家畜パーク
3.
トラックの荷台に揺られること丸一日。東京から神戸の動物園にやってきた裕太は、まず降り立った先に広がる広大な敷地に驚いた。
神戸の動物園は展示用の檻のほかに、サファリゾーンと呼ばれる自然を模した放し飼い用の施設があって、見物客はその中をバスや自家用車で回る。
園内はどこも改装されたばかりなのか、真新しいペンキのにおいとデザイン性に富んだ明るい内装に包まれていた。檻の前の見学通路には必ずスロープが併設され、徹底的にバリアフリーが施されているのが窺えた。今まで暮らしていた動物園とは対照的に近代的な造りだ。
裕太は入園時の身体検査を終えると、すぐに雌と同じ檻の中に入れられた。雌の獣人が飼育されているのは神戸の動物園だけなのだと飼育員が誇らしげに喋っているのを聞いた。雌の名前は『アンナ』と言った。
しかし、実際にアンナと引き合わされると、彼女は裕太の母親ほどの年齢で、どこが乳房か腹の肉かも区別がつかないほどに太っていた。どこか疲れたような煤けた顔をして、裕太を一瞥するとすぐに興味なさそうにそっぽを向いた。
その様子を見守っていた飼育員達から一斉に落胆の声があがる。「せっかく高い金を払って若い雄を連れてきたのになぁ」と呟く声が聞こえた。
「自然繁殖が無理なら人工授精かな」
「そうだな。もうしばらく様子を見て無理そうなら……」
檻の外で恐ろしい言葉が交わされる。裕太はそこでようやくなぜ自分が神戸の動物園に引き取られたのかを理解した。自分はアンナの種馬として買われたのだ。
それからしばらくアンナと同じ檻で過ごしたが、裕太は彼女に触れることすらできなかった。焦れた飼育員達は無理矢理裕太とアンナをつがわせようとしたりもしたが、勃たないものはどうしようもなかった。不能かと疑われて、裕太は何度も身体検査を受けた。獣医にも連れていかれた。体の奥を無骨な手でまさぐられて、裕太は羞恥に泣いた。
そのうち、飼育員達は自然繁殖を諦めたようで、裕太を診察台の上にくくりつけ精液だけを採取することを思いついたようだった。チューブのついた漏斗のようなものをペニスに被せられ、自慰をするように強制される。それもできないと裕太が首を振ると、両足を大きく広げたまま椅子に縛り付けられて、尻の中におかしなものを突っ込まれた。きゅうりのような形をした半透明の器具だった。器具の先端についたトゲのような部分が尻の中でこすれると、ビリと電流のような感覚が走り意識していないのにペニスが勃起した。前立腺を裏側から刺激されたらしかった。
「あっ……い、や……やだ……」
裕太は全身を痙攣させ、恐怖にうめいた。勝手に頭をもたげたペニスの前からたらたらと透明の汁が滴っている。自分のものとは思いたくなかった。どんなに心は拒んでいても、体が勝手に反応する。尻にこんなものを入れられて感じているなんて信じたくなかった。
「ひっ、ぅあ、あアっ……!」
飼育員の手で器具を抜き差しされるとたまらなくなって、裕太は悲鳴をあげて粗相をした。飼育員は表情を変えずに漏斗の中の目盛を確認すると、採取した裕太の精液の量を紙に記載する。
それが日課となった。
展示用の檻で精液の採取が終わると、午後は決まってサファリゾーンへ連れていかれた。
神戸の動物園の目玉の一つに、狩猟を擬似体験できるというプログラムがあった。
裕太は両手足の間を短い縄で結ばれたまま、草食動物のエリアに放たれた。すぐに排気音を立てて客を乗せたジープがやってくる。狙いを定めた銃口が裕太を向いている。裕太は四つん這いになったまま必死で逃げた。手足に繋がった縄のせいで立ちあがることができなかったのだ。
裕太の耳の後ろでエアガンが炸裂する。ピッ、と音を立てて、裕太の後ろ髪を揺らす。裕太は草むらの中に転げた。雨あがりの地面から泥が跳ねて裕太の顔を汚す。二発目のエアガンが裕太の太腿に当たった。痛みに悲鳴をあげ、裕太はその場でのた打ち回った。
「仕留めたか?」
ジープからエアガンを片手に客が降りてくる。
「ウサギか? まだ若いな」
「なんだ。雄かよ。せっかく可愛い顔をしてるかと思ったのに、つまんねーの」
いずれも若い男達だった。完全にゲーム感覚で狩猟を楽しんでいる。裕太の近くまでやってくると彼らは再びエアガンを構えた。
「ほら、逃げろ逃げろ。撃つぞ」
男達がひらひらと手を振る。裕太は懸命に起きあがり、四つん這いになってぬかるむ地面を蹴った。男達の笑い声が追いかけてくる。
(助けて……)
飛び交う銃声の中で、裕太は唇をわななかせた。助けを求めても誰も助けに来てくれなどしないけれど、それでも願わずにはいられなかった。
(助けて笹野さん……)
優しい笑みが瞼の裏に浮かぶ。辛いとき、怖くて泣きそうになるとき、思い浮かべるのはいつも決まって笹野の顔だった。
笹野だったら、ここまで自分にひどい扱いをしてきたりはしなかった。恥ずかしいことは何度も教えられたけど、それでも上手にできれば優しく頭を撫でて褒めてくれた。こんなふうに自分の体を無駄に傷つけて遊ぶようなことはしなかった。
エアガンが炸裂する。もう片方の足も撃たれて、裕太はついに動けなくなった。追いついた男達が裕太の耳を掴んで細い体を引っくり返す。至近距離からさらに腹部を何箇所か撃たれて、裕太は絶叫した。
「ハハ、こいつ失禁しやがった」
「しょんべんくせぇ家畜だな」
あまりの恐怖に濡れた裕太の股間を見て、男達があざ笑う。捕まえた獲物を誇示するように男達は裕太を木の枝に逆さに吊るし、裕太を的にしばらく射的を楽しんでいた。朦朧とする意識の中、裕太は「笹野さん……」と声にならない声でうめき続けた。
夜になってバックヤードに戻されると、疲れきってもう何もする気力が残されていなかった。何度も舌を噛んで死のうとした。しかし、飼育員に気づかれ、穴の開いたボール玉のようなものを口に噛まされ、それも叶わなくなった。
死ぬことも許されない。絶望の果ての中で、どうやったらここから逃げられるのだろうと考えた。一番簡単な、天国へと逝く道は閉ざされている。
(逃げるってどこへ?)
自問する。
(俺は笹野さんにも見捨てられたのに?)
逃げても行く場所なんてない。たとえ、何か奇跡が起きて動物園の外へ逃げることができても、こんな耳をしていたら自分が獣人だと一発でばれてしまう。家もない。母親は刑務所の中だ。誰も自分を守ってくれない。人間として扱ってくれない。この世の中で自分の話をまともに聞いてくれる人なんて彼のほかにもういないのだ。
(笹野さん……)
無性に笹野の声が聞きたいと思った。笹野は最後まで自分のことを家畜としてしか見てくれなかったけど、それでもいつも根気よく自分の話に耳を傾けていてくれた。
これは罰だと思った。笹野の優しさを疑って、身の程以上の扱いを望んで、笹野を遠ざけた。笹野は怒っているだろうか。だから、自分を手放した。調教途中の家畜を笹野が手放すのは珍しいことだと園長が言っていた。自分はそれほど笹野に嫌われたのかもしれないと思うと胸の奥がきゅうと痛んだ。
自分の頭を撫でる笹野の温かな手を思い出す。
もし、もう一度笹野に会うことができたなら。笹野に謝りたいと思った。
そしてもし叶うのならば。
――もう一度だけ頭を撫でてほしいと思った。
神戸の動物園に連れてこられて一ヶ月ほど過ぎたある日。初雪のちらつく寒い朝だった。
展示用の檻に入れられ、裕太は両足を大きく広げたまま朝の日課である精液採取の時間を待っていた。
いつものように開園と同時に人だかりができる檻の前に、裕太はふと見慣れない人影を見つけた。猫背がちな男だった。背が周囲の人垣よりも頭一つ分高く飛び出ている。
裕太は目を疑った。灰色のニット帽と、膝まで届く黒いダウンジャケット。水色の作業着こそ着ていないが、その背の高い男は笹野のようにも見えた。
まさか自分の様子を心配して見にきてくれたのだろうか。遠い神戸まで。休日を使ってわざわざ。裕太はごくりと唾を飲み込んだ。心臓が早鐘のように脈打ち始める。
男は裕太の視線に気づくと、顔をあげた。やっぱり笹野だった。別れる前より少しやつれた様子だったが、元気そうだった。目が合うと、笹野はわずかに表情を強張らせつつも、裕太に向かってこっそりと片手を挙げてくれた。
笹野は何をしに来たのだろう。わからないけど、笹野に心配をかけたくなかった。自分は変わらず元気だと笹野に思ってもらいたかった。
けれど動けない。足を台の上に固定されているせいで、笹野の近くに行って話をすることも叶わない。
どうすればいい。どうすればいいのだろう。わからなくて、しばらく悩んだあと裕太は恐る恐る自分の股間に手をかけた。自分からそこに手を伸ばしたのは初めてだった。
神戸の飼育員達は、毎日の日課として行われる精液採取を客に見せることのできる『芸』として裕太に仕込みたがった。ただ器具を使い射精をするだけでは面白くない。自分で扱いて出してみろ、と何度も強制された。そうすれば客が喜ぶのだと教えられた。
とても嫌だったその行為が、笹野を前にするとすんなりと行えた。笹野が見ているという安心感があった。頑張って『芸』をすれば笹野に褒めてもらえるかもしれない。長い棒を膝に挟み、足を大きく広げた格好で裕太は必死に『芸』をした。右手でペニスを握り締め、見よう見まねで上下に揺らす。反射のように尻の穴が窄まって中に突き刺されたままの器具がイイところを掠めた。
「んッ……んー、ふ……」
思わず声が洩れた。見物客が驚いたように一斉にざわめいた。口に咥えたボール玉の隙間から涎が滴り、裕太の裸の胸をはしたなく汚した。
みんなに見られて恥ずかしいはずなのに、惨めなはずなのに、気持ちよかった。
ただ、自分が元気な姿を笹野に見てもらいたかった。
「うーっ、うー……」
笹野さん、笹野さん、と何度も名前を呼んだ。けれどボール玉をはめた口から洩れるのは、低いうめき声ばかりで明確な音を成さなかった。
自分で自分の性器をいじって感じているなんて、自分は変態なのかもしれない。笹野に見られていると思うだけで、ペニスがかちかちに張り詰めた。もしこの手が笹野だったらと想像する。そう思った瞬間、我慢できず裕太は弾けた。拙い手技でこんなに感じるなんて嘘みたいだった。勢いよく吐き出した精液は漏斗に収まりきらず、ピュッピュッとあさっての方向に飛んだ。見物客がどよめく声が聞こえた。歓声とともに、何枚もフラッシュをたかれる。
裕太は檻の外にぼんやりと視線を向けた。見物客の中に笹野の姿を探す。けれど、灰色のニット帽はどこにも見当たらなかった。芸の途中で呆れて帰ってしまったのだろうか。
乾いた笑いがこぼれた。さすがの笹野でも、こんなに惨めな姿を目にしたら自分に嫌気がさすだろう。そこまで考えが至らなかった。俺は馬鹿だなぁと思った。長く家畜として動物園で飼われているうちに、思考がずいぶんと鈍ってしまったのかもしれない。ほかの人間の心が、ましてや笹野の考えていることがわかるはずもないのに。
これに懲りて笹野はもう二度と自分に会いにきてくれないかもしれない。そう思うと気分が暗く沈んだ。芸がうまくできたら、もう一度笹野に褒めてもらえるかもしれないなんて、浅はかな考えを抱いた自分に嫌悪を催す。
(もう、十分じゃないか。笹野さんが会いに来てくれた。一目会えた。もうそれだけで……)
そっと目を伏せる。目尻に涙が滲んだ。そのときだった。ダン、と何かを打ち付けるような鈍い物音が響き、裕太の入っている檻全体が揺れた。地震だろうか。顔をあげると、見物客の柵を飛び越えて、一人の男が檻の前にやってくるのが見えた。男は展示用の板ガラスにへばりつくと、大声で何かを叫びながら拳でガラスを叩き始めた。
「ユータ! ユータ!」
裕太は息を呑んだ。乱暴に檻を揺らす男は、今までに見たこともないような怖い顔をしていた。けれど、笹野に違いなかった。笹野は切羽詰まった表情で、何度も口をぱくぱくと動かしている。防音のガラス越しにはよく聞こえなかったが、名前を呼ばれているような気がした。
(笹野さん!)
裕太は椅子の上で腰を浮かした。笹野の拳から血が滲んでいるのが見えた。力任せにガラスを殴り続けているからだ。いつになく笹野が怒っているのが振動で伝わってくる。
(笹野さん、笹野さんっ)
涙がこぼれる。口にはめられたボール玉が憎かった。
「うっ、うぅー、うぐーっ」
どうして声が出ないのだろう。
笹野の姿はすぐ近くに見えるのに、どうして二人の間にはこんなに分厚いガラスの板があるのだろう。
裕太は無我夢中で身を捩った。思いきって体重を前に傾けると、椅子が倒れた。膝から地面に落下する。痛みよりも焦りが勝った。笹野の後ろから警備員が駆け寄ってくるのが見えたからだ。笹野が捕まるより早く、少しでもいいから笹野に近づきたかった。
足首に椅子を引きずったまま、裕太は地面を這った。腕の力だけを頼りに笹野のもとまでずるずると進んでいく。
「ユータ……」
笹野が痛ましげに眉を寄せて、その場にしゃがみこむ。ようやく笹野のもとまで辿り着くと、裕太はガラスに張り付いた大きな手にそっと自分の手を重ねた。ガラス越しでも笹野の温もりが伝わってくるような気がした。
涎の滴るボール玉でかつかつとガラスを叩く。涙が溢れて止まらない。笹野が見物客の柵を越えてそばにやってきてくれただけで嬉しかったのに、どうして自分はこんなに欲深いのだろう。近づけばもっと触れたいと思う。触れればもっと触られたいと思う。それがたとえ気の迷いでも構わないから、一瞬だけでも笹野に愛されたいと思った。
(笹野さん……)
縋るように笹野を見つめると、笹野の喉がごくりと動いた。真剣な瞳で何かを懸命に考えているようだった。ほどなくして、笹野の隣にやってきた職員が「何をしているのか」と笹野を問い詰め始めた。けれど、笹野は裕太から目を逸らさなかった。職員に肩を揺さぶられ、見物客の中に戻るよう注意されても笹野は動かなかった。
周囲にいた見物客がひそひそとざわめき、「何あの人?」「どうしたんだ?」と笹野を指差す。笹野は懺悔をするようにガラスの前で深く項垂れた。大きく息を吐く。笹野はゆっくりと顔をあげた。形のいい唇が動いて、何事かを呟く。聞き取れず、え、と目を見開いた瞬間、笹野の顔が近づいてきた。笹野の唇とガラス越しに触れる――
「うぐっ!」
けれど、それも一瞬。突然強い力でぐっと首輪を引かれ、裕太は派手に後ろに転げた。後頭部から地面に叩きつけられる。
「この家畜がっ! 何してる!」
飼育員の声だった。いつの間に檻の中に入ってきたのだろう。騒ぎを聞きつけ、バックヤードから駆けてきたに違いない。
「『芸』の時間は終わりだ! とっとと裏に戻れ!」
耳を引っ掴まれる。そのまま地面に引きずられた。あまりの痛みに悲鳴をあげると「うるさい!」と怒鳴られ、顔を蹴られた。
「ユータ!」
檻が揺れる。笹野が両腕でガラスを叩いてきた。けれど、それもすぐに両脇を警備員に押さえつけられ、檻から引き剥がされる。興奮した猛獣を従えるような容赦のない扱いだった。
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
飼育員が見物客に向かって言う。強い力で無理矢理頭を下げさせられた。そこで裕太はようやく気がついた。自分が今、笹野に望んだ行為の意味するところを。
全身が震え始める。自分だけならまだいい。悪いのは自分だ。罰なら全部受ける。けれど、笹野は。笹野だけは。
「うぁ……」
笹野は悪くなんかない。自分が家畜の分際で身のほどもわきまえず、キスをねだったりなんかしたから。
だから。お願いだから。笹野さんを連れていかないで。笹野さんを、俺の笹野さんをどうか、どうか――
「うぅっ、ううぐ……うっ、ぐぅぅああああ――」
バックヤードへと引きずられる道すがら、声にならない悲鳴が檻の中に木霊し続けた。
体が痛い。胸が痛い。喉も魂も枯れ果てて、きっとこのまま自分は虫けらのように朽ちていくのだろうと思う。
それは予感ではなく、確信に近い未来だった。このまま動物園で見世物として飼われ続け、何の希望もなく、一生檻の中で漫然とした日々を過ごす。そこに、果たして自分が生きている意味などあるのだろうか? ……わからなかった。
耳の遠くでサイレンの音が鳴り響いている。けたたましいその音に、裕太はぼんやりと目を開いた。
どうやらあのあと薬を嗅がされて眠っていたようだ。バックヤードの天井に開けられた小さな採光窓から夜空が見える。泣き疲れたせいか瞼が重く腫れぼったい。両手足は暴れないようにと縛られたままで、身動き一つ取れなかった。
窓の外には細かい雪がちらついていた。道理で寒いわけだ。裕太は鼻を啜った。裸で過ごすことにはもう慣れたけれど、藁の一本も敷かれていない寝床ではこのまま冬を越せる自信がなかった。
裕太は寒がりだからね、と言って、夏なのに毛布を持ってきてくれた笹野の笑顔を思い出す。檻の中に人間が使う寝具を持ち込むことは固く禁止されているのだと、あとで園長から嫌味たっぷりに聞かされた。笹野は自分が使うための毛布だと言い張って、無理を通したらしい。結果として、笹野は本当に檻の中で添い寝をしてくれることになったから、その嘘は嘘ではなくなってしまったけれど。
……笹野は無事帰ることができただろうか。今日の出来事を思い出し、裕太はため息をついた。警備員に捕まったあと、笹野はさらに悪い事態に陥ってなどいないだろうか。自分を守り育ててくれた母親が刑務所に入れられてしまったように、自分に関わったばっかりに罪に問われてはいないだろうか。それだけが心配だった。
きんと冷えた空気を切り裂くように、サイレンの音が鳴り響く。音は何かの警報機のようだった。さっきから、檻の外で灰色の制服を着た飼育員達が一斉にどこかに向かって駆けていくのが見えていた。何かが起きたのだろうか。園内が慌ただしい。裕太は首を伸ばした。
あっという間に檻の周囲に人気がなくなった。しばらくすると、誰かの足音が近づいてきた。飼育員が戻ってきたのかと思って目線をあげる。がちゃん、と檻が乱暴に揺すられる。
「ユータ!」
名前を呼ばれ、裕太はびっくりして目を見開いた。重い体に鞭打ち、扉の外を振り返る。最初は自分の願望が見せた幻かと疑った。それぐらい信じられなかった。……笹野だった。神戸の飼育員の格好をした笹野が息を切らして、そこに立っていた。檻を掴み、どこからか盗ってきたらしい鍵の束を手に、扉の錠と格闘している。
ほどなくして、扉が開き笹野が檻の中に足早に入ってきた。
「立てるか? ユータ」
両手足の縄をほどかれ、腕を取られるまま立ちあがる。
「これを着て」
笹野は手に持った服を裕太に差し出した。白いハイネックのセーターに細身のジーンズ。それに黒いダウンジャケットと灰色のニット帽。昼間、笹野が着ていた服だった。
「人間のふりをして。ここから逃げるよ」
笹野が耳元で囁く。答えるより早く、てきぱきと服を着せられ裕太は戸惑った。
「ど、どうして」
事態がよく飲み込めずしどろもどろに訊く。笹野がどうしてここにいるのか。とっくに帰ったのではなかったのか。
「本当は一目元気な姿を見たら帰るつもりだった。ユータは僕のことを嫌っているのかと思っていたから……。だけど、あのときユータの目を見て、どうしてもユータを連れて帰らなくちゃ気がすまなくなった」
笹野は作業を続けながら、口早に言った。
「さっきはごめんね。もしかして僕のせいでまた叩かれた? こんなに傷が増えてる」
笹野の指先が裕太の頬を撫でる。そこにはまだはっきりと、昼間調教師に踏まれた靴底の痕が残っていた。
「あのあと、事務所まで連れていかれてね。展示中の獣人を刺激するなって、ずいぶんとこっぴどく注意されたよ。けれど、実は僕もほかの動物園で飼育員をしているんだって話をしたら仕事話で盛りあがっちゃって……。それで今まで飲みに行ってきたんだ。彼らと一緒にね。ここに戻ってきたのは、事務所に忘れ物をしたからって言って。そのときはもうみんなもうべろべろに酔ってたから、ここの鍵と制服をこっそり借りてくることなんて訳なかったよ」
笹野は悪戯が成功した子供ように笑って、裕太の顔の前で鍵の束を揺らした。その中の何本かを順に試して、鉄柵に繋がる裕太の首輪も外してくれた。
廊下ではサイレンが鳴り続けている。
「まさか、このベル」
裕太ははっと気がついて言った。
「うん。僕が鳴らした」
笹野は何でもないことのように答えた。そして、裕太に服を着せ終えると満足そうに微笑んだ。
「よし。ちゃんと着れたね。こうして見ると、本当に人間みたいだ」
頭をくしゃりと撫でられる。笹野は最後にニット帽を取り出し、裕太の耳をその中に丁寧に折って隠すと、裕太の手を掴んで出口へと導いた。
「さぁ、おいで。行くよ」
力強く手を握られる。笹野と一緒にここから逃げる? それはとても魅力的な誘いだった。けれど、同時に怖くもなった。もし、このまま笹野が自分を逃がしたら、笹野は捕まってしまうのではないだろうか。自分が神戸の動物園に引き取られたとき、多額の契約金が支払われていたはずだ。それなのに勝手に逃げ出したりなんかしたら……笹野が罪に問われるのではないだろうか。
「だ、だめ」
裕太は笹野の手を解いた。その場に蹲る。
「やっぱり俺、行けない。……行けない。ごめんなさい」
「どうして?」
笹野が首を傾げる。膝を折り、裕太の顔を覗きこんでくる。
「何を言ってるの。今はわがままを言っている場合じゃないよ、ユータ。早く逃げなきゃ」
笹野の言っていることはわかる。笹野が焦る理由も。けれど、裕太はどうしても素直に頷くことができなかった。
「ユータ!」
笹野が苛立った声で急かしてくる。
「だ、だって……」
裕太は震える声で訴えた。
「俺を連れて逃げたら、笹野さんがおかしな人だって思われる。獣人なんかと一緒にいたら、笹野さんが……」
檻の前でガラス越しに笹野とキスをしたとき。痛いほど突き刺さった見物客の冷ややかな視線を今でも覚えている。
自分が奇異な視線で見られるのは構わない。けれど、それと同じものを笹野に味わわせたくはなかった。世間から異質なものとして認識される疎外感を。あの底なしの絶望感を。そんな危険を冒してまで、笹野にすべてを捨てて自分を逃がしてくれなんて、とても言えなかった。
その場に蹲り、唇をわななかせていると、
「ユータは馬鹿だね」
と、温かな手が頬を包んできた。水仕事で赤切れた、かさかさの大きな手だ。
「そんなことを気にしてるの?」
笹野はくしゃりと顔を歪めて笑った。
「僕は元々少しおかしな人間だよ。気持ち悪いぐらいの動物好きのせいで満足に喋れる話題といったらそれしかなくて、おかげで友達は少ないし、偏屈なくせに妙なところで優柔不断。いつも周りからは変なやつだって思われてる。だから、今さらだ。人になんて言われようともう気にしない。自分でもなんでこんな大胆なことをしているんだろうって不思議に思うよ。けどね。僕を本気にさせたのは、ユータ。君なんだよ」
笹野の指が垂れる鼻水を拭ってくれる。胸が詰まって苦しかった。
「だから、ユータ。正直に言って。ユータが本当に嫌なら僕はユータを連れていかない。このままユータを神戸に置いて帰る。ユータがそれでいいって言うなら」
静かな声で突き放すように言われ、裕太はぐっと息を呑んだ。
笹野は自分に選ばせようとしている。その優しさが辛かった。笹野に自分と同じところまで堕ちてきてほしいなんて、望めるはずもないのに、それでも本音を引きずりだそうとしてくる。必死に隠した醜い願いを口にしても、笹野は許してくれるのだろうか。
「僕はユータを連れて帰りたい。……ユータはどうしてほしいの?」
熱っぽい声で囁かれる。涙の滲む目尻をなぞるように、笹野はそこに唇を寄せてきた。
たまらなくなって、裕太は返事の代わりに笹野に抱きついた。もう何も考えられない。本音とか建前とか、余計なものは全部吹き飛んで、ただ身の内から溢れ出す感情だけが裕太を支配していた。
「……て、いって」
掠れる声を絞り出す。
「俺を、連れていって。笹野さん……」
笹野と一緒ならどこへでも行く。笹野がそれでいいと言ってくれるなら。いつまでもこの鼓動を一番そばで聞ける場所に自分を置いていてほしい。
「いい子」
強い力で抱きしめ返される。白い吐息を近くで感じる。あ、と思った瞬間、やわらかな唇が降ってきた。それは触れるだけのほんのわずかなキス。
「すっかり遅くなっちゃったけど」
笹野は唇を離すと、掠れた声で囁いた。
「今から約束通り、ユータをさらって逃げるよ。覚悟はいい?」
目を覗きこまれ、頷く。何ヶ月も前に口にした他愛もない願いを笹野は覚えていてくれたのだ。そこに打算も私欲もありはしない。ただ真摯な目をした笹野の顔があった。
檻を飛び出し、笹野に連れられるまま走り出す。
吹雪き始めた夜空の下。腕を引く手の力強さに、涙が溢れて止まらなかった。
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