とともに拳を繰り出す。力では圧倒的に泰我が有利かと思われた。
 しかし、しばらく防戦一方だった藤城はチャンスを狙っていたようだ。
 一瞬の隙を突き、泰我のガードを崩し、ミドルキックを脇腹に加える。
「ぐっ……」
 泰我の体がよろめく。ここぞとばかりに藤城が奇声を上げ、泰我の顔面に集中砲火を浴びせた。
「泰我!」
「若っ」
 篠原が腰から銃を抜き、構える。しかし、その動きは泰我の一喝で封じられた。
「手ェ出すんじゃねぇぞ、お前ェら。こいつは俺が落とし前をつける」
 泰我の目が野生の虎のように凶暴に光る。
 左前から繰り出されるアッパー。藤城の頬を抉り、次発、中段からの正拳突きが鳩尾に決まった。
 藤城の目が苦悶に見開かれる。
「三代目!」
 と、その目を襲ったのは、どこからか飛んできた黒い石飛礫だった。
 藤城が怯んだその一瞬に、泰我は畳み掛けるようにその体に膝蹴りを加え、腕を掴むと、勢いをつけて背後に捻り飛ばした。
「がっ…、ぁ、は……」
 藤城の後頭部が壁にぶち当たる。口から血を噴き出して、藤城はそのままずるずると床に倒れ、動かなくなった。
「遅せーぞ、佐々木」
 泰我は振り向きもせずに言った。入り口からハァハァと荒い呼吸が聞こえる。
「勘弁してくださいよ。三代目は人使いが荒すぎる…!」
 その突き出た丸い腹には見覚えがあった。
「佐々木さんっ?」
 周が素っ頓狂な声で叫ぶと、
「周ちゃん! よかった、無事かっ?」
 と言って、佐々木が汗だくの体で駆け寄ってきた。そしていつものように挨拶代わりに抱き締められる。
「心配したよー、あぁよかった無事で」
「てめ、佐々木! 何どさくさに紛れて周に抱きついてんだよ! 離れろ!」
 佐々木の後ろで泰我が慌てたように、首根っこを引っ張っている。しかし、トドのように大きな体はびくともしなかった。
「佐々木さん……どうしてここに?」
 周は目をぱちくりと瞬かせた。
 もう、理解の範疇を超えたことが立て続けに起こりすぎて訳が分からない。
 教習所を辞めたとばかり思っていた佐々木がどうして泰我の手下のように扱われているのか。
「昔、縁があってお世話になったことがあってね」
 その一言から始まった佐々木の長い昔語りは、要約すると、佐々木はその昔、泰我の父に大層世話になったことがあるらしい。
 泰我と最後に会ったのは泰我が幼稚園にあがる頃だったから、教習所で再会したときはすっかり気づかなかったよ、と照れ臭そうに笑う。
 その後ろで桑原がこっそり、伸びた藤城の体を別室へと引き摺っていった。
「あーもういいから! さっさと出すもん出せよ佐々木! ちゃんと持ってきたんだろうな」
 このまま放っておけばいつまでもにこにこと周と喋り続けそうな佐々木の肩をどうにか引っぺがして、泰我は「ん」と大きく広げた手を差し出す。
「ええ。査定は無事終わりました。この通り」
「フン」
 佐々木が鞄からファイルを取り出すやいなや、泰我は奪うように中身を抜いた。
 そして、ついでに佐々木からボールペンも奪って、周の前の床にだん、と置く。
「周、サインしてくれ」
「サイン?」
「この土地はお前名義になっている。だからうちの会社が買い取るためにはお前のサインが必要だ」
 急に改まった様子で膝を割り開く泰我に、周は視線を床に置かれた紙に向ける。
 すぐに「あっ」と短い声が洩れた。それはずっと探していた裏山の土地の権利書だった。
 査定に出していたというのは、泰我が頼んで佐々木に持ち出させたのか。
 まったく、好き勝手やってくれる。
「買い取るって……あの裏山を? 泰我が?」
 なんで?
 しかし、分からないのはそこだった。藤城にだって値段のつかないような土地だと言わしめた荒れ放題の山だ。
 泰我が欲しがる理由がいまいち分からない。
 訝しげに首を傾げていると、
「レアメタルだ」
 泰我は今しがた佐々木が藤城めがけて投げつけた石の欠片を床から拾い、周に見せた。
「この石、覚えてるだろう? 輝水鉛鉱、またの名を二硫化モリブデン――幅広く工業用の潤滑剤に使われるレアメタルだ」
「レア、メタル……」
「日本でこの石が採れる鉱山は数えるほどしかない。もちろん、保之さんはその価値を知っていた。うち以外にも以前から狙いをつけた企業が何度か交渉を仕掛けていたみたいだしな。なぁ、佐々木」
「はっ、はい。ええそれはもう」
 急に話を振られ、佐々木はどぎまぎとした様子で答えた。
 そして「その輝水鉛鉱はやっぱり本物だったようです」と付け加える。土地の権利書と一緒に鑑定を依頼していたものだから、今まで時間がかかってしまったのだと説明した。
「この石の採掘権を狙うヤツは沢山いた。藤城だってそうだ。お前に土地の権利書をしつこく強請ってただろ」
「あ……」
 たしかに。言われてみれば不可解な藤城の行動も今ならば納得がいく。
「だが、保之さんは断固として誰にも裏山の権利を譲ろうとはしなかった。何故だか分かるか?」
 泰我の手の中で輝水鉛鉱が仄かな青みを帯びて光る。周は黙って首を振った。
「それがこの答えだ。土地の名義……分かるよな? 保之さんは万が一に備えて周に財産を残してやりたかったんだ。今まで何も贅沢をさせてやれなかったからって言ってな。いい親父さんじゃねぇか」
 泰我が柔らかく微笑む。そして石を置き、書類の額面を指差し言った。
「買取額に不満があるなら言え。いくらでも払ってやる」
「泰我、お前……僕の借金のこと……」
 いつの間に気づいていたのか――。
 問い質したいことは沢山あるけれど、うまく言葉が出てこない。
「誤解すんじゃねーぞ、周。俺はお前の借金を肩代わりするわけじゃない。これはビジネスだ」
 泰我は冷静な口ぶりで強調する。しかし、その瞳は隠し切れぬ野生の光を湛え始めていた。
「俺はレアメタルの採掘権が手に入って嬉しい。お前は教習所が閉校にならずに済んで嬉しい。万々歳じゃねぇか」
 その言葉に、佐々木が黙って何度も頷く。
 周は喉を詰まらせた。
「もう滅茶苦茶だ……お前は」
 ほっとした安堵感からか、鼻の奥がつんと熱くなる。
「驚かせちまって悪かったな、周。いつまでも黙ってるつもりじゃなかったんだけどよ」
 泰我の腕が伸びてきて、優しくその中に抱きとめられる。
 篠原に肩を叩かれた佐々木がはっとした表情で立ち上がり、静かにその場から立ち去っていった。
「ヤクザに触れられるのは嫌か?」
 泰我が潜めた声で訊いてくる。殴られ鼻血の滲む跡を指先が優しく撫でさすってきた。
「俺に触れられるのは怖いか?」
 泰我が重ねて訊いてくる。周は静かに首を振った。
「怖くないよ……嫌なわけない。泰我は泰我だ。最初からずっと、何も変わらない」
「周」
「んっ……」
 噛み付くような深いキス。ところどころが切れた口の中は沁みて痛かったが、それよりも泰我と再び口付けられたことが嬉しかった。
 やっとわかった。こんなに胸が締め付けられて苦しいのも、泰我のキスを離したくないと願うのも、全部泰我が好きだからだ。
「なぁ、周」
 長い口付けを終えると、泰我は周の目を見つめ、しばらく躊躇ったあと、切り出した。
「俺と一緒に東京に来ないか?」
「え?」
 きつく抱き合ったまま、泰我の顔を仰ぎ見る。
「お前が一人で藤城のとこに飛び込んでっちまったとき、俺がどんな気持ちだったか分かるか?」
 思い出しているのか、泰我の眉が切なく寄る。
「弱虫のくせして考えもなしにいつも勝手に突っ走って……危なっかしくて見てらんねーよ。周を一人でなんて放っておけねぇ……ずっと傍に置いておかなきゃ、俺の肝が先に潰れちまう」
「泰我……」
「な、いいだろ周。一緒に来いよ」
 泰我の頭がぐりぐりと肩に押し付けられる。
 何かを甘えるときの泰我の癖だ。
 泰我と一緒に東京に行く――。その突然の誘いは周の心を強く揺さぶった。
 今後一生を雪に閉ざされた西郷の村で過ごすものだとばかり思っていた。
 泰我と二人東京へ――。それも悪くない。周は思った。予想だにしなかった未来図に、一気に胸が沸き立ってゆく。
 一度は諦めてしまった夢も、泰我といると不思議と勇気が沸いてくる。
 もしかしたらもう一度ぐらい、なんとかなるかもしれない――そんな甘い考えを抱かせる。泰我の言葉は悪い魔法のようだ。
「そうだね……」
 答えかけたときだった。ズボンのポケットから床に落ちた携帯がブーブーと音を立てて鳴っている。
 メールなら無視をしてもよかったが、長く続く着信に周を眉を寄せた。一体誰から――。
「ごめん。ちょっと」
 泰我に断わり、携帯を拾い上げる。
 画面に表示された発信元は教習所の番号だ。ここからかけてくる人間など一人しか知らない。
「はい、もしもし」
「周ちゃん?」
「どうしたんですか、近藤さん」
 電話を取ると、受話器越しに焦った近藤の声が聞こえた。
「いいから早く来て! 保之さんが……!」
「え……」