虎と朝までドライビング
4.
事務所に戻ると、近藤が物珍しそうに声をかけてきた。
「あら、どうしたの周ちゃん。いやにご機嫌じゃない」
「そうですか?」
「何かいいことでもあった?」
「いえ? そういうわけじゃないんですけどね」
否定しつつも、ふ、ふ、と込み上げてくる思い出し笑いを止められない。なぜならば、もう少しで攻略法が見つけられそうだからだ。
「え? なあに? あ、もしかして赤虎ちゃんのこと?」
「ご想像にお任せします」
言いながら椅子を引き、パソコンの電源をつける。
「やだやだ、意地悪しないで。教えてちょうだいよ、周ちゃんったら!」
近藤がミーハー心丸出しで、周の肘をつついてくる。
どうやって泰我を手懐けたのか、近藤のみならず事務所に戻っていた教官達も興味があるようで、こっそり周と近藤の会話に耳をそばだてているのが分かった。
(教えてあげてもいいんだけどね)
周は思った。でも、どこか勿体ぶりたいような気持ちもあった。
他の人間にはすぐに牙を剥く泰我が、自分の前だけでは年相応の少年の顔を見せる。
泰我が意外に素直だということも、照れ屋で不器用だということも、いつも教習の際にはガチガチに固まるほどの緊張しいだということも――この教習所では自分のほかに誰も知らない。
そう思うと胸の辺りがくすぐったくてたまらない。
何だろうこの気持ちは。優越感だろうか。
「周ちゃーん」
静かに微笑んだまま一向に口を開かない周に焦れ、近藤がぶうたれた声で周を呼ぶ。
しかし、次の瞬間にはオクターブ高いよそ行きの声が聞こえた。
「あら、保之さん。お帰りなさい」
近藤がぱっと顔を輝かせて立ち上がる。
事務所の自動ドアが開き、冷たい風が入り込んできたかと思えば、ひょっこりと周の父の保之が姿を見せた。
「ただいま、ヨネ子さん。少し遅くなってしまいましたね」
「いいんですよ。どうせ暇なんですから」
外は雪が激しくなってきたのか、保之の作業着の肩にはうっすらと白いものが積もっていた。
「今、お茶入れますね」
近藤がうきうきと給湯室へ向かう。
「ありがとう」と保之は笑い、事務所の最奥の所長席へ向かうと、どさりと大きなリュックを下ろした。
「父さん」
周は父のもとへ歩み寄った。
「ああ。周。お疲れさま」
保之はすぐに柔和な笑みを周に向けた。赤くなった鼻を啜り、おぼつかない手つきでマフラーでほどいている。
「どうだった? 西郷銀行との話し合い」
「うん、それがね」
周が切り出すと、保之は表情を曇らせた。
そしてのんびりと語り出す。
「会ってももらえなかった?」
中ほどまで聞き終えたところで、周は裏返った声を上げた。
「う、うん。どうしたの周。急にそんなに大きな声出しちゃって」
「だって、そんな……。ちゃんと相談の時間はとってもらってたんだろ? どういうことなんだ」
「うーん……それがねぇ」
保之はすっかり薄くなってしまった白髪を掻きながら言った。
「私にもさっぱり分からないんだよ。急に先方のご都合が悪くなってしまったそうで」
「そんなの嘘に決まってる! これで何度目だよ。そう言っていつも体よく断わられてばかりじゃないか」
周は父の肩を揺すった。教習所の資金繰りが苦しくなり、保之は取引先の一つである西郷銀行へ、手形の返済期日延長を交渉しに出向いてきたのだ。
しかし今回もまともに取り合ってももらえなかったようだ。
「ひどい……」
思わず呟くと、保之は優しく諭すように言った。
「……そうやって何でも疑ってかかるのは良くないよ周。本当に、急に都合が悪くなってしまったのかもしれない」
「父さんはまたそうやって……」
周はぐっと下唇を噛み締めた。
おっとりとした気性の保之は、人の悪意というものを中々信じようとしない。
以前、財布を掏られたときなどは、どこで落としてきたのだろうと、一週間も村中を探して回ったほどだ。
近藤が給湯室から戻ってきて、「はい」と保之にお茶を手渡す。保之は礼を言い、のほほんとお茶を啜り始めた。
周はああ、と痛む頭を抱えた。
「それで? 父さんは今回も何も文句言わず、すごすご帰ってきたってわけ?」
「うっ……」
わざと冷たく突き放した声で訊くと、保之は体を縮こまらせた。
「だって、他のお客さんもいて忙しそうだったし。あまり窓口で揉めるのも申し訳なくて」
「呆れた」
周は目を瞑り、長く息を吐き出した。
「それでまた石拾って帰ってきたってわけか」
「あ……」
保之は机の上に目線を落とした。リュックのそこかしこから、黒い鉱石がごろごろと頭を覗かせていた。
保之の趣味は採石収集なのだ。おおかた今日も銀行との話し合いが潰れたことに意気消沈して裏山に入ったついでに採ってきてしまったのだろう。
保之はリュックの中から石を一つ選び出し、おずおずと周の前に差し出した。
「あのね、周。この石はすごいんだよ。輝水鉛鉱っていって滅多に見つかるものじゃない……」
「いい加減にしてくれよ!」
周は思わず大きな声で叫んだ。
「どうして父さんはいつもそうなんだ。今、うちの学校がどれだけ危ない状況なのか分かってるだろ。従業員の皆さんへのお給料だって二ヶ月分も待ってもらってるんだ。それなのに、のん気に石集めなんかして……」
「周……」
保之が呆然と周を見つめる。何が悪いのか分かっていないようなその顔。朴訥とした眼差し。
周はギリ、と奥歯を噛み締めた。
「父さんはいつもそうだ……そうやって……だから母さんにだって逃げられるんだ」
「周ちゃん!」
それまではらはらと成り行きを見守っていた近藤が、耐えかねたように声を上げる。
周はきつく拳に握ることで込み上げかけた激情を懸命に振り払い、保之の前に直立した。
「もういいよ。次からは僕が直接交渉に行くから」
口早に告げ、保之のリュックの中を漁る。ほどなくして目的のファイルが見つかった。
中身を確認し、その枚数の多さに改めて溜め息を深くする。
「借用証明書はこれで全部?」
視線を合わさずに訊くと、保之はしばらく間を置いたあと、こくりと頷いた。
「これからは僕が全部やるから。父さんはもう何もしなくていいよ」
「周……」
「その代わり、もうこれ以上教習所内に変な石を増やすのはやめてくれ!」
保之の手から石を取り上げ、床に打ち付ける。輝水鉛鉱と呼ばれた鉱石はその場で粉々に砕け散った。
「あ……」
息を呑んだのは近藤だった。事務所のソファでストーブに当たっていた教官達が何事かと首を伸ばしてこちらの様子を窺がっている。
西門ドライビングスクールは、事務所や休憩室やトイレに至るまで、あちこちに所長の拾ってきた天然石のコレクションが並べられている。その数たるや、数百、数千、好んで数えたくもないほどだ。
その異様な光景に気味悪がって、見学に来た入学希望者が帰ってしまったことだってある。
今までは父の数少ない趣味なのだからと大目に見ていたが、もう我慢も限界だ。
床にしゃがみ、砕け散った石片を素手で掻き集めている保之の後ろ姿を忌々しい気持ちで眺め、周は踵を返した。
もうこれ以上見ていたくもない。
「どこへ行くの?」と声をかけてくる近藤に構わず、周は自動ドアをくぐった。
みぞれ雪の降りしきる三月の寒空。この中に今すぐ駆け出して思うさまに泣き叫べたらどんなに楽か。
滲む視界を乱暴に拭うと、鼻の頭に黒い粉こびりついた。さっき触った石のせいで手が汚れてしまったのだ。
ちくしょう――訳の分からぬ怒りに震え、周は当てもなく歩き始めた。
思うように動かない右足をこんなに呪ったのは今日が初めてのことだった。
母親が出て行ったのは、周が九つのときだ。
あの日も水分を多く含んだ雪が窓ガラスに結露し、筋を描いて泣いていた。
お母さん、どこに行っちゃったの?
目覚めて初めて母親の不在を知り、泣きべそをかく周を、保之は黙って国道沿いのファミリーレストランへ連れて行った。
そこは、年に一度や二度、誕生日やクリスマスの日にだけ連れて行ってもらえる特別な場所だった。
周をボックス席に座らせ、備え付けのチリ紙で鼻をかませ、保之はおろおろとメニューを広げながら、周に何が食べたいかと訊く。
何も食べたくない。お母さんのごはんが食べたい。
子供心に父を困らせているのは分かっていた。けれど寂しくて心細くて仕方なかったのだ。困り果てた保之が適当に注文したハンバーグステーキをナイフで切り分けて、周の口に運んでくれる。
おいしい肉汁が口の中に広がる。ごくん、としょっぱい涙の味と一緒に飲みこむと、保之がほっとしたように微笑む。
ごめんね。これからはいっぱい連れてきてあげるからね。今日は何でも好きなもの注文していいから。たくさんお食べ――
それから十数年が経ち、国道沿いのファミリーレストランは、焼肉食べ放題のチェーン店へと様変わりしていた。
窓ガラスに結露するみぞれ雪はそのまま、変わったのはテーブルや厨房の配置といった僅かな内装だけだ。
「周せんせーい。こっちこっち!」
華やいだ声で名を呼ばれ、周は肉を盛る手を止め、顔を上げた。
合宿生の女の子達が「こっちで一緒に食べましょうよ」と手を振ってくれている。
周は苦笑し「ごめんね」とその誘いを断った。肉用のトングを持ったまま、角のボックス席を指差す。
そこには泰我がむっすりとした顔で、肉の替え皿の到着を今か今かと待っていた。
今日は合宿免許プランの目玉でもある焼肉食べ放題の日だ。合宿生を送迎用のマイクロバスに乗せて、この国道沿いの店まで昼食に連れてきたのだ。
もちろん、支払いは教習所持ちである。(ただし一人千円で食べ放題という破格的良心価格の店であるので安心だ)
席に戻ると、泰我は周の姿を認めるやいなや低い声で絡み始めた。
「騙しやがったな」
「ん?」
「焼肉食い放題って宣伝文句があったからこの教習所を選んだんだ。それなのになんだこの肉! まるでゴムじゃねーか。俺にゴムを食わせたのはお前らが初めてだぜ」
さきほどまで「肉! 肉!」と上機嫌だった顔はどこへやら、泰我は本日の昼食内容に相当の不満を覚えたらしい。
(まったく……千円で食べ放題の店にこいつはどれだけのレベルを期待してたんだか……)
店に到着するなり、泰我に首根っこを引っ掴まれ給仕役を命じられた周としてはいい迷惑だ。これ以上、大人しく愚痴を聞いてやる謂われはない。
「生憎、僕の中で焼肉っていったらこの肉が普通なんだけどね」
「は? 嘘だろ?」
「残念ながら本当です。我々庶民の食べ物は、半井財閥の御曹司様の口には合いませんでしたか」
「……なんでお前、それ」
わざと慇懃無礼に言葉を選んで言ってやると、泰我は目を丸くした。否定しないところを見るとどうやらカマは当たったらしい。
周はやっぱり、と一人納得した。教習中に飽きるほどに眺めた泰我の教習手帳。初めて見たときからずっと引っかかっていた疑問をインターネットで解決したのは、つい夕べのことだ。
「半井、なんて珍しい名字そう滅多にいないからね。前から怪しいなとは思っていたけど、住所と照らし合わせてみたら一発だったよ。いや、まさか天下の半井グループのお坊ちゃまがこんなさびれた田舎の教習所においでくださるとは思わなかったからさ」
「フン」
その言葉に泰我は忌々しげに鼻を鳴らした。
「だから何だってんだ。予想と違ってがっかりしたってのか?」
「そうだね。半井グループといえば日本の財界をリードするトップ企業だ。少なくとも、そのお坊ちゃまがこんなに手のかかる乱暴者だなんて思いもしなかったよ」
「うるせー。別に関係ねーだろ。俺は俺だ」
「まぁ、そうだね」
周は頷いた。泰我は面白くなさそうに塩キャベツをぼりぼりと食べている。手で直接持って食べればいいものを律儀に箸でつまんでいるところが育ちがいいと言えばいいが、泰我の口から肯定された今も、周は目の前に座っている生徒がそんな大企業の御曹司だとはとても信じられなかった。
(人は見かけによらないってのは本当なんだなぁ)
そしてつい、そんな感慨に耽ってしまう。この様子では、泰我の両親は泰我の扱いに随分と手を焼いていることだろう。
良家のお坊ちゃまが、こんなにぐれちゃってまあ。
じろじろと泰我の顔を眺めていると、泰我は「何だよ」と露骨に嫌な顔をした。
そしてふんぞり返って言う。
「俺を不快にさせた詫びだ。焼け」
顎先で、周が持ってきた肉の替え皿を指し示す。
「なんで僕が……。もう食べないんだろ?」
「いや、食べる」
周が渋っていると、泰我は間髪入れずに答えた。
「ゴムみたいで嫌だってさっき言ったじゃないか」
「まぁな。でも、周があーん、てしてくれたら食ってやってもいいぜ?」
そしていけしゃあしゃあとそんなことを言ってくる。
「当店ではそのようなサービスは行っておりません。申し訳ありませんが、他をおあたりください」
眉間に皺を寄せ固く吐き捨てると、周はトングを手に肉を焼き始めた。無論自分の分の肉だ。
「なんだよ、つれねぇな。親のこと、黙ってたの怒ってんのか?」
「別に」
周は即答した。
「そういう冗談は女の子の前で言えばいいだろうって思っただけだ」
「女?」
「さっきからお前と話したそうに向こうのテーブルからちらちら見てるだろ。気づいてなかったのか?」
じゅーじゅーと肉を焼きながら、視線だけを後方に遣る。それにつられて泰我が顔を上げると、通路を一本挟んだ壁際のボックス席から「きゃ」という高い声が上がった。
先日、果敢にも泰我に声をかけようと試みた女の子の三人組だ。
「たまには、合宿生同士で親交を深めてほしいものなんだけどね。なんで僕がお前の肉まで焼かなきゃいけないんだ」
たっぷりと皮肉を込めて愚痴ると、泰我は面倒くさそうに頬杖をついてコーラの入ったグラスを一気に飲み干した。
形のいい喉仏が上下する。伏せられた眦は長く影を落とし、泰我の表情を憂いを帯びたものに変える。
(……って、なに見惚れてるんだ僕は! 近藤さんでもあるまいし)
周がぶんぶんと首を振っていると、泰我はおもむろに口を開いた。
「……女は嫌いだ。ぎゃーぎゃーうるせーし、何かあればああやってすぐ群れやがる。それに」
「ん?」
「あれ、俺じゃねーよ。お前を見てたんだろ」
「……は?」
思いもよらぬ泰我の一言に、周は怪訝に眉を寄せた。
「気づいてねーのはどっちだよ。周先生って素敵よね、ってあいつらいつも休憩室で喋ってるぜ。隣に座って優しく教えてもらいたい〜ってよ」
「嘘だ」
「うわ、無自覚かよ。性質悪ィな」
「……お前に言われたくない」
からかっているのか本気なのか、にやにやと笑う泰我を無視して、周は網の上のカルビを裏返した。
そしてふと考える。
「でも、それが本当なら」
「ん?」
「……僕だってたまには可愛い女の子の教習にあたりたいよ。なんでいつもお前ばっかり……」
それは前々からずっと疑問に思っていたことだった。合宿生が一度に沢山入ってくれば、いくら普段は事務方専門の周とは言え、ほぼ強制的に技能教習に駆り出される。
それなのに、今回はまだ一度も泰我以外の教習を受け持っていないのだ。さてはこいつ、裏で何か手を回しているな。
胡乱な視線で見上げると、
「ふん。当たり前だろ。周の指名権は俺のもんだ。誰が譲ってやるかよ」
と言って、唯我独尊傲岸不敵なハイパーお坊ちゃまは、中指を立てて誇らしげに笑っていた。
(なんでこんなに気に入られちゃったかなぁ……)
周はやれやれとその場でうなだれた。まったく悪びれた様子もない泰我に叱る気力も失せてくる。
「ほら、焼けたぞ。食えよ」
「おう。サンキュー」
焼けた肉を泰我の皿に乗せてやると、泰我がぱっと目を輝かせる。まるで本当に餌付けをしているようだ。
自分の皿にも取り分け、箸を割り、いざ口に運ぼうと思ったときだった。
泰我が煙の向こうで、大きく口を開けて待っている。
「周、あーんは?」
「……当店はただ今をもちまして、本日営業終了いたしました」
周はにべもなく、泰我の口にトングを突っ込んだ。
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