虎と朝までドライビング

2.

「なからいくん。半井泰我くーん?」
 周は片手を口元に当て、バインダー片手に生徒を探していた。
 かれこれ先ほどから二十分は教習所内を探し回っている。狭い所内だ。待合室にいないとなれば、トイレか、駐車場裏のテニスコート(とは名ばかりの荒れ果てた空き地)か、近くのコンビニ(ただしここから徒歩で行けば三十分はかかる)か――
「どこにいったんだ?」
 周は眼鏡を外し、辺りを仰ぎ見た。パソコン作業の多いデクスワーク時には眼鏡をするが、元の視力はいいほうだ。もっとも現役時代に比べればそれもぐっと落ちたけれど。
 三年前、事故で足を悪くしてからというもの、周の生活は一変した。レーサーの夢を諦め実家の家業を継ぐため生まれ育った西郷の村に戻った周を、村人達はみな温かく迎え入れてくれた。
 無理しなくていいぞ、ゆっくり仕事を覚えればいい、そう言って主に事務方の仕事を任せてくれたのは、ひとえに周の足を気遣ってのことだ。
 地道に続けたリハビリのおかげで日常生活における歩行に支障はなくなったが、一度じん帯を切ってしまった右足は走ることや、何かをしっかりと踏みしめるといった力強い動作が難しい。
 それは確実な運転技術を必要とするレーサーとして致命的なハンデであった。
 もちろん、車を造り替えて左足一本で操作ができるよう工夫する道もあった。事実、そうしてサーキットに復帰したレーサーは数多い。しかし、駆け出しの新人に過ぎない周には、彼らのように強力な後ろ盾となるスポンサーは存在しなかった。
 高校卒業後、夢を追いかけ半ば家出をするように上京した周に、父は当面の生活費として三十万円を持たせてくれた。
 自動車学校の苦しい経営状況のどこからそんなお金を工面したのか、事故を知り駆けつけた父の皺枯れた顔を久しぶりに見て、周は病室で一人泣き噎せった。
 レースに出ることが叶わなければ、賞金を得ることもなく、やっと掴んだ重工メーカーとの専属契約も打ち切られるだろう。何年かかるとも知れぬリハビリにかかる治療費、生活費、ざっと概算した諸費用は到底今までの貯金で足りるものではない。
 こんなところで幼い頃からの夢を諦めたくはなかった。けれど、これ以上実家の援助に頼るわけにもいかない。
 頭の中で事故の間際に聞いたブレーキ音が響き渡る。青空の下に吹き飛んだヘルメットを見上げたところで、体に震えが走った。
(結局のところ、信じられなかったのは自分の才能か……)
 眼鏡をかけ直し、所内のコースへ出た周の横を、大型二輪の教習車が連なって通り過ぎていった。
 車で走るのは今でも好きだ。けれど、たとえば先ほどのように大きなブレーキ音を聞いたときなど、今でも体が条件反射のように強張ってしまう。
 排気ガスを撒き散らしてバイクが走り抜けてゆく。よく晴れた青空を目を細めて眺め、周はコースに描かれた横断歩道を渡った。その先に担当車を停めてあるのだ。
 技能教習を担当するのは随分と久しぶりのことだ。去年、技能検定員の資格も取ったというのに、所長である父も事務の近藤さんも教官仲間もみな、周に遠慮してなかなか技能教習を任せることはしなかった。
(別にこれぐらい、大丈夫なんだけどな……)
 さっき体が鈍る、と佐々木に言ったのは嘘ではない。
 同年代に比べれば低い背丈と、雪国育ちのせいで日に焼けても黒くならない肌のせいで、どこか物静かに思われがちな外見だが、周は元来奔放な性格だ。子供の頃は田んぼの畦道を走り回って日が暮れるまで遊んでいたものだ。
 横断歩道脇の安全地帯に停めてある担当車を目視し、周はもう一度大きく所内を見渡した。
 教習所の裏手に広がる里山から小鳥が群れをなして飛んでくる。閑散としたいつもの穏やかな午後だった。肌を刺す風は、春が近いとはいえまだ寒々しい。
 さて、どうしたものか。
 周は思案した。肝心の生徒の姿がどこにも見当たらないのでは仕方ない。
 久しぶりの技能教習に浮き立っていた気持ちはすっかり出鼻を挫かれてしまった。
 バインダーに挟んだ資料と睨めっこをしていると、突然、後頭部に何か固いものが飛んできた。
「痛っ……なんだ?」
 眉を顰め振り返ると、足元に小石が音を立てて転がった。これを投げられたのか。
 状況確認に努める間もなく、聞こえたのはクチャクチャとガムを噛む音と、
「遅せーぞ先公。客を何分待たせるつもりだ」
 といった不機嫌極まりない低い声だった。
 周は顔を上げた。
 白地に青いラインを引いた教習車。その運転席に赤い髪をした目つきの悪い少年が我が物顔で座っている。
「……えーと、もしかして半井泰我くん?」
 周は恐る恐る声をかけた。すると、少年はフン、と大きく鼻を膨らせ、
「ふざけんなよ」
「え?」
「人に名を尋ねるときはまず自分から名乗るのが筋なんじゃねーのか?」
 と言って鋭い眼光で睨んできた。
 周はたじろいだ。少年の言い分はもっともであるが、どうして自分が迎えに行くより先に勝手に教習車に乗り込んでいるのだろう。
 それに加えこの横柄な態度。小石だって当たりどころが悪ければ大惨事になっていたことだろう。
 色々と言いたいことはあったが、まぁいい、と周は思い直した。
 ともかく無事見つかったのだから、あとは通常通り教習を始めるだけだ。
「あ、ああ。すまない。そうだね」
 周はそう言って軽く謝りながら、素早く助手席に乗り込んだ。まずは自己紹介だ。
「僕は西門周。この時間を担当する君の教官だ。うちの教習所には西門が二人いるから、『あまね』って下の名前で呼んでくれて構わないよ。趣味は釣りと自動車いじりで、二十六歳独身です。とりあえずはこんなところかな? どうぞよろしく」
「ふん」
 慣れた前口上とともに右手を差し出すと、泰我は興味なさそうに顔を背けた。
「女みてーな名前」
「ハハ、よく言われるよ。さ、シートベルトつけて。たしか右回りの復習からだったかな」
 周は右手を引っ込め、営業用の笑みを浮かべた。挨拶の段階でくじけていては、この仕事はやっていけない。
 バインダーに挟んだ教習手帳を確認していると、泰我がふいに口を開いた。
「二人いるって?」
「え」
 周は顔を上げた。泰我は依然として不機嫌そうにそっぽを向いたままだ。
「それ、親父?」
「あ、ああ。そうだけど」
 そこまで問われ、ようやく質問の意図を掴んだ周は深く嘆息した。
「すごいな。どうして分かったんだ」
「ようこそ、西門ドライビングスクールへ」
 泰我は視線を校舎の屋根へ向け、ぶっきらぼうに言った。
「センスの欠片もねぇ看板だよな」
「……それはどうも」
 周はひくひくと口の端を引き攣らせた。
 泰我が読み上げたのは、去年、外注に出すお金がなくて、周が手作りで仕上げた看板だった。
 たしかに素人目でも、ピンクと黄色の配色は失敗してしまったと感じることもあるが、ここまであからさまに馬鹿にされたのは初めてだった。
 ――我慢。我慢だ。
 周は「こほん」と咳払いをし、気を取り直して訊いた。
「半井くんは今日から合宿に来たんだよね。東京から一人で? 大学は今お休みなのかな?」
 コミュニケーションスキルの第一歩はまず相手をよく理解することだ。そう思い、周は努めて明るい声を出した。
 だが、泰我はハンドルに寄りかかり、大きなあくびをしてみせた。
(全然、聞いてないし……)
 周はがくっと脱力した。溜め息をつき、ぱらぱらと手元の資料をめくる。
 半井泰我。十九歳。本籍は広島県。現在は東京の大学の二回生。
 それにしても汚い字だ。ふりがながなければ名前すら読むことができなかっただろう。
 珍しい名字に、ふととあるテレビコマーシャルの一節を思い浮かべたが、まさかな、とすぐに思い直した。
 あちこちをワックスで固めた、たてがみのような赤い髪。細い眉はきっとすべて剃り落としたものを生やしている途中なのだろう。
 深い彫りの目鼻立ちはよく整っていて、気だるそうに伏せられた横顔からは硬派なベテラン俳優のような渋みすら感じさせる。
 分厚いスウェットの上からでも分かるほどの、よく鍛えられた上半身。シートの上で窮屈そうに脚を折り曲げているところを見ると上背は軽く180センチを超えそうだ。
(黙っていれば男前なんだけどな……)
 きっと事務の近藤さん辺りが見たら黄色い声で騒ぎそうなほどのイケメンだ。(近藤さんは最近、韓流スターの出てくるドラマに大ハマリなのだ)
 ああ、もったいない。そう思いシートに深く背を凭れた周の隣で、泰我はがちゃがちゃとキーを回し、発進準備に四苦八苦していた。
「……まず、サイドブレーキを下ろそうね」
「ちっ」
 周が見かねて声をかけると、途端に車体が大きく揺れた。エンストを起こしたのだ。
「くそっ、このポンコツが! さっきからちっとも言うこと聞きやがらねぇ」
 泰我が苛立った様子で、ハンドルの中央に拳を叩きつける。すぐにけたたましいクラクションの音が周の鼓膜を突き抜けていった。
「な、半井くん。落ち着いて。まず左足で半クラッチの状態にしてから徐々にアクセルを……って、おい! 聞いてる?」
「うるせぇ! ごちゃごちゃ指図すんじゃねーよ。何様だてめぇ!」
 泰我の怒声とクラクションが鳴り響く。
(教官だよ……君の……)
 あまりの言われように、周は呆然と心の中でそんなツッコミをした。怒りを忘れ、どっと疲れが沸きあがってくる。
 泰我はそんな周を気にした様子もなく「いいから動けってんだよこのポンコツが!」と車相手に凄んでいる。
「いいから! ちょっと待って。そうだ教本。教本持ってるだろう? とりあえず発進の仕方からおさらいをしよう」
 周は慌てて提案した。
 しかし、泰我はちらりと周に視線を向けただけで、表情を変えずに言った。
「ねぇよ」
「え?」
「あんな重い本、とっくに捨てた」
「捨てたって……嘘だろ? 今日配ったばかりなのに」
 周は信じられない気持ちで呟いた。
「知るかよ。俺の辞書には教本なんて言葉はねぇな」
「そういう問題じゃないだろ。あの教本はこれから学科講習のときにだって使うっていうのに」
 むすっと唇を尖らしてみせる泰我の横顔に、周はくらくらと眩暈を催した。
「……ああ、もうしょうがない。あとで受付に来て。もう一冊あげるから」
 周は大きく肩を落とした。
 これは大変な生徒が入ってきてしまった。たまにいるのだ。教官達の間でモンスタースチューデントと噂される厄介な生徒が。
 誰もが担当を嫌がって、指名を受けても教官達の間でたらいまわしにされる。
(恨みますよ……佐々木さん……)
 周は佐々木の禿げ頭を思い出し、眉間の皺を指先で揉んだ。道理であんなに必死に代わってくれと頼み込んでくるわけだ。
 だが、久しぶりの技能教習と聞いて安請け合いをしてしまったのは他ならぬ自分だ。
 ええい、ちくしょう。
「とりあえず今は教習の時間だ。この車の中では僕の言うことには素直に従ってもらわないと始まらない。いいね?」
 周はずり落ちた眼鏡を持ち上げ、肚を決めるとどかりとシートに背を預けた。
 何が虎だモンスタースチューデントだ。相手はただの十九歳の子供ではないか。
 普段通り。普段通りに指導をすればいいだけだ。
「それじゃあ、まずもう一回エンジンかけ直して」
 周は両腕を組み、先ほどとはうって変わって固い事務的な声で泰我に命じた。
 あれだけ不躾な態度を取られたのだ。営業用のスマイルなど、こいつに向けてやる必要はない。
 泰我はそんな周の変化に一瞬だけ物珍しそうに眉間を開いたが、ガムを吐き出すと特に何も言わず大人しく指示に従った。
 キーが回り、心地よいエンジンの振動が車体に伝わる。
「そう。そうしたら、左足はクラッチ、右足はブレーキに置いて」
 横目で泰我の様子を見守り、周はてきぱきと指示を与えていく。
 マニュアル車はオートマ車と違って、発進する際にクラッチペダルを左足で踏み、一旦エンジンに伝わる駆動力を切る必要があるのだ。
「ミラー確認。オッケーだったら、ギアをニュートラルから一速に変更」
 そうしてもう一つ厄介なのが、ギアのシフトチェンジ。オートマ車ならば一度ドライブモードにギアを合わせればそれで終了なのだが、マニュアル車の場合は自分でその都度トランスミッションを変更しなくてはいけない。
 泰我が慣れぬ手つきで、ギアを左上へ移動させる。それを確認し、周は頷いた。
 なんだ。意外と素直に指導は聞くじゃないか。
「よし。それじゃあサイドブレーキ下ろして、クラッチいっぱいに踏んで」
「おう」
「アクセルを踏んだら、少しずつ左足を浮かしていくんだ。ゆっくり……ゆっくりね」
 本来だったら、こういった発進の指導はシュミレーターを使った一時限目、もしくは初めて実車に触れた二時限目にやるものなのだが、この様子では前の時間を担当した佐々木は泰我に怯えてろくに指導できていなかったのだろう。
「おっ」
 泰我が短く声を上げる。周の指示通りに手順を踏み、ようやく車がのろのろと動き始めたのだ。
「動いた……動いたぞ!」
 泰我はぎゅっと強くハンドルを握り締め、興奮した声を聞かせた。心なしか鼻息もあがっているようだ。
 周は思わず目尻を細めた。思いがけず見られた泰我の年相応な反応に、少し安心したのだ。
「そう、その調子。車が走り始めたらクラッチ外して」
 泰我が黙って頷く。クラッチから左足を離すと、右足で踏み込んだアクセルの駆動が直にエンジンに伝わる。
 亀のような動きから、だんだん車がスピードを上げ始めた。
「ハンドル少し右に切って。コースに乗ろう」
 周が前を指さすと、泰我はこくりと頷いた。
 緊張しているのか、さっきまであんなに暴言を吐いていたのが嘘のような静けさだ。
 大きな体ががちがちに固まっている。正面のコースを睨む眼光は獲物を射殺さんばかり鋭さだ。
(ただの右回りなんだけどなぁ……)
 周は思った。右回り、とは所内で一番外側のコースをぐるりと一周するだけの、基本中の基本のような教習だ。一本内側の左回りのコースに比べカーブもゆるく、まさしく初回にうってつけのコースなのだ。
「半井くん? 大丈夫?」
「……おう」
 思わず声をかけてしまったのは、泰我があまりに真剣な様子で、食い入るように運転をしていたからだ。いくら初めてまともに走ったとはいえ、ここまで余裕のない生徒も珍しい。
(本当に大丈夫かなぁ……)
 たっぷり間を置いて生返事を返したきりの泰我の横顔を、一抹の不安を抱えつつ盗み見る。
 教習車はゆっくりとカーブを曲がり、直線のコースに入ってきた。
「それじゃあ少し加速してみようか」
「え?」
「えっ、て君……。ここは加速の練習をするための直線なんだから」
 周はやれやれとシャツの胸ポケットからボールペンを取り出した。教習手帳に要指導項目として追記する。
「ほら、いいから早く。アクセルもっと踏んで」
「お、おう」
 顎で前をしゃくり、促すと泰我は意を決めたように一気にアクセルを踏みしめた。
 エンジン音が鈍い音に変わる。細かく車体が震え始めたのを見て周は次の指示を出した。
「よし。スピードが出てきたな。それじゃあ、二速に変えよう」
「は? 二速?」
 泰我がきょとんとした顔で目線を寄越す。
「ギアだよ。左手貸して。クラッチは踏んだ?」
「クラッチ……」
「よし。変えるよ」
「ま、待て……」
 もたもたとしている泰我に構わず、周は右手を泰我に被せギアの操作部を握った。
 がくんと手前に引く。
「うおっ!」
「スピード上げて! 左足は半クラッチ!」
「ちょっ、待っ……待てって!」
 泰我が慌てた声を聞かせる。その間もどんどんスピードはあがっていく。
「次! 三速いくよ」
 周はもう一度泰我の手を強く握った。
こういったものは言葉で教えるより体で覚えさせた方が早い。
 だから、少し無茶をしてしまったのだ。
「うわっ」
「……っ馬鹿! 何やって」
 はっと顔を上げたときには、目の前にフェンスが近づいていた。
「スピード落として! そこの角で曲がるよ」
「んなこと言ったって!」
 泰我の声が切羽詰まる。左手でおろおろとギアを探している。
「ギアはいいからブレーキ! 何してるんだ!」
「だって」
「……っ、危ないっ!」
 フェンスに衝突する!
 周は咄嗟に助手席のブレーキを強く踏み、右手でハンドルを奪った。
 キキィ! と激しい音を鳴らして、前輪が路面を削る。ぐるんと大きく車体が回転した。
「……っ!」
「うおっ!」
 二人同時にシートから飛び上がりかけたところを、シートベルトがぎりぎりのところで阻止する。
 どん、と鈍い音が後部座席から響いた。どうやらトランク側の車壁を犠牲に、どうにかフェンスとの前面衝突は免れたようだ。
「……はぁ、はぁ……」
 泰我が真っ赤な顔をして、荒い吐息を洩らしている。急停止の衝撃で頭を天井にぶつけたのか、額を押さえて「信じられんねぇ……何だ今の」と呟いている。今ひとつ、何が起きたのか理解できていないようだ。ぽかんと開いた口。
 周はむかむかと沸き立つ怒りに任せ、力の限り泰我の襟首を引っ掴んだ。
「何考えてるんだ! カーブにノーブレーキで突っ込むなんて! ここが所内だったから良かったようなものの、公道だったら死んでたぞ!」
 額と額がぶつかりそうな距離で唾を飛ばす。
 泰我はしばし呆気にとられたあと、すぐに目を剥いた。
「うっせぇ! 一度にワケ分かんねーぐらい沢山指図してきやがって! お前ェこそ何考えてんだ! ブチ殺すぞ!」
「それはこっちのセリフだ! 僕が咄嗟にブレーキを踏まなかったら、このまま君は死んでたんだからな! 助けてもらったっていう自覚ぐらいないのか!」
「ぐっ……」
 その言葉に、泰我は押し黙った。
 ようやく自分の置かれた立場が分かってきたようだ。そして、自分のしでかしてしまったことの重大性も。
 さすがに反省したのか、泰我は気まずそうに顔を伏せたっきり、黙りこくってしまった。
 急ブレーキの音を聞きつけ、事務所や他のコースにいた教官達が何事かと周達のもとへ駆けつけ始めている。
 それをサイドミラーで確認し、周は詰めていた息を大きく吐き出した。
「……分かればいいんだよ。すまない。少し言い過ぎた」
 車内の沈黙が重すぎて、周は不本意であったが己の非も詫びた。
 たしかに実質の初回講習の生徒相手に、いきなり三速まで入れさせるのは無茶があったのかもしれない。
 事故を引き起こしかけた原因が多少なりとも自分にあるのならば泰我ばかりを責めるのは筋違いだ。
「すまない。僕も悪かったよ」
 もう一度溜め息混じりに詫びる。しかし、「でもこういうのは二度と御免だからな」と付け加えることも忘れない。
 周が技能教習を中々任せてもらえないもう一つの理由。それは、よく言えばつい指導に熱が入ってしまうこと。そして、元レーサーという経歴上、無意識のうちに生徒に必要以上のレベルを期待してしまうことだった。
 周先生は優しい外見に似合わず、西門ドライビングスクールきっての鬼教官――それがもっぱらの周の評判だった。
(まずいな……。半井くん……これに懲りて辞めるとか言い出したらどうしよう)
 ただでさえ生徒数が少なく、毎春になると首都圏の大学へ頼み込んでチラシを配りに行かせてもらうような弱小自動車学校だ。
 赤字ぎりぎりに価格を抑えた合宿プランの生徒でも引っ張ってこない限り、経営が成り立たなくなっている。
 だから、ここで泰我にへそを曲げられ帰られるのは非常にまずい。前もって振り込んでもらった合宿費を返金しようにも、すでに今月分の減価償却費として消えてしまっているのだ。
「な、半井くん……?」
 周は恐る恐る泰我の名を呼んだ。キレるだろうか暴れるだろうか。おおよその覚悟を決め、周はごくりと唾を飲み、泰我の反応を待った。
 だが、たっぷりの間を置いて、泰我がぽつりと零したのは予想外のセリフだった。
「……なかなかやるな、お前」
「は?」
「気に入った」
 泰我がすっと切れ長の瞳を持ち上げる。真正面から見つめられ、周は思わずうっと仰け反った。
 突然何を言い出すんだこの男は。
 気に入った? 何が? なんで?
 疑問符をいっぱい浮かべた周の顔を泰我は上から下まで値踏みするように眺めながら言った。
「たしか周って言ったな」
「う、うん?」
「喜べ」
「え?」
 急に顎の先を掴まれ、周は目を丸くした。
 そして泰我は満足そうに頷き、ぬけぬけとこう言い放ったのだ。
「お前。今日から俺の舎弟にしてやってもいいぜ?」