虎と朝までドライビング
3.
「やだぁ、何それ! 周ちゃんったら、それで? 本当に半井くんの舎弟になっちゃったの?」
「近藤さん……声が大きい……」
事務所のデスクに戻り、愚痴がてら事の顛末を話すと、近藤ヨネ子四十八歳は少女のように目を輝かせた。それでそれで? と身を乗り出して訊いてくる。
「なるわけないじゃないですか、舎弟なんて。今時、田舎のヤンキーだって使いませんよそんな言葉。まったく……何を考えているんだか」
「面白い子ねぇ、半井くんって。休憩室ではいつもああやって隅っこに座って、一人で漫画読んでるか居眠りしてるかなのに」
「あれは怖くて誰も近寄って来れないだけですよ。ほら、その証拠に今も」
周はさりげなく斜め後ろへと目線を向けた。
休憩室兼待合室の窓際にずらりと並んだソファ。
その前で、女の子が三人集まってひそひそと何かを話している。泰我と同じ日に入学してきた合宿生だ。
「やだー、サッちゃんからいってよ」「えー、でもぉ」「早く早く」――恐らくはそんなところだ。
泰我は我関せずとソファの上に仰向けに寝そべって漫画を読んでいる。
ややあった後、彼女達は恐る恐る泰我の傍にやってきて、泰我に何かを話しかけた。
一言。二言。
泰我が不機嫌そうに眉根を寄せる。女の子達はすぐに小さく悲鳴を上げて、そそくさと泰我の前から退散していった。
「あらあら、女の子達、せっかく話しかけてあげたのにねぇ」
近藤が残念そうに呟く。周は深く嘆息した。
「あの目つきで一睨みされちゃ、大抵の子は震え上がりますよ。少しは合宿生同士、仲良くなってほしいものなんですが」
「これは、少し時間がかかりそうかしらねぇ」
近藤はそう言って、首を伸ばし泰我の様子を窺い見た。
泰我は行儀悪く寝そべったまま、まるで何事もなかったかのように漫画に目線を戻し、鼻をほじっている。
「まいったな……できれば所内の空気を悪くしないでもらいたいんだけど」
「そうよねぇ。ああやって、誰かれ構わず威嚇されちゃあねぇ」
「虎……か。佐々木さんも上手いこと言ったもんだ。たしかに……あれは虎だ」
「赤い髪をした虎ちゃんね。いやだ、なんだか格好いいじゃない!」
「い、痛い! 痛い! 近藤さん落ち着いて!」
「だって!」
興奮した近藤にばしばしと背を叩かれ、周は思わず椅子から転げそうになった。
やはり近藤さんはミーハーだ。いくら問題児でも、顔が良ければそれでいいのだ。
近藤はひとしきり笑ったあと、手元の書類を抜き出し、口元に手を当てた。
「あらやだ。噂をすれば赤虎ちゃん。明日の教習、周ちゃんをご指名みたいよ」
「……それは光栄ですね。わざわざ僕を指名、ですか」
「うふふ。そうみたい」
近藤が含み笑いを浮かべる。
「周ちゃん」
そして片目を瞑り、言った。
「いくらイケメン君の助手席だからって、あんまり張り切っちゃ駄目よー?」
「……もちろん。舎弟としてご期待に沿えるよう懇切丁寧な指導をしてきてやりますよ」
「応援してるわ。はい、ファイル」
近藤から泰我の教習手帳を手渡される。
明日の朝一時限目からあの虎の担当か……。
自然と気分が重くなる。なんだって泰我は自分なんかを指名してきたのだろう。
気に入った、とは言っていたけれど、見るからに気分屋そうなツンツンと尖った赤い髪だ。
ソファの上で脚を組み直し、ふわぁ、と大きく欠伸をしている。ああ、靴を履いたままじゃないか。脱げ! 今すぐだ!
思わず立ち上がると、近藤が小首を傾げて訊いてきた。
「だけど不思議ね。周ちゃんは? 怖くないの? 半井くんのこと」
「……ヤンキーの指導なら、手慣れたものです」
口元を引き攣らせ、答えると、周は強く拳を握り休憩室へと足を向けた。
「あーあー、やってらんねぇなー」
そう言って、ぞんざいにハンドルを握り、泰我は運転席でこれみよがしに大きな声でぼやいた。
悪夢のような初教習から丸五日。周は指名されるまま、なぜか泰我の教習に毎回付き合わされていた。
「文句言わずにやるの。それが教習だろ」
「はぁ……面倒くせぇ。んで俺がこんな田舎まで来てわざわざ説教受けなきゃなんねーんだよ」
「説教させるようなことをする君が悪いんだろう。ほら、またウインカー出し忘れてる。障害物を避けるときは出せっていつも言ってるだろ」
「ちっ」
大きく舌打ちをする泰我に、周は助手席で腕を組んだまま注意した。
「教官に向かって舌打ちをするのはやめなさい」
「うるせぇ。舎弟がなに偉そうに口利いてやがる」
「僕は君の舎弟になったつもりは一度もないんだけどね」
「あーあー、聞こえねーなー」
とまぁ、教習中はだいたいがこんな調子だ。
泰我は常にマイペースで、周に対してタメ口はおろか、ちっとも教官として敬うつもりはないらしい。
まったく最近の若者はどうなっているんだ。
窓の外にちらつく粉雪を眺めながら、そんなことを考えている自分が年寄り臭くて少し辟易した。
「……ったく」
大きく息を吐き、周は右手を伸ばした。
「あ、そこ。曲がって」
「あん?」
指し示した先は、外周のコースより道幅の狭い、曲がりくねった道だった。
「今日はS字とクランクの練習だ。このコースから落ちないようにゆっくり走るんだぞ」
「は? 嘘だろ?」
さらっと本日の教習内容を説明すると、泰我は「聞いてねぇぞ!」といつものように吠えた。
いや、必ず前回の教習の最後に説明しているんだけどね。
そんな心の呟きも言葉にするのは、三度目から諦めた。どうせろくに聞いていないのだから、重複した会話のキャッチボールはエネルギーの無駄だ。
車がのろのろと細い道に乗り上げる。泰我は首を伸ばして、運転席の脇から注意深く路面とタイヤの位置を確認した。
「そんなに難しくないから大丈夫。半クラッチでゆっくり進もう」
「……」
泰我の表情が強張る。いくら最初より運転に慣れてきたとはいえ、元々が不器用な性質なのか少し新しいことを教えると途端に無言になる。
(本当に分かりやすいよな……緊張してるの)
真剣な目をして落ち着きなく周囲を見渡す泰我を、微笑ましい気持ちで見守る。
口を開けば暴言ばかりで不遜極まりない少年だけど、こういうところがどこか憎めない。
「そうそう、その調子。上手だそ」
「うるせぇ! 今話しかけんな!」
S字のコースの中ほどまで来たときだった。
「あ、落ちた」
がたん、と車体が傾く。助手席側の前輪がコースから外れたのだ。
こうなると、検定ではもう一度最初からS字をやり直しだ。
「……お前が話しかけるからだろう!」
「え、僕のせいなの?」
泰我が悔しげに唇を噛み締める。
「お前がいきなり褒めるから……っ、柄にもねぇことすんじゃねぇよ」
「なんだ。褒められて嬉しかったんだ?」
「違ぇよ! 調子に乗んなタコ!」
泰我はキッと周を睨む。心なしか頬も紅潮しているようだ。そして「こんな狭い道ちまちま走ってられっかよ!」と言いながら、苛立ちに任せてがしがしとブレーキを蹴っている。
よほど脱輪したことが恥ずかしかったらしい。
周はたまらずプッと小さく噴き出した。
「何笑ってんだよてめぇ!」
「いや、ごめんごめん」
周は目尻に浮いた涙を拭いながら、とりあえずフォローした。
「誰だって一度は脱輪するの当たり前なんだから、そんなに気にするなって。さ、もう一度いこうか」
「ふん」
泰我が気まずそうに視線を逸らす。
どうやら気難しい赤虎くんは、褒めて伸ばすのが有効らしい。いいことを知った。
エンジンをかけ直す泰我の手元をにこにこと見つめていると、泰我がぼそりと呟いた。
「おい……どうしたらいいんだよこれ」
「え? ああ」
一瞬何を問われているのか戸惑ったあと、周は指示を出した。
「とりあえずバックで戻ろうか」
「バック?」
「そう、バックだよ。ほら、ギア後ろに入れて」
ギアの操作部を握る泰我の手を上から包む。
瞬間、びくっと泰我の動きが固まったのが分かった。
「何だよ。どうした」
「……手」
「うん? 手? 手がどうしたの」
周はきょとんと首を傾げた。
「……っ、別に。何でもねぇ。さっさと離せよ。いつまで触ってんだ」
「あ、うん」
泰我がうっとうしげに周の手を振り払う。
ギアチェンジの際に手助けをするのは今に始まったことではないのだが、さすがにそろそろ控えたほうがいいのだろうか。
(……うざいとか思われてるんだろうな)
ぽりぽりと頬を掻いて周は考えた。
(あ、それちょっと悲しいかも)
想像して、しゅんと気持ちが沈む。指導に熱が入るあまり、生徒に嫌われてしまうのは不本意だ。
泰我はむっつりと黙ったまま、車をバックさせる。ややあって、無事コースに戻ることができた。
反省反省。これからはあくまで泰我の自主性に任せることにしよう。
「ほら、頑張って。あと半分だ」
「……っお前、そういうこと言……ああ、くそ」
すると、泰我は急に腹でも痛くなったのか、前屈みになってハンドルにしがみついた。
「だいたい性に合わねぇんだよ! こんな狭い道ちまちま走ってられるか!」
「うん、そうだね。でも頑張って。ここ抜けなきゃいつまで経っても終わらないよ」
周は腕時計を見た。教習は一コマ五十分だ。もうそろそろ半分を過ぎている。
泰我は低く呻き、「あー」とか「うー」とか言いながら、車を慎重に動かしていく。
S字は微細な運転技術を要するコースだ。短気な泰我には苦痛以外の何物でもないのだろう。
半クラッチをキープしたまま、やっと終わりが見えてきたときだった。鈍い排気音がして、車が停止した。泰我がまたエンストを起こしたのだ。
「だークソが! 動きやがれってんだ! イテこますぞワレェ!」
「半井くん、それ車に言っても……」
泰我がブォンブォンとアクセルを吹かす。今にもフロントガラスに噛み付きそうな勢いだ。
「今からでもオートマにしたら?」
「やだね。ぜってーやだ」
周のそんな提案も、泰我は一蹴した。
「男なのにオートマなんてださすぎるだろ」
「ださい以前の問題に、このままじゃ予定期日内に卒業できるかも危ういんだけどね」
「なっ、ふざけんなよ。聞いてねーぞんなこと」
手帳を開き、カレンダーを確認すると、泰我は目に見えて慌てた。
「どーにかしろよ。それがお前の仕事だろ」
「どうにかって言われてもね……」
周は嘆息した。
マニュアル車の最短卒業日数は十八日間だ。ただでさえ泰我は右回りで三回、左回りで二回ダブっているというのに、それでもまだ最短日数で卒業できると思っていたことのほうが驚きだ。(それに、この様子では今後もまだ苦戦しそうだ)
ううん、と首を捻っていると、
「……使えねーヤツ」
泰我がぼそりと小さく呟いた。これを聞き逃す周ではない。フ、と口元を歪め、
「口の聞き方も知らない、と。これは今日の判子はなしだな」
「バッ…」
さらさらと教習手帳の備考欄にペンを走らせると、泰我が身を乗り出してきた。
「そーゆーの職権汎用って言うんだぞ」
「は?」
その言葉に周は思わず聞き返してしまった。鼻息を荒く顔を寄せてくる泰我の目をじっと見つめる。ええと、その、つまり?
「それを言うなら職権濫用だろ? 汎用って」
「……っ、うるせぇ。別にどっちだっていいだろ」
思わずツッコむと、泰我はみるみるうちに頬を染め、激昂した。
基本データに追加情報。赤虎くんはどうやら国語力が低いらしい。
くつくつと喉を鳴らして笑っていると、
「いつまでも笑ってんじゃねぇよ! ムカツク!」
と言って、泰我は乱暴にエンジンをかけ直した。度重なるエンストのおかげで泰我はすっかり再発進のプロだ。
教習車はS字を抜け、左回りのコースへと戻る。
「お前、何気にいい性格してるよな。くそ、覚えとけよ周」
泰我が唇をへの字に歪めて呟く。
「え? 僕の名前…」
周は思わず目を見開いた。泰我はちらりと周に視線を遣り、
「お前がそう呼べって言ったんだろ。何キョドってんだよ」
「あ、ああ。そうか。そうだったね」
「フン。覚えてやったんだから有り難く思えよ」
と言って、小鼻を膨らませた。ぐん、と車のスピードが上がる。
(お、なんだなんだ。随分と素直じゃないか)
周は心の中でひゅうと口笛を鳴らした。
相変わらず言葉遣いは乱暴で態度はメガトン級だけれど、泰我の扱い方がなんとなく分かってきた。
最後まで教官の名前なんて覚えない生徒が多い中、一度名乗ったっきりなのに下の名前を覚えてくれるなんて、可愛いところもあるじゃないか。
本当は見かけほど悪い子じゃないのかもしれない。真剣に運転をしている泰我の横顔を見つめ、フフ、と笑っていると、泰我が「何だよ」と問いたげに周に視線を配る。
そのときだった。
「おっと」
周は助手席のブレーキを踏みしめた。反動で、がくん、と泰我は大きく上体を揺らした。
「…っにすんだよ!」
泰我が吠える。
「一時停止」
「あ?」
周は平静な声で答えた。無言で標識を指差し、やれやれと肩を竦める。
「何度も言ってるのに一向にこっちは覚える気なし……か」
膝の上に広げたままの教習手帳にペンを走らせる。すると、
「おい、なに余計なこと書き込んでんだよ! ちょっと貸せ!」
「あっ!」
急に泰我の手が伸びてきて、手帳を奪われてしまった。
「返しなさい!」
注意するも、「やだね」と言って泰我は聞かない。手帳を取り返そうと奮闘する周の顔を左手であっさり押し退け、本日の備考欄に目を通していく。
泰我の顔色がさっと変わった。
まずい。来る!
「……周てめぇ……何が『覚えが悪い』だ! 人を馬鹿みたいに書くんじゃねぇよ!」
軽く公害レベルの騒音。その声に驚いたのか、教習所の路面を啄ばんでいた小鳥が一斉に飛び立っていく。
――虎を手懐けるには、もうしばらく時間がかかりそうだった。
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