雷神とナマズ姫

8.

 ナマズが皇帝の元へ呼ばれてもう二刻ほど経っただろうか。
 ジンは迎賓館の三階、バルコニーに佇みぼんやりと夜空を眺めていた。着慣れぬ裃の上下は動きづらくて仕方なかったので、ヤマジの目を盗んでこっそり脱いできてしまった。おかげで今は単に袴だけというとても招待客には見えない出で立ちなので、時折見回りにくる警邏の将校達もジンを主人の帰りを待つ使用人だと認識し、適度に放っておいてくれた。
(ったく、だりぃよな……一体いつまでここでこうしてりゃいいんだよ)
 ジンは夜風に前髪を掻き上げた。昨日から続く頭痛が熱を持ち、ジンの思考を鈍らせていた。本当なら今日はナマズの共などせず瓢屋でずっと寝ていたかったのだが、ヤマジがあの調子では仕方ない。一度依頼を引き受けた責任もある。さすがに皇帝の食事の席に同席はできないとはいえ、万が一ナマズに何かあったときのために同じ屋根の下で控えておく必要はあるだろう。
(少しはうまくいったのかな、アイツは……)
 ジンはバルコニーに肘をもたれながら、別れ際に見たナマズの横顔を思い出した。あの時ナマズは憧れの宮内卿にエスコートされて有頂天であったようだが、その後の会食でのマナーなどは大丈夫だったのだろうか。考えれば考えるほど不安だ。多少の立ち居振る舞いの指導はしたけれど、まさか初日から皇帝の御前に招かれる展開になるとは思っていなかった。
(こんなことなら最初からテーブルマナーの指導にしておけばよかったぜ……あの様子じゃ鹿島の城で震斎に叩き込まれた様子もねーしな。……あー、心配だ)
 しばらく己のプランニングの甘さと震斎の教育方針のぬるさを呪ったあと、ジンはやれやれとバルコニーに預けていた重い体を起こした。
(やっぱり少しだけ見に行くか……)
 部屋に入れなければ、窓の外からちらっと覗くだけでもいい。少しだけでも様子を窺っておかなければ、付き添った手前ヤマジに申し開きもできない。
 ジンは周囲を見渡し人気のないことを確認すると、片手でバルコニーの柵を乗り越えた。柱を器用に伝いながら外壁を降りていく。このときばかりは身軽な体で良かったと思う。ちなみに迎賓館はどの階も同じ造りになっていて、階下にも同様のバルコニーがあることは確認済みだ。
 ナマズが招かれたのは、たしか大広間から繋がる二階の北側の部屋だったはずだ。ジンは「よっ」と小さな掛け声とともに身を翻し、二階のバルコニーの手すりの上へ無事着地した。
 と、見えたのは、バルコニーの端で揺れる赤い洋傘だった。広げた傘の下で同じ色をした瞳がジンを一瞥し、すぐに興味を失ったようにそっぽを向く。それはどこか見覚えのある少女だった。白磁のように滑らかな肌に品のよい濃紅色のドレスを合わせ、物憂げに虚空を見つめる華奢な少女。その肩まで垂れた赤い髪。
「お前は……」
 ジンが口を開くと、少女は疎ましげに眉を寄せ、踵を返した。
「ま、待て! お前、昨日、能源塔の前に居たやつだろ?」
 ジンは慌てて少女を呼び止めた。
「青い龍と戦って空を飛んでいた。オレらが龍に襲われかけたとき、火を吹いて助けてくれた。たしか、こう呼ばれていたよな。緋桜の朱雀――」
 その言葉に、少女の細い肩がぴくりと揺れた。そして白いレースのついた洋傘を回しながら、僅かにジンを振り返った。
「朱雀やなんて勝手にそないに大仰なもんにせんといてな。不愉快や」
 薄く色づいた唇から聞こえたのは雅な京ことばだった。ジンを見遣る視線はぞくりとするほど艶かしい。
「じゃあなんて呼べばいいんだよ。お前は一体……」
 ジンが思わず唾を飲むと、
「ウチ? ウチはヒムカ。鳳徳の狗や」
 と言って少女は途端にはにかんだ笑みを見せた。
「宮内卿の……?」
 少女の見せた年相応の表情に少し安堵し、ジンはさらに少女に近づいた。
「どういうことだ。宮内卿……皆川鳳徳といえば、タカ派として有名な自然追求者だ。どうしてお前みたいな化け物憑きを飼っている?」
「しぃ」
 黒い手袋をした細い指がジンの口元に当てられる。
「ウチなぁ、その名前で呼ばれるの好きやないの。ウチは化け物ちゃうよ。ヒムカ。焔神・ヒムカや」
「焔……神……」
「お兄さんかて同じやろ? その瞳……中に何を飼うてはるの?」
 ヒムカ、と名乗った少女は、ジンの目を覗き込みくすくすと笑う。
「オレに触るなっ!」
「いけず」
 ジンはすぐにヒムカの手を払った。ヒムカに触られた唇が燃えるように熱くなっていた。
 そして思い出す。この少女が炎術使いであることを。一見して異形の姿は見えないものの、昨日能源塔の前で見たあの『力』――この少女もまた化け物憑きであることに間違いはない。
「お名前ぐらい教えてくれはってもええんやないの? いけずなお兄さん」
 ヒムカがつまらなそうに唇を尖らす。
「……ジンだ」
「ジン?」
 特に隠すこともないと、ジンは素直に答えた。そして代わりに問う。
「ヒムカといったな。お前、どこまで知っている」
「なんのことや?」
「化け物憑きのこと……この『力』のこと……お前の知っていること全部だ」
 ジンは己の肩を抱きながら言った。
「今までは何ともなかった。制御できていたはずなのに、昨日……お前があの青い龍と戦っているのを見てからだ。頭が痛くて仕方ねぇ……体の中から疼いてくるものが抑えきれなくなってきて……」
 いや、正確には昨日からではない。体調の異変はずっと気づいていた。ナマズを迎えに鹿島へ向かった頃から、頓にひどくなった。
「そりゃ当たり前や。お兄さん、要石持ってへんのやろ?」
「要石……?」
「どこで失くしてしもうたの? それがないとウチらは能源にも繋がれへん。『力』に飲まれて、下手をすれば祟り神に降格や。そうなれば……」
「ジン!」
 足元を震わす大きな声が聞こえたのはそのときだった。後方を振り返ると、ナマズが白いドレスを膝までたくしあげて、大股でジンの元へ駆けてくるところだった。その目元には今にも零れ落ちそうな大きな涙粒。
「どこへ行っておったのじゃ、この馬鹿者! わらわにこんなにも探させて」
「ナマズっ、お前……」
 ジンは突進してくるナマズのタックルを横脇で受け止めた。宮内卿に呼ばれた食事の席で今頃皇帝とよろしくやっているはずのナマズが何故ここにいる。
 さてはもう失敗したのか? ジンがあんぐりと口を開け、問い質そうとすると、
「なっ、何じゃジン。その娘は」
 と言って、反対に非難の目を真っ向から受ける羽目になってしまった。
「な、何ってなんだよ。たまたまそこで会っただけだ。ほら、お前も覚えてるだろう。昨日街で会った……」
「えぇい、うるさいうるさいうるさい!」
 ナマズは随分と興奮しているのか、青い髪をぶんぶんと振り乱して首を振る。
 そして、唇をへの字に歪めこう言うのだ。
「さてはそなた、尻軽じゃな」
「は?」
「父上が言うておった! 男は年頃の娘御と見れば、すぐにほいほいほいほい……みな犬ように尻尾を振ってついていくのじゃと!」
「犬……?」
 よくわからない迫力にジンが圧倒されていると、
「ジンは犬やないで。犬はウチの方や」と横からヒムカ。
「おい、ヒムカ。何言ってんだ」
 思わずヒムカの肩を揺らすも、ヒムカは相変わらずの無表情。ボケたわけでもツッコんだわけでもなさそうだ。
「よっ、呼び捨て……」
 ナマズの足元がぐらりと揺らめく。
「そなたら、もう呼び捨てで呼び合う仲なのか? わらわがいないうちに、いつの間に」
「何勝手に勘違いしてんだ! コラ! おい!」
 一喝するも、ナマズの妄想はさらにヒートアップ。
「このような草場の陰でこそこそと、さては逢引か? 心中の相談か?」
「話を変なほうに膨らますな!」
(っていうか、草葉の陰って何だよ!)
 一向に通じない会話のやり取りにジンがうんざりとして頭を掻き毟った時――
 ふいに、背後から湿った風がジン達の足元に吹き荒れた。
(何だ?)
 目を開けようとするも、四方より放射状に水飛沫が飛び散り、ジンの視界を奪う。
 続いて聞こえたのは轟音。鼓膜を突き破るけたたましい咆哮が聞こえ、大地が大きく震えた。
『わが……い、…とし……ごよ……』
 空から激しく降り始めたのは黒い雨。その場に膝をつき、ジンがようやく目を開くと、夜空はあっという間に闇よりも濃い雲に覆われ、青く発光し猛り狂う龍の姿を浮かび上がらせていた。ジンは「あっ」と小さく声をあげた。迎賓館の屋根の向こうから現れたのは、昨日能減塔の前で見たのと同じ青い龍だった。
「来たな、照葉……」
 ジンの隣でヒムカが低く呟く。その両手にはすでに双蛇の炎が宿っていた。
「まっ、待て。あの化け物は何なんだ。どうしてお前が戦ってる」
 今にも飛び上がらんとするヒムカの腕を、ジンは咄嗟に掴んだ。引き寄せただけで折れてしまいそうな細い腕だった。
「……それがウチの役目やから」
 ヒムカはにこりともせずに答えた。
「あれは照葉。日渡の元・龍神や」
「りゅう、じん……?」
 そして、そう静かな声で言い残すとヒムカはジンを振り払い、霰の降りしきる闇空へと昇っていった。
「お、おい!」
 空を見上げるジンの頭上で、赤い炎と青龍が正面から衝突。火花を散らし何度も噛み合う。龍のいななく声と巻き上がる爆音。疾風。
「な、何じゃこれは……」
 激しい縦揺れが襲うバルコニーの手すりに必死に掴まり、ナマズが恐怖に両目を見開く。
 その姿を認めた龍が胴身をうねらせ一気に下降。ナマズの元へと襲い掛かる。
「危ねぇ、ナマズ!」
 ジンは床を蹴り、すぐにナマズへ手を差し伸べる。が、間に合わない。ヒムカの猛攻を物ともせず龍の口が大きく開かれ、金色に輝く牙がナマズを飲み込む。
「させるかぁ!」
 腕を伸ばし、ナマズの体を抱き上げたときは無我夢中だった。
「ジン!」
 ナマズの口から安堵のため息が漏れる。が、それも一瞬、次の瞬間にはナマズの顔は固く凍り付いた。
「ジン……そなた、その姿……」
「うるせぇ……いいから今は黙ってしがみついてろ」
 ジンは荒い呼吸の中、高く宙に舞い上がったまま一回転し、再びバルコニーへと着地した。ナマズを抱く右腕は黒くごわごわとした毛でびっしりと覆われている。その指先には、三尺ほどはあろうかという長い尖った爪。ビキビキと鈍い音を立て割れ始める皮膚の下からは、醜く隆起した黒い肌が顔を出していた。
『……な、まず……ナマズ……、が……とし、ごよ……』
 龍はなおも執拗にナマズを追ってくる。その口から洩れる呻き声をジンは理解することができた。
(こいつ……ナマズが目的か!)
「ヒムカ!」
 ジンは空を駆ける赤い焔神に向かい叫んだ。
「こいつはオレが引き付ける。その間に後ろから回り込め!」
 その言葉にヒムカが頷いたかどうかは定かではない。ジンは変化した右腕でしっかりとナマズの体を抱え、再び地を蹴った。バルコニーから煉瓦造りの外壁を伝い、赤瓦の立ち並ぶ屋根の上へと飛び上がる。口から黒い瘴気を吐きながら龍が追ってくる。
 その背で赤い少女が闇空に舞う。紅蓮の炎が龍めがけ放たれた。龍の悲鳴が夜空に木霊する。しかし、次の瞬間には龍の長い尾が少女の体を横薙ぎに突き飛ばした。
「ヒムカ!」
 炎の塊が西の空へ真っ逆さまに落ちてゆく。だがその安否を心配している場合ではなかった。
「……ぐぉっ!」
 右腕に感じたのは鈍痛。続いて全身を襲う衝撃。龍が口から放った毒煙を直で受けたのだ。
 背に庇ったナマズにはその影響が及んでいないのがせめてもの幸いか。獲物を前にして、龍の双眸が獰猛に光る。
「……っく、そ……」
 ここまでか。毒で霞む視界の中で、ジンは必死に右手を顔の前で構えた。
 まだ右手しか変化していない。全身をくまなく変化させればあるいは。
 ――いや、それだけは駄目だ。
「い、嫌じゃ。ジン! ジン! しっかりせぇ!」
 耳元でナマズの叫ぶ声。けれどその響きはジンの意識をどうにか繋ぐのが精一杯だった。
『わがいとし子よ……』
 屋根の上で倒れたジンを抱えるナマズの元に、龍の顔がみるみるうちに近づいてくる。
「あ……ぁ、あ、あ……ぁ」
 ナマズの目尻に浮いた涙が頬を伝い、青い髪がぶわっと大きく風に巻き上がる。
「嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ……! ジン――ッ!」
 鳴り響く爆音。ナマズの絶叫に呼応し、ドンと大地が隆起する。途端に震え始めた大気の中に、剥がれた屋根瓦が次々と吹き飛ばされていく。
 龍はそんなナマズを愛しげに見つめ、大きく開けた口の中に飲み込もうとする、刹那、
「そこまでだ、照葉――」
 風を裂く鋭い声とともに蒼紫色の雷撃が放たれ、龍は鼻頭を引っ込めた。見ると、龍の連れてきた暗雲を切り裂いて、迎賓館の旗柱の上に墨袈裟の男が佇んでいた。
『ぬ、し……さま……』
 龍は男を振り仰ぎ、低い声で呻いた。
『どうしてです、ぬしさま……なにゆえ……』
「哀れな姿じゃ……。永久の眠りより呼び起こされたばかりでは腹も減っておろう。だが、娘をくれてやるわけにはいかぬ。その娘は……ナマズは、日渡の守り神じゃ。それは一番そなたがわかっておろうに」
 男は両手でおもむろに印を組み、龍に向かい再び雷撃を放った。瞬く間に蒼紫色の稲妻が龍の体を螺旋状に縛り上げていく。
「南無三――」
 そして、男がそう呟くのと同時に、龍はけたたましい咆哮を上げ、闇空の中へと逃げていった。辺りに残ったのは、僅かばかりの瘴気と湿った生暖かい風。
「遅くなったの、ナマズ」
「父上ぇ……!」
 ナマズは広げられた大きな腕の中に飛び込んだ。慣れ親しんだ柔らかな護摩の香りに安堵したのか、ナマズは震斎の胸に縋って大声で泣いている。
 ジンは薄れ行く意識の中、震斎の厳しい表情を眩しく見つめた。今の雷撃は一体――
「何をやっておるのだ、糞餓鬼が。ナマズを泣かせおって」
 だが、震斎は屋根瓦の上に蹲ったままのジンを見つけると、そう言ってジンの体を蹴飛ばしてきた。
 そして、ジンの変化したままの右腕に気づくと、おもむろに眉を寄せた。
「お前……その姿」
「頼む……誰にも言うな」
 ハァハァと乱れる呼吸。ジンは両腕で固く肩を抱いたまま、重くなる瞼に逆らえずその場に卒倒した。