雷神とナマズ姫
9.
――思い出すのはいつも真っ暗な闇だった。
固い岩場に四肢を丸め、いつ訪れるとも知れぬ恐怖に怯えジンは息を潜め続けていた。鍾乳石から垂れる小さな水音にさえ過敏に反応し、前脚を手繰る。手首を戒める冷たい鎖がじゃらりと鳴り、乾いた音を洞窟内に響かせた。
腹の下に抱えた岩から聞こえる鼓動は規則正しく、ジンは安堵し再び眠りにつく。
もう数え切れぬほど永き時をここでこうして過ごしてきた。時折、誰かが祭壇に授けにくる供物を食べ、鎖に繋がれたまま岩の上でじっと時が流れるのを待つだけの日々。
自分がなぜここにいるのかさえ、ジンはとうに覚えていなかった。
そしてある日、突然暗闇の中に火が灯された。
――誰だ。
ジンがうっすらと目を開けると、注連縄で丸く囲われた祭壇の中に人間が十人ほど集っているのが見えた。揃いの甲冑に身を包んだ二人の若者に挟まれて、生まれたばかりと思しき幼子が式台に乗せられている。その前に巫女装束の女が進み出、ジンに向かい何やら舞の奉納を始めた。
腹の下に抱えた岩に異変を感じたのは次の瞬間だった。女の口から読み上げられる祝詞に呼応し、岩が蠢き始める。ジンもまた全身が総毛立ち、ぶるぶると耐え難い熱が四肢から駆け上がってきた。
次第に高まる女の声に合わせ、奉じられる楽の音が大きくなる。割れんばかりに痛む頭を抑え、ジンは呻き、そして咆哮した。
気がつくと、ジンは洞窟を突き破り、一気に空へと駆け上がっていた。そこが空だと気がついたのは、薄暗い灰色の雲の向こうに数多に光る稲妻が見えたからだ。
ジンは叫んだ。腹の下に大事に抱えていた岩を地面に突き落とし、自由になった手足を繰り無我夢中で空を翔ける。
いまだかつてないほど体中に力が満ち、どこまでも飛んでいけそうだった。雷雲を従え、気侭に空の散歩を楽しむ。が、それもすぐに飽きてしまった。
人里に降りたのは腹が減ったからだった。適当にあたりをつけた民家に降り立ち、屋根の上から中の様子を窺う。台所から米の炊けるいいにおいがしていた。
少しだけでもいい。分けてもらえないだろうか。ジンがさらに体を伸ばしたときだった。
――化け物だ。
そんな声とともに、ジンの耳元を何かが掠めていった。見ると、ジンの足元の屋根藁に矢が突き刺さっていた。
庭にはいつの間にか屋敷の住人達が集まり、ジンを指差し取り囲んでいる。
――異形の化け物憑きだ。なんという醜い姿、なんという穢れた声。耳を塞げ! あれは日渡に厄をもたらす者ぞ。射止めよ!
そして次々と放たれる矢。すべてをどうにか避けきるも人々の追撃は止まない。
――射止めよ、射止めよ、殺せ! 殺せ殺せ殺せ!
彼らの口から洩れる一様の言葉にジンは耳を塞いだ。たまらず屋根を蹴り、逃げるように再び空へと舞い上がる。
けれど何も口にしていない体力では最早長く飛ぶことも適わなかった。食べ物を乞い、人里に降りるたびに向けられる憎悪の感情。己の姿が人々に恐怖をもたらしていることは明白だった。オレは何もしていないのにどうして――そう悲嘆に暮れる暇もなかった。
生きるため食べ物を盗むことを覚えた。己の身を守るため襲い来る人々を傷つけることも厭わずこの爪を牙を振るった。しかし、やっとありつけた食糧も血に塗れた鼻と舌ではちっとも美味しくはなかった。そうして次第に物を食べること自体に興味が沸かなくなっていった。
何をしていなくとも人々はジンの姿を見ると矢を放ってくる。その日も追手から逃げ、飛び込んだ川にそのまま流され、下流まで来たところで河原にあがった。背の高い芒畑が延々と続く、静かな河原だった。
芒畑の中に転がり、ジンは荒い呼吸のままぐったりと瞼を閉じた。このまま何もかも忘れて眠ってしまいたい。もう疲れた。やはり自分はあの洞窟から出るべきできなかったのだ。けれどあそこに戻るのはもう嫌だ――。
芒畑の中をゆっくりと歩んでくる人影が見えたのは、そんなときだった。
一つに束ねた銀色の長い髪が大きく風に揺れている。夕陽に照らされた横顔はまるで造り物の彫像のように美しい影を描く。高下駄を履いた足はゆっくりとジンの顔の前まで来ると、その場で歩みを止めた。
「……オレを殺すのか?」
ジンは掠れる声で問いかけた。だが、深い碧色の瞳は静かに首を横に振った。
「殺さないよ。アタシはアンタを迎えにきた。同じ……においがしたからね」
そして、人影はその場に屈み、白い手でジンの頬の毛の感触を確かめるように触れてきた。
「選ばせてあげるよ。このまま野垂れ死ぬか……『力』を封じ人として生きるか」
「生きる……?」
ジンは弾む息の中でその言葉を反芻した。
「生きるとは何だ? 何もしていないのに人に疎まれ、命を狙われ続ける日々に何の意味がある。それともまた何百年も何千年も洞窟の中に篭もって寝ずの番を続けろって言うのか? ずっと一人きりで暗い闇の中でオレはまたあのまま……」
「分からないのからついておいで。アタシもまだ、分かっていないから」
切れ長の目尻がくすぐったそうに細められる。
「生きるためには働かなくちゃいけない。働いて食べたご飯は与えられた供物よりも数倍も数百倍も美味しいよ。それをアンタにも味あわせてやらなきゃね」
ぺちりと小気味のいい音を立て頬を叩かれる。ジンは目を丸くして声の主の顔を見つめた。こんな風に気安く誰かが自分に触れてきたのは初めてだ。
「そのためにはまずその姿を捨てて人として生きるんだ。アタシはアンタにその魔法をかけてあげられる。さて、どうしたい」
芒畑を吹き抜ける強い風がジンの髪と、悪戯に微笑む銀髪の毛先を高く遊ばせる。
「オレは――……」
何と答えたらいいのか分からない。生き方の選択を迫られたことなど今まで一度もなかった。
ジンは返事の代わりに、橙色に染まる空の下で連なって飛ぶ二匹の蜻蛉をただじっと見つめていた。
目覚めると、見慣れぬ白い漆喰の天井がぼんやりとジンの視界に影を繋いだ。一人で寝るにはやけに大きな寝台の上に、綿のしっかりとした上等な羽布団。普段、瓢屋で使っている煎餅布団とは雲泥の差だ。
枕元に置かれた小さな手提げランプの明かりの中で目を凝らす。ジンが寝かされていたのは、二十畳はゆうにありそうな広い洋室だった。おそらく迎賓館の来客用の一室だろう。ほかに自分を運ぶ場所がなかったのか、随分と身分不相応な豪奢な部屋に連れ込まれたものだ。
(そりゃ突然ブッ倒れたオレも悪かったけどよ……)
ここ数年風邪らしい風邪も引いていない丈夫な体だけが取り柄の自分だ。さぞかし驚かせてしまったことだろう。多少の口煩い小言を覚悟し、ジンは枕元へ顔を傾けた。
「気がついたのか?」
しかし、耳元で聞こえたのはヤマジの声ではなかった。手桶に張った冷水に浸した手拭を慣れぬ手つきで絞り、ジンの額に乗せてくる。ランプに照らされた青い瞳はいつもより大人びて見えた。
「なんでお前が……?」
「何じゃ。わらわでは不満か」
「いや、そういう訳じゃねぇけど」
一体どういう風の吹き回しだ。ジンは胡乱な目つきで枕元のナマズを見上げた。小さな体をいつもより縮こまらせて、寝台の脇にちょこんと腰かけている。
ドレスはもう脱いだのか、いつもの桜色の小袖に着替えたナマズはどこか神妙な表情だ。
「痛むところはないのか? その……腕に怪我をしておっただろう」
「……もう平気だ」
「そうか」
ナマズがちらちらとジンの右腕に視線を遣る。龍の吐く瘴気によって焼け爛れたはずの腕は、すでに元の形に戻り、傷痕も残さず回復していた。
「……どうして、わらわを庇ったのじゃ」
しばしの沈黙を破り、ナマズが切り出したのはそんな問いかけだった。一瞬何のことかと呆けて、すぐにジンは記憶を呼び起こした。
「そちは……わらわのこと、嫌っておるのかと思っておった」
ナマズが居心地悪そうにもじもじと足先を動かしている。
「……それが仕事だからな」
ジンは溜め息混じりに答えた。随分と長く意識を失っていたのか喉が渇いて仕方ない。全身が重く、上体を起こすことはおろか指一本動かすのも億劫だった。
「わらわたちは、同じ化け物憑きじゃったのじゃな」
ナマズがぽつりと呟く。
その言葉だけで十分だった。ナマズが窺うようにじっと視線をジンにぶつけてくる。
龍に襲われ咄嗟に変化してしまったこの体を見て、ナマズはすべてを理解したのだ。
胸の内に苦いものが込み上げ、ジンは目頭を手の甲で覆い隠した。
「誰が見た」
「む?」
「お前の他に、誰が見た」
「わらわと、父上、あの炎使いの娘も、もしかしたら」
「ヒムカか……あいつは? どうしてる。怪我をしてたはずだ」
「知らぬ。父上が助けに来てくださったときにはもう姿が見えなんだ」
「そうか」
ジンは深く枕に頭を預けた。完全体にまで変化はしていないといえ、久しぶりに『力』を放出した後遺症で体の奥でまだ熱がふつふつと疼いているようだ。
ナマズが躊躇いがちに口を開く。
「ヤマジはこのことを知っておるのか?」
「知っている。あいつはオレを拾って育ててくれた奴だからな。あいつの封印術のおかげで今のオレは保っているようなもんだ」
「封印術……」
ナマズはゆっくりとその言葉を反芻した。そして、しばし迷った素振りを見せたあと、上目遣いに訊いてきた。
「ヤマジも、その、何というか、わらわ達と同じ『力』を持った人間であるのか?」
「知らねぇ」
ジンは即答した。
「ヤマジはオレの素性について一度も訊いてきたりはしなかった。だから、オレも訊かない」
それは、ヤマジとジンの間に横たわる不文律であった。
ヤマジもたしかに不思議な『力』を持っている。『力』をひた隠しにするジンとは違い、多少日々の生活に利用することはあっても、ヤマジにとっても『力』は忌むべきものであることに変わりはない。
化け物憑きの証とも言える不思議なこの『力』――一度発動すれば理性を失い、完全体へと変化してしまえば最後、制御も利かなくなる。
「知られたくなかった……」
ジンは呻くように呟いた。
「どうしてだよ……」
苛立ちに任せ、前髪を掻き毟る。
「どうしてお前に見られるんだよ。よりにもよってお前に、こんな姿……」
喉を詰まらせる想いに言葉尻が震える。悔しいのか悲しいのか切ないのか、もう何もよく分からない。
ずっと自分は人間になりたかった。目立たず人に憎まれずただ毎日何をせずとも自分が自分として生きていることが許される――そんな街でずっと暮らしていたかった。
ナマズに初めて会ったとき、感じたのは紛れもない同族嫌悪だ。自分と同じ化け物憑きとして生まれたくせに、姫君というだけで父親から有り余るほどの愛情を受け、幸せに育ってきたナマズ。けれど、その瞳に時折翳る寂しさにずっと気づいていた。
誰かが傍にいなければ何もできないことを自覚し、愛してほしいと真っ向から叫ぶ。その心の強さはジンにはないものだった。だから、嫉妬した。
「誰にも言わぬよ。父上とヤマジと……わらわだけの秘密じゃ」
ナマズが静かにジンの額を拭ってくる。泣き顔を見られたくなくて、ジンはその手を邪険に払い除けた。すると今度はジンの髪に触れてくる。煩わしくて背を向けるも、子供をあやすように優しい手つきで後ろ髪を撫でられ、ジンは肩を震わせた。
「勝手にしろ」
毛布を引き寄せ頭まで被る。最後に吐いた悪態に、ナマズが静かに笑った気配がした。
そして、すっかりランプの火も消え落ちた子の刻。中から聞こえる二つの寝息を確かめたあと、洋室の扉が音もなく開かれた。開け放したままの窓から風が吹き抜け、バタバタとビロードのカーテンを揺らす。
部屋の中央に置かれたフランス製の大きな寝台。仰向けになって眠るジンの隣で、ナマズも力尽きたのか椅子に腰かけたまま上体を寝台の上に突っ伏していた。その鼻からはすうすうと規則正しい寝息が聞こえてくる。
ヤマジは微笑み、隣の部屋から持ってきた掛け布団をナマズの細い体にかけてやった。
ナマズの足元にはいつもナマズが大事に抱えている大きな瓢箪が転がっていた。ヤマジは裾を払いその場に屈み、瓢箪を拾い上げようと指先で触れる。
しかし、すぐにピリ、と静かな電流が爪先に走り、ヤマジは反射的に手を引いた。ナマズは夢にうなされているのか、相変わらず「うぅん」と小さな声を立て眠りこけている。
――この結界はナマズが張ったものではない。
ヤマジは暗闇の中でそう結論づけた。ならば誰が――?
ナマズの前髪を直してやりながら思案していると、背後からふいに声をかけられた。
「何を考えている、風神・ヤマジよ」
その声に、ヤマジははっと振り向いた。見ると、いつの間にそこに立っていたのか、坊主頭の男が部屋の扉に背を預け、ぎょろりとした隻眼をヤマジに向けていた。
「その瓢箪は我が娘の持ち物。こんな夜更けにどこへ持ち出すつもりだ」
「――鹿島入道震斎」
ヤマジは呻くように男の名を口にした。震斎は扉から身を離すと、腕を組んだままヤマジの元へ近づいた。
「十年……いや、十五年ぶりか。最初はすっかり気づかなんだ。うまく化けたものだな」
「……美人になったと言ってくれないかい」
「それもそうだな。以前に見たときはたしか今のナマズと変わらぬ年頃の幼子であったはずなのに……まったく、それはワシも年をとるはずだな。ワシとて美人に刃を向けるのは本意ではないのだが」
震斎は手に持った直刃の刀をぴたりとヤマジの喉元に当て、言った。
「それは我が妻より譲り受けし守り石。鳳徳の元へ持っていかれては困るのだよ」
「なぜ、それを?」
「緋桜の朱雀――」
震斎の口から洩れた言葉に、ヤマジは心の中で舌打ちをした。
――この男、どこまで勘付いている?
「ちょうど貴様らがナマズを連れ城を発った一刻後だ。いずれ鳳徳の狗が襲ってくるのは予期しておったが、あまりにもタイミングが良すぎる。まぁ辛くも難を逃れ、ワシはこうして生きておるがな」
ハッハッハッと震斎が潜めた声で陽気に笑う。だが、ヤマジの喉に当てた刀を持つ力が弱まることはなかった。
「おかげで思わぬ足止めを喰らってしまった。本来なら、もう二日は早く江戸へ到着できるはずだったのだがな。……鳳徳と貴様らの間にどんな遣り取りがあったのかは知らぬが……貴様らはもう幕府のバイオマスとしての役割は終えたはず。そこに我が娘を巻き込むのはやめてもらおうか」
震斎は空いた左手を伸ばしナマズの瓢箪を掴んだ。無事に触れられるところを見ると、瓢箪に張られた結界は震斎のものなのだろう。
「これは返してもらうぞ」
勝ち誇った笑みを浮かべる震斎の顔を、ヤマジは黙って見つめた。ここで下手に騒ぎ、ジンとナマズを起こしたくはなかったからだ。
「さて、ついでにもう一つ聞かせてもらおうか。風神・ヤマジよ」
それは震斎も同じのようで、動かないヤマジをいいことにその肩を掴み、震斎は耳元で低く囁いた。
「……あの小僧は何者だ」
「誰のことだい?」
「ジン……と申したか。先日、貴様の共として鹿島へ来た少年だ。今は人型に戻りそこでのん気に寝息を立てているようだが……あれは……ただの化け物憑きではないな?」
震斎の目が鋭く細められる。
「あの子の姿を見たのかい?」
ヤマジは固い声で問いかけた。震斎は答えない。だがその沈黙は何よりの肯定だった。
「馬鹿馬鹿しい」ヤマジは深く嘆息した。「野暮なことを詮索するでないよ。アンタだって探られたくない腹の一つや二つあるだろう? それと同じだ」
「だが……」
「うるさいねぇ」なおも言い募らんとする震斎をそこで乱暴に遮る。
「しつこい男は嫌いだよ。何だっていいじゃないか。あの子はあの子だ」
ヤマジは薄い夜着の上に無造作に垂らした銀髪を指で払い、震斎から顔を背ける。
「……ワシはあのような獣を一度だけ見たことがある。雷神の谷でだ。けれど、まさかな」
震斎は誰に聞かせるでもなく呟く。
「お大尽」
ヤマジは横目で震斎を見遣り、隙を見計らうと音もなくその唇を奪った。突然のことに目を白黒させる震斎に構わず、口の中に溜めた甘い吐息を一気に吹き入れる。
震斎の大きな体にも十分に足りるように調合した『眠りの風』だ。
「な……に、を……」
唇を離すと、震斎の足元がよろけた。ほどなくしてその場に膝から崩れ落ちた。
「アンタは少し知りすぎたんだよ、お大尽」
ヤマジは倒れ込んだ震斎の体を片腕で支え、冷たい声音で言い放った。
「しばらく眠っていてもらおうか」
そして、手をかざし白目を剥いたままの震斎の瞼をそっと下ろした。
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