虎と朝までドライビング

1.

 その日は気ばかりが急いていた。
 四周目に入ったところでコーナリングの位置取りを失敗したのだ。また一つ順位が落ちたことを、前を走る排気音があざ笑う。
 ちくしょう。
 西門周(にしかどあまね)は下唇を噛み、レーシンググローブを嵌めた指先で強くハンドルを握り締めた。アクセルはとうに限界まで深く吹かしている。
 無理な加速に車体が悲鳴を上げ、大きく震え出しているのが分かった。しかしまだピットインをするには早い。直線に入ると案の定クルーが旗を振って呼んでいた。
 だが、周はレース前に行った最終調整を信じ、そのまま突っ切ることにした。風を切り、ノーブレーキのままヘアピンを攻める。
 地面を擦るタイヤから伝わる振動。まるで車と自分が一体になったかのような感覚だ。
 青空の下に心地よいエンジン音だけが木霊する。視界は研ぎ澄まされ、余計なものはもう何も映らない。今日は行ける。そう確信し、ハンドルを大きく切った。瞬間だった。
 前を走る車のブレーキランプが点灯しているのに気づくのが一瞬遅れた。次に飛び込んできたのは横転する青い車体。立ち込める煙。
 まずい!
 咄嗟にブレーキを踏みしめる。ハンドル操作が間に合わない。
 次の瞬間、周の体は青空の下に舞い上がった。


 耳をつんざくブレーキ音に周はハッと顔を上げた。
 書類に走らせていたペンが机の上に転がる。去年、西門ドライビングスクール創立二十五周年を記念して作ったボールペンだ。生徒に配るはずが発注数を誤り、今ではすっかり窓口事務の消耗品として大活躍中のものだ。
 周は立ち上がり、窓のカーテンを開いた。音は外から聞こえた。よく晴れた冬空の下で、所内のコースを何台もの教習車がのんびりと走っている。いつもと変わらぬ光景に、特にこれといった異変は見当たらなかった。
(僕の聞き違いか……?)
 すっかり長くなってしまった後ろ髪をぼりぼりと掻き、周が首を捻っていると、荒々しい足音とともに窓の横の自動ドアが開いた。
「ったく、何だってんだ最近のガキは」
 見えたのはでっぷりと肥えた下腹だった。苛立った声に呼応して、ぷりぷりと腹の肉が揺れている。
 赤らんだ顔で受付に戻ってきたのは見知った中年教官だった。
「どうしたんですか? 佐々木さん。ずいぶん派手な音がしていましたが」
「……周ちゃん」
 声をかけると、佐々木は強面の顔をきゅっと切なそうに歪めた。そして突然、熊のように両腕を広げ、がばっと周に抱きついてきた。
「怖かった。おじさんは怖かったよ。教官歴二十年にして初めて生徒に殺されるかと思った」
「さ、佐々木さん……苦しい……」
 ぎゅうぎゅうと抱き潰されんばかりに締め付けられる。おいおいと男泣きに噎せる佐々木の背を周は遠慮がちに叩いた。
 普段からスキンシップが過剰なきらいはあるが、竹を割ったような性格とそのひょうきんな外見から佐々木はどうも憎めない人間である。
「はいはい、そこまで。チャイムが鳴っていましてよ、佐々木さん。次の生徒さんがお待ちです」
「うう……」
 泣きつく佐々木を周から引っ剥がし、助け舟を出してくれたのはパートの近藤さんだった。十年前から受付の事務に入ってもらっているベテランの女性だ。
 西門ドライビングスクールは周の父が経営する田舎の小さな自動車学校だ。従業員は佐々木と同じような専属の教官があと八名と、事務の近藤さん、そして周の父と周ですべての仕事を回している。
「げ……」
 佐々木が壁に吊り下げたホワイトボードを見て、嫌な声をあげる。それは向こう一週間の教習の担当を表にして書いたものだった。
「頼む! 周ちゃん」
「え」
 佐々木は周に向き直ると、顔の前で音を立てて両手を合わせた。
「この通りだ。次のコマ。担当、俺と代わってくれ」
「え? ええ? でも僕は」
「無理を承知で頼んでいる。佐々木剛、一生の頼みだ」
 佐々木が禿げ頭を九十度に下げる。慌てて周が「よしてください」と肩を抱き起こすと、佐々木は青い顔をして呟いた。
「俺はもうあのガキの車に乗るのはこりごりだ」
「は、はぁ……」
 事情が掴めず、周が戸惑っていると、
「やぁねぇ。佐々木さんの一生に一度のお願いを聞くのは今月に入ってから何度目かしら」
 と言って、受付デスクの向こうから近藤が茶々を入れてきた。佐々木は途端に目を剥いた。
「うるせぇ、ヨネ婆。お前は干菓子でも食ってろ」
「あら、ひどい」
 ヨネ婆こと、近藤ヨネ子がころころとよく肥えた体をよじって笑う。
「周ちゃん、断っていいわよー」
「いえ、大丈夫です。事務方ばかりやっていると体も鈍るので、たまには技能教習も」
「本当か? 周ちゃん。恩に切る!」
 思ったままを口にすると、佐々木がすっ飛んできて周の手をぎゅっと握った。目がきらきらと輝いている。まったく現金なものだ。
「それにしても」
「ん?」
「教官として百戦錬磨の佐々木さんの手に余るだなんて、どんな生徒さんだったんですか?」
 ハハ、と力なく笑いながら、興味本位で尋ねると、佐々木はしばし首を捻ったあと、
「……虎だ」
 急に物々しい口調で答えた。
「あれは人間じゃねぇ。野に放たればかりの虎だ。そういう目をしてやがった」
「虎……ですか」
 またまたご冗談を。
 心の中で軽くツッコミを入れながら、周は佐々木から教習用の資料を挟んだバインダーを受け取った。
 そこには「半井泰我(なからいたいが)」と書かれた、目つきの悪い赤髪の少年が不機嫌そうにこちらを睨んでいた。