家畜パーク

2.

 動物園の朝は園内放送から始まる。軽快なラジオ体操の音楽とともに飼育員の足音が近づいてきて、慌しく檻の鍵が開けられる。
「おはよう、ユータ」
 笹野はそう言って、毎朝決まった時間に檻の中に入ってくる。寝癖も直していない起き抜けのぼさぼさ頭だ。返事を返さない裕太を気にした様子もなく、笹野は持ってきたバケツを床に置き檻の中の掃除を始める。ごしごしと一定のリズムで床を磨くデッキブラシの音に、裕太の寝惚けていた頭は次第に覚醒していく。
 夜は床に毛布を一枚敷いたきりの場所に寝かされた。最初は藁の積みあげられた上で寝ろと指示され、戸惑っていると笹野が気を利かせて毛布を持ってきてくれた。
 けれど、どんなに頼んでも服は着させてもらえなかった。昼も夜も、裕太は全裸で過ごすことを強制された。身に着けているものは鎖に繋がれた首輪とネームプレートだけ。檻の中での生活は人間の尊厳などありはしなかった。
 掃除を終えた笹野がバケツの中から給餌用のトレイへと裕太の朝食を移し替えていく。雑穀を味噌汁で溶いたぶっかけ飯だ。かぼちゃやサツマイモがごろごろと浮いている。
 しかし、裕太は差し出される朝食を食べる気にはなれなかった。一口二口味噌汁を啜って、ぐったりと再び床に寝そべる。笹野が「もう食べないの」と心配そうに訊いてきたが無視をした。
 朝食が終わると、検査の時間だ。体重計の上に乗せられ、全身をくまなく触られる。排便もチェックされ問題がないと判断されると、笹野の膝に乗せられブラッシングを受ける。笹野は裕太の髪に触るのが好きなようで、いつも念入りに裕太の髪をブラッシングした。汚れた手足は濡れたタオルでごしごしと拭われる。
 日中は別の檻に移動させられた。一面を大きなアクリルガラスで覆われた展示用の檻だった。芝生の上に遊具が置かれている。赤と黄色のペンキで塗られた木製のアスレチックのようだった。中央に大きなすべり台を備え、両脇にタイヤやハンモックが吊るしてある。
 けれど、裕太はそれらに近寄らず、日がな檻の一番端で膝を抱えて丸くなっていた。そうすることしかできなかった。
 動物園の営業時間内は絶えず檻の前に見物客が訪れる。皆、裕太を興味深々といった表情で眺め、カメラのフラッシュをたく。裕太がちっとも動かないのを見ると、アクリルガラスを拳で叩いて怒声を浴びせる客もいた。そのたびに裕太は体を震わせた。膝を抱え、檻の中でますます縮こまる。
 一体俺が何をしたっていうんだ。
 何度も逃げようとした。けれど首の鎖が外れることはなかった。暇を見つけては鎖と戦っていると、爪が剥げて血が溢れ出した。見かねた笹野が包帯を巻いてくれたりもしたけど、その優しさが怖くて裕太は包帯を剥ぎ取った。
 隣の檻には、裕太のほかにも獣人が何人か展示されていた。女はおらず、中年の男ばかりのようだった。とうにここでの生活に慣れきっているのか、悠然と足で耳を掻いたり芝生の上に寝転がったりしている。裕太が小声で呼びかけても返事をしてくれる相手はいなかった。皆、喉を潰されているらしい。時折「あーあー」と低くうめく声が聞こえた。口の端から涎を垂らし、虚ろな目でどこか遠くを眺めている。正気を失っているのがすぐに見てとれた。中には見物客相手に芸をして媚を売っている者もいた。そうすると外から餌を投げ込んでもらえるのだ。
 ……ぞっとした。園長や笹野が彼らを「家畜」と呼ぶ意味がわかったような気がした。とても見ていられなくて、裕太は隣の檻から目を逸らした。それきり周囲を意識するのをやめた。五感をシャットアウトし、見物客の視線も隣の檻から聞こえる不気味なうめき声も意識の外へと追い出す。そうでもしないと狂ってしまいそうだったからだ。
 こんな衆人環視の中、全裸でいつまでも見世物にされ続けるだなんて。
 正午を過ぎると、檻の中の気温は一段と高くなってきた。裕太はぶるりと下半身を震わせた。蒸し暑いはずなのに、額に冷や汗が浮かぶ。午前中からずっと我慢をし続けているせいで気分が悪かった。
 と、チャイムが鳴って、園内にアナウンスが流れた。女性職員の陽気な声で、『餌やりの時間』の開始を伝えるものだった。アナウンスを聞いて、裕太の檻の前に見物客が続々と集まってくる。あっという間に黒い人だかりができた。
 ほどなくして、バックヤードと繋がる内扉が開かれた。拍手に迎えられた笹野がバケツを手に檻の中に入ってきた。その中に裕太の餌が入っているのだ。
「ユータ」
 笹野が裕太を呼ぶ。
「おなか空いただろう? エサを持ってきたよ。いつまでもそんなところで拗ねてないで、こっちへおいで」
 笹野の手には珍しく白いおにぎりが握られていた。裕太が食べやすいようにと握ってきたらしかった。食事に米が出されるのは珍しい。反射のように腹がきゅうと鳴ったが、裕太はどうしても今それを食べる気にはならなかった。
「いらない」
 裕太は俯いた。
「食べたくない」
「そう言わないで」
 笹野が困ったように笑う気配を感じる。
「君の健康管理も僕の仕事なんだから。朝ごはんもろくに食べていないだろう? そんなに細い体じゃすぐに夏バテしちゃうよ。こないだ差し入れた氷は気にいらなかった? ほかの子達はわりと喜んでくれたんだけどなぁ」
 裕太は膝を抱え、さらに丸くなった。幸い、ここに連れてこられた初日の制裁で喉が潰されることはなかったが、今の裕太には笹野と会話をしている余裕はなかった。わずかに体勢を変えるだけで今にもはちきれそうになる。裕太は奥歯をきつく噛み締めた。
「ユータ?」
 そこでようやく何かがおかしいと気づいたのか、笹野が近づいてきた。a裕太の前で足を止めるとその場に屈んだ。
「どうしたの?」
 顔を覗きこまれる。食事を摂らないのかとなおも心配げに見つめてくる。だが、裕太はそれどころではなかった。もう我慢も限界だった。恥を忍んで震える口を開く。
「お、お願い。笹野さん。裏に行かせて」
「え?」
「もっ、漏れそうなんだ。さっきから。もう」
 喉が引き攣る。いくら切羽詰まっているとはいえ、他人に尿意を告げるなんて恥ずかしくて死んでしまいそうだった。平日ならば客の往来が減った時間を見計らって砂場で用を足すこともできた。けれど、休日の今日は檻の前から見物客が途絶えることがない。
「……ああ」
 ぱんぱんに膨れた裕太の下腹部に視線を遣り、笹野が納得した顔をして頷く。
 笹野は檻の隅を指差し言った。
「そっちに砂場があるから、そこでしておいで」
「い、嫌だ。そこじゃ」
 裕太は首を横に振った。どうしてわかってくれないのか。笹野は意地悪だ。天然なのか性悪なのかはわからないが、裕太に砂場を勧める言葉に少しも悪びれた様子は見せなかった。本気で、そこですればいいと思っているのだ。
「お願い。裏に」
「駄目だよ。裏に帰るのは夜だけって決まりだろう」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだよ! お願いだから、もう……本当に……」
 言葉尻が涙で掠れる。どうしてこんなに惨めな思いをしてまで、トイレに行きたいと訴えなければいけないのだろうか。バックヤードに戻ったところで便器など用意されてはいない。檻の隅に作られた砂場の上で用を足すのは変わらないが、それでも見物客がいないということだけでも表よりはよっぽどマシだった。
「どうしたの。今日はずいぶんと聞き分けがないな」
 笹野が呆れたように息をつく。いつまでも動こうとしない裕太に焦れたようだ。
「おしっこはそこの砂場でしなさい。何度も教えただろう。それとも僕の言うことが聞けないの?」
 笹野の目が鋭く光る。普段は穏やかなのに、調教師の顔を見せるときの笹野は少し怖い。裕太が答えられないでいると、笹野はやれやれと言った様子で立ちあがった。ほどなくして壁にかけられた鞭を手に戻ってきた。
「ユータ。服従のポーズだ」
 ぴしゃりと床が叩かれる。裕太はびくりと肩を震わせた。
「昨日教えたばかりだろう。もう忘れた?」
 一体何が始まるのかと、檻の外の見物客の首が長くなる。
 笹野の言う服従のポーズとは、仰向けの姿勢で両手を後ろに突き、足を広げたまま高く腰を持ちあげる屈辱的なポーズだった。股間も陰部もすべてを曝け出す。初めてそのポーズを取るよう強制されたとき、裕太は恥ずかしくて情けなくて声をあげて泣いてしまった。 それをもう一度、この沢山の見物客の前でしろと言うのか。
「何してるの。ユータ。早く腰をあげなさい」
 裕太がもじもじとしていると、笹野は裕太の手を引っ張って無理矢理仰向けにさせた。ぴしゃりともう一度鞭で床を叩き、裕太を促してくる。昨日その鞭で叩かれた痕が、まだ太腿にも背中にもはっきりと残っている。焼け付くような痛みを思い出して、裕太は命じられるがまま、おずおずと腰を持ちあげた。
 もう叩かれたくない。その一心で羞恥に耐え忍び、服従のポーズを取る。けれど笹野はそれだけでは許してくれなかった。
「ほら、ちゃんと足を広げて」
 笹野の手が裕太の膝を叩く。力任せに左右にぐっと開かれた。
「お客さんにちゃんと見てもらうんだ。動物園に来るお客さんはユータの自然のままの元気な姿を楽しみに見にきてくれてるんだからね。病気でもないのに、昼間からバックヤードに戻っているわけにはいかないだろう」
 笹野の声が悪魔のように聞こえる。
「腰をもっと高くあげなさい」
「や、やだ……」
 裕太は首を振った。声が上擦ってしまう。これ以上腰を持ちあげたら、ダメだ。弾けてしまう。我慢が利かなくなる。
「嫌だ、じゃないだろう。ユータはこの動物園の何? 家畜だろう。ユータを見にきたお客さんをちゃんと喜ばせてあげるんだ。ほら」
 笹野が裕太の尻を叩く。その衝撃に裕太の膀胱はついに決壊した。
「あ、あ……」
 堪えきれない尿がちろちろとこぼれていく。一度漏らしてしまうと止まらなくなって、飛沫は弧を描いて裕太の周囲を汚した。笹野の長靴にも飛び散ったようだ。
 客からどっと笑い声が起こる。フラッシュが沢山たかれた。「ユータちゃん可愛い」と言って、ポニーテールの女の子が手を振っているのが見えた。
「まったくこんなところで漏らしちゃって」
 笹野が呆れたようにため息をつく。裕太に服従のポーズをさせたまま、笹野は檻の端までモップを取りにいった。
「トイレの躾はもうしばらくかかりそうかな。何も恥ずかしがることなんかないのに、どうして慣れてくれないのかなぁ。僕はそんなに難しいことを教えているつもりはないんだけど」
 裕太はへなへなとその場に崩れ落ちた。笹野はもう服従のポーズを取れとは裕太に命じなかった。慣れた様子でバケツの水をぶちまけ、裕太の周囲の床を流した。モップで簡単な掃除を終えると、笹野は戻ってきて裕太の口元に何かを押し当ててきた。
「さて、と。これで出すものは出したし、何の心配もなくごはんが食べられるかな?」
 それはおにぎりだった。白い米粒の上が少し濡れている。何が飛び散ったのかは考えたくなかった。……もう何も考えられなかった。
 笹野の差し出すまま、おにぎりに口をつける。ぼろぼろと崩れる米粒を前歯でそぎ落とすようにして舌の上に乗せる。味は何も感じなかった。
「食べたね」
 笹野はほっとした様子で息をついた。
「あまり心配かけさせないで。どこか具合でも悪いのかと思ってはらはらした」
 最後の一粒まで綺麗に食べ終えると、「よし、いい子だ」と言って笹野は裕太の頭を撫でてきた。笑顔が眩しかった。
 再びシャッターが切られる音がする。裕太の食事風景をカメラに収めようと見物客が一斉に写真を撮り始めたようだった。裕太はそれらをぼんやりとした目で見つめた。
 自分が何をしたのか、自分が笹野に何をされたのか、頭が考えるのを拒否して思考がうまく繋がらなかった。
 その夜はもう一言も笹野と口を利く気になれなかった。早々にバックヤードに戻り、夕飯にも手をつけずに横になる。
「ユータ? どうしたの、ユータ?」
 檻の外から笹野が心配そうに声をかけてくる。けれど、裕太は笹野に背を向け寝床の上で丸くなった。許すものかと思った。絶対に許すものかと思った。
 優しそうな声を出しているけれど笹野は鬼だ。悪魔だ。この動物園にいるのは敵ばかりだ。もう何も信じるものか。誰も信じるものか。
「……気分でも悪いのかな」
 笹野の声が小さく潜められる。裕太が無視をしていることに少し傷ついているような声だった。
「聞こえてるかい? ユータ。今夜は僕、当直室にいるから。何かあったらすぐに呼んでね」
 裕太は答えなかった。毛布を頭まで被り目を閉じる。夏なのに、手足が小刻みに震えて止まらなかった。
 笹野はしばらく檻の前に立っていたようだった。しかし、裕太が振り返らずにいると、ため息が聞こえて、足音が次第に遠のいていった。



 動物園で暮らし始めて二ヶ月が過ぎた頃から、裕太はほかの獣人達と同じ檻に入れられるようになった。
 それは裕太がほかの獣人達と仲良くなるようにと組まれたプログラムでもあったが、本当は裕太が笹野の世話を受けることを嫌がったせいが大きい。
 ほかの獣人達と同じ檻でなら、笹野のほかに担当の飼育員が数人割り当てられる。笹野の顔を見たくなかったので、裕太にとっては好都合だった。飼育員達は裕太をまるきりほかの獣人達と同等にぞんざいに扱ったが、それも慣れれば平気だった。
 隣の檻に移ってから、裕太は笹野と一言も口を利かなかった。どうせわかってくれないのなら、初めから喋らないほうがいい。もう無駄な期待はしたくなかった。笹野は少し寂しそうにしていたが、裕太があくまで拒絶する素振りを見せ続けると、肩を落としてそれきり積極的に裕太に話しかけてこなくなった。
 新しい檻の中での生活は今までとさほど大差はなかった。相変わらず無気力に時を過ごす獣人達は新入りの裕太に興味がないようで、ただ同じ空間にいるというだけで好んで裕太に接触してこようとはしなかった。裕太は裕太で自分は彼らとは違うんだという最低限の誇りだけを胸に、日々を虚しく過ごしていた。
 けれど、そんな中珍しく、一人の獣人がしきりに裕太の匂いを嗅いでくることがあった。獣人は『リョウイチ』と呼ばれていた。狼のように尖った灰色の耳が生えている。年はわからないが四十過ぎのようにも見えた。もしかしたらもっと若いのかもしれない。
「なっ、何?」
 裕太が尋ねるも、リョウイチは濁った目でぼんやりと裕太を見つめるだけで返事は返さない。気味が悪くて裕太はなるべくリョウイチの近くに寄らないようにしていた。
 バックヤードに戻り、寝床に入っても誰かの視線を感じない日はなかった。リョウイチだった。そんな日が一週間ほど続いた。
 そして、残暑が過ぎ、園内の落葉樹の葉が色づき始めた秋の夕方だった。
 裕太がいつものように檻の端でぼんやりと寝そべっていると、リョウイチが突然裕太にのしかかってきたのだ。興奮したような息づかいが聞こえる。生臭い息だ。
 後ろから腰を掴まれ、尻の狭間に何かを押し当てられる。窄まりを突つくように、二、三度腰を振られた。何をしようとしているのか経験のない裕太でも容易に想像がついた。何をトチ狂ったのか、リョウイチは自分に発情しているのだ。男の自分に。
 信じられなくて、裕太は慌ててリョウイチの下から這い出ようとした。しかし思いのほか強い力が裕太を後ろから押さえつけ離さなかった。ぐい、と固いものが後ろの穴を強引に押し破って入ってくる。
「いっ、嫌だ嫌だいやだ――ッ!」
 痛かった。痛いなんてものじゃなかった。どっと全身に脂汗をかく。身をよじっても体の大きなリョウイチはびくともしなかった。裕太を押さえ込んだまま、ハッハッと短い息を洩らしてリズミカルに腰を使う。そのたびに狂いそうなほどの痛みが下半身を襲う。このまま体が半分に引きちぎられてしまうのではないかと思った。
「イッ、いぐぁ……あ、あぅ……!」
 拳を握り、裕太はどうにかリョウイチから逃れようともがく。まるで雌犬のように背後から犯され揺さぶられている自分が信じられなかった。
「ねぇ、おかあさん。あれ、何してるの?」
 と、ふいに檻の外から女の子の声が聞こえた。夕方で人気もまばらな檻の前にまだ見物客がいたらしかった。長い髪を二つに結った五歳ぐらいの女の子だ。母親に手を引かれている。
 裕太の全身からざっと血の気が引いた。
 女の子の母親は「あら、いやだ」と言って露骨に顔をしかめる。しきりに檻の中の様子を気にする女の子の手を引き、その場から足早に立ち去っていった。
「うっ……、うっ……うーッ」
 なぜだ。裕太は思った。自分は望んでこんな仕打ちを受けているわけではないのに、なぜあんなに汚れきったものを見るような目で見られなければいけないのだろう。
 惨めだった。同じ男の獣人に犯されているということにではない。自分自身の存在が惨めだった。裕太は声を殺して泣いた。
 リョウイチが一際高い声で吠えて、裕太の腰を掴み動きを止める。痛みですっかり感覚の麻痺した接合部がリョウイチの出したものでまた濡れたような気がした。
 と、扉の向こうから慌てた様子で駆けてくる足音が聞こえた。異変を聞きつけた飼育員達がやってきたようだった。
「何してるんだ、リョウイチ! 離れなさい!」
 笹野が叫ぶ声が聞こえた。笹野に続いてほかの飼育員も何人かやってきて、皆でリョウイチの体を裕太から引き剥がした。
「ユータ。ユータ! 大丈夫?」
 笹野に抱き起こされる。けれど、もう何もかもが遅かった。足の狭間に血が伝う。乱暴にされたせいで肛門が切れたのだろう。
 リョウイチは飼育員に囲まれ懲罰を受けているようで、肉をぶつ鞭の音が聞こえた。リョウイチの悲鳴が響きわたる。怖くて裕太はぎゅっと目を瞑った。
 その日はそのままいつもより早くバックヤードへ戻ることを許された。ショックで足が震えろくに歩けなかったので笹野に寝床まで運んでもらった。
「おかしいな」
 裕太を寝床に横たえると、笹野はそう言って首を捻った。
「雄同士なら交尾しないと思ってたんだけどな」
 本当に不思議そうなその口ぶりに、裕太はきつく下唇を噛み締めた。交尾という直接的な言葉を使われたこともショックだったが、それ以上に笹野の目には自分があくまでも家畜としてしか映っていないことを再認識して切なかった。
「怖かったね。リョウイチはもう違う檻に連れていったよ。もう大丈夫だから」
 笹野が声を潜めて、裕太の肩を撫でさすってくる。
「大丈夫。大丈夫だから」
 何が大丈夫なものかと思った。今は違う檻に移されても、何日かすれば懲罰を終えたリョウイチは同じ檻に戻ってくるだろう。そうしてまたいつ交尾をしかけられるとも限らない。動物園にいる限り、この苦痛と恐怖は永遠について回るのだ。
「ん? どうした、ユータ?」
 笹野が首を傾げ訊いてくる。笹野は嫌いだが、この動物園では笹野以外自分の話を聞いてくれる人がいないのも事実だ。
 裕太は息を呑み、声を絞り出した。
「い、嫌だ……もう嫌だ……こんな場所、いたくない……」
 がちがちと奥歯が鳴った。震えの止まらない体をぎゅっと抱きしめる。もう限界だった。
「お願い、笹野さん」
 裕太は顔をあげた。精一杯懇願する視線を作る。笹野が自分を哀れんでくれればいいと思った。
「俺を逃がして。俺をさらってここから連れ出して」
 決死の思いで頼む。笹野は面食らったように一瞬押し黙ったあと、いつものように曖昧な笑みで眉尻を下げた。
「困った子だな」
 笹野は言い聞かせるように言った。
「ユータは希少動物なんだよ。世界中の動物園がユータを欲しがってお金を積む。獣人は日本の貴重な輸出資源だからね。いくらユータが可愛いからって、僕の一存で手放すわけにはいかない」
 違う。そういうことじゃない。笹野ならもしかしてわかってくれるかもしれない。そんなわずかな望みはあっさりと断たれる。
「ひどいよ……笹野さんはひどい……」
 うめくようにこぼれたのは怨嗟の言葉だ。
「どうしてわかってくれないの。俺は家畜じゃない。人間だ。人間なんだよ……」
 何度訴えても、何度期待しても、裏切られる。笹野は人のいい笑みを浮かべたまま、自分を裏切ってくるのだ。
「泣かないで。ユータに泣かれるとどうしたらいいのかわからなくなる。まるで君に悪いことをしているみたいだ」
 笹野が頭を撫でてくる。
「触るなっ!」
 裕太はその手を振り払った。頭を両手で抱え込む。
「俺に触るなっ! 笹野さんなんて嫌いだ。いつもいつも……優しいフリなんかしてっ、俺を騙してっ……俺にひどいことばかりする。嫌いだ……嫌いだ……笹野さんなんて」
「騙してるって? 僕が?」
 笹野が目を丸くする。
「そんなことしないよ。僕はいつだって裕太の味方だ。信じて」
 そんなことを言われても、どうやって信じればいいというのか。ここにいる人間はみんな敵だ。笹野だっていかにも味方だという顔をして、陰では自分を獣人だと、家畜だと指差して哂っているのだ。
「嘘つき」
 裕太は頑是無い子供のように首を振った。
「嘘つき嘘つき」
 涙がぼろぼろとこぼれる。笹野の顔が霞んでよく見えなかった。
「嘘じゃないよ。もし僕がユータを嫌いだったら、こうして勤務時間が終わっても帰らずにユータのそばにいると思う?」
 笹野は誰に聞かせるでもなく言った。
「ユータのせいでここ数ヶ月はずっと自主当直だよ。仕事にかまけすぎて、おかげで彼女にも振られちゃった。ハハ……情けないよね。なんでユータにこんなこと聞かせてるんだろう。彼女だなんて、ユータには何を言ってるかわかりっこないのにね」
 どこまでも自分を家畜としてしか見ようとしない笹野に腹が立って、裕太は笹野の手を噛んだ。「うーうー」と低くうめく。頭ががんがんと痛んだ。
「そんなに興奮しないで」
 笹野は右手を裕太に噛ませたまま、もう片方の手で裕太の額に触れてきた。
「ああ、熱が出ちゃってるんだね。怪我をしたからかな。無理矢理交尾させられちゃって、痛かったよね。怖かったよね。ごめんね。僕がちゃんとついてれば……」
 おもむろに笹野の顔が近づいてきたかと思えば、ちゅっと額にキスをされた。びっくりして、裕太は口を離した。それを何と勘違いしたのか、
「あ、もしかして僕、臭いかな? あんまり風呂にも入っていないから」
 と言って、笹野は作業着の襟元のにおいを自分で嗅いだ。
 違う。裕太は思った。
 笹野が謝ることではない。交尾をされたのはリョウイチがおかしかったからで、そもそも笹野の世話を拒んだのは自分だ。だからこれは自分の責任なのだ。
「今、氷嚢を取ってくるよ。待っててね」
 笹野が立ちあがろうとする。裕太は咄嗟に作業着の裾を掴んだ。笹野が驚いたように振り返る。
「……行かないで」
 唇が勝手に動いた。自分でもどうして笹野を止めたのかはわからなかった。けれど、笹野がいなくなる。そう思った瞬間に怖くなって、不安でしょうがなくなって指が動いた。
 熱が出ているせいか、涙が止まらない。涙腺が弱くなってしまったようだ。正常な判断ができない。笹野が額を撫でてくれる。笹野は嫌いだ。嫌いだけれど……笹野の手は気持ちいいと思った。
「どこにも行かないよ。ユータが眠るまでここにいてあげる。だから、安心しておやすみ」
 笹野が裕太の隣に寝そべる。作業着が汚れるのも構わず、本当に朝まで檻の中にいてくれるようだ。毛布をかけられる。その上からきつく抱きしめられても、裕太の震えは止まらなかった。見かねた笹野が毛布の中に入ってくる。今度は直接抱きしめられた。
 ぽんぽんと規則正しく背中を叩いてくる手が温かい。笹野は子守唄を歌ってくれているようだった。少し音の外れた歌声を聞いているうちに、次第に瞼が重くなってきた。
 動物園の生活は辛いことばかりだけれど、笹野のそばにいるとなぜか安心する。すっかり手懐けられているのかもしれなかった。
 たとえこれがひとときのまやかしだとしても、今だけは甘えていたかった。
「ユータ?」
 笹野の声が次第に遠くなる。汗の浮く額を優しく撫でられているような気がする。
「……僕以外にそんなこと言っちゃ駄目だからね」
 鼻先に感じるため息。少し切ない響きを含んだ笹野の声に、裕太は笹野の背に回した手をぎゅっと結んだ。昔、お気に入りのぬいぐるみを抱いて寝たように、無心で笹野の服にしがみつく。
「嫌い……か……」
 笹野のため息が深くなる。「それなら……」と口にしたきり、笹野は黙りこくってしまった。背中を叩く手の間隔が次第に長くなっていく。
 そして、眠りに落ちる寸前、
「ユータは、ここにいないほうが幸せになれるのかな」
 夢の中でぽつりと笹野がそんなことを呟く声を聞いた気がした。



 転園の話が決まったのは、それから二週間ほど経った日のことだった。
「幸運だったな、新入り」
 檻の外に目を向けると、珍しく園長がそこに立っていた。
「お前がうちの園に来て三ヶ月だったか? それなのに一向に芸も覚えない。客に愛想の一つも振りまかない。でもそんなお前を高値で買ってくれる奇特な動物園が見つかったんだよ。お前目当てに訪れる客もずいぶんと減ったことだし、うちの園としても願ったり叶ったりだったというわけだ」
 園長の吹かす煙草の煙が、青空の下にふわふわと浮いていく。
 裕太は彼の言葉をぼんやりとした意識の中で聞いた。
「しかし、あの笹野が調教途中の家畜を自分から手放すとはなぁ。よほどあいつの手にも負えない出来損ないだったのか。まぁこれだけ高値で売れたんだ。どっちでもいいか」
 園長は短くなった煙草を裕太に向かって投げ捨てると、それだけを言い残し裕太の檻の前から去っていった。
 リョウイチに交尾をしかけられて熱を出したあの日から、裕太は笹野の姿を見ていなかった。笹野に避けられているのかもしれなかった。
 だから園長から転園の話を聞かされたときも、さほど驚きはしなかった。あれだけ親身になって面倒を見ようとしてくれた笹野を困らせた挙句に噛み付いたのだ。見捨てられても当然だった。
 少しだけ罪悪感に胸が締め付けられたが、ほっとしたのも事実だった。笹野はこの数ヶ月ずっと自分のために当直続きの勤務なのだと言っていた。笹野が自分のせいでこれ以上無理な仕事を続けるのを見ていたくはなかった。潮時だったのかもしれないなと裕太は思った。
 どこの動物園に移ろうと、自分はもう人間として扱われることはない。家畜として飼われ、展示されるだけだ。笹野がいないならどこの動物園でも一緒だ。そんな諦念が渦巻いていた。
 よく晴れた青空に鱗雲が流れていく。季節は晩秋を迎えようとしていた。