雷神とナマズ姫

7.

 翌朝、慌しく城へあがる支度をしながら、ナマズは上機嫌に鼻歌を吹いていた。
 丸い鏡台の前に座り、ジンから借りたままの柘植櫛で髪とヒゲを梳かす。朝一で湯を使ったため、体中がシャボンのいい香りでいっぱいだ。
 昨日は瓢屋に戻ると、所々が破けたジンとナマズの着物を見てヤマジは「何やってんだいアンタ達は!」と言って卒倒しかけたが、すぐに箪笥の中を漁りナマズに替わりの着物を用意してくれた。
「こんなこともあろうかと思って、姫のドレスは予めもう一着大丸屋に注文しておいたんだ。まだ袖を通していないから、体に合うかどうかは分からないんだけどね。とりあえず明日はこれで良しとしておくれ」
 そう言って今朝方ヤマジが広げてみせたのは、淡い卯の花色のドレス。胸元と袖口にレースをふんだんにあしらった細身のドレスであった。ふわりと丸みを帯びたスカートはナマズの踵までを覆う。それに揃いのヘッドドレスと、肘丈に編まれた絹糸の長手袋。どれも異国の絵巻物の中でしか見たことのないようなきらびやかなデザインのものであった。
 嬉々としてヤマジに手伝ってもらいながらドレスに着替えると、そこにはまるで別人のような自分がいた。ナマズは姿見を何度も飽きなく眺め、くるくるとその前で踊ってみせる。
「のぅ、可愛いか? わらわ、まるで卯の花畑の妖精さまのようではないか?」
「おー、そーかそーか。よかったな」
「真面目に答えよジン! 今日は宮内卿どのにお会いできるかもしれぬのだぞ?」
「へーへー、そりゃようござんした」
 傍らに控えるジンは着慣れぬ裃姿のままさっそく足を崩し、胡坐座で耳を掻いている。せっかく男としての意見を聞いてみたかったのに、まったく使えない下使いじゃ。
 そうこうしているうちに迎えの馬車が瓢屋の前に到着した。黒地に鹿島の家紋入りの豪奢な二頭立ての馬車だった。いつもより派手にめかしこんだヤマジと生欠伸を繰り返すジンを両脇に、ナマズは意気揚々と馬車へ乗り込んだ。
 白い手袋の中には一通の書簡。差出人に『皆川鳳徳』と書かれた雷神祭への招待状だった。
(まさかこの招待状の送り主が宮内卿どのであったとはな……これが運命というものじゃろうか? ああ、こんなにも早う再びお会いできる機会に恵まれようとは! もし、万が一にも一緒にお茶でもだなんてお誘いを受けたらわらわはどうしたらいいのじゃ? 父上のお知り合いでもあるようだし、まずは父上にご許可を得るべきかの? いや、けれどそのようなことをしてもたもたしておったら鳳徳様は……)
「……ズ姫? ナマズ姫?」
「うぎゃ! な、なんじゃヤマジ! 急に顔を近づけよって」
「ああ、驚かせて悪かったね。とりあえず今日の手筈を話しておこうかと思ってさ」
 ヤマジはそう言って、本日の作戦を事細かにナマズに話して聞かせた。だが、頭が宮内卿のことでいっぱいのナマズの耳にはろくに音としてすら入ってこない。かいつまんで理解したのは、城に着いたらヤマジとは別行動になるということだけだ。
「どうしてじゃ。ヤマジはわらわの共をしてはくれぬのか?」
 少し不安になってむくれると、
「ごめんね。少し昔の知り合いと話をつけなきゃいけないことがあってね。用が済んだら、すぐに姫の元へ向かうようにするから。しばらくはジンで我慢しておくれ」とヤマジ。
「ジンでか?」
 ナマズはじとっとした視線で反対側の席へ目を向けた。すると、
「なんだよその顔はよ。言いたいことがあるならはっきり言ってみやがれ」
 と言って案の定ジンは不機嫌な顔をしている。
(ジンはすぐ怒るから嫌いじゃ……わらわのすることにいちいち口を挟んできてうるさいしのぅ……)
 ジンの顔を見ながらしばらく何かに似ていると考えて、ナマズは一人膝を打った。そうじゃ。ジンはまるで噂に聞く小姑とやらに似ておる!
 頭の中でジンの黄色い頭に頭巾を被せ白い割烹着を着せたところで、ナマズは「ヒッヒッ」と笑った。ジンの眉間の皺はますます怪訝に寄ったが、そんなもの知ったことか。
「ついてきても良いが、決してわらわの邪魔をするではないぞ。ジン」
 なんだか急に気分が大きくなって、ナマズはヤマジに倣い、手にした羽扇をパタパタと顔の前で振ってみる。近頃社交界へデビューとやらをする淑女はこうして顔を隠すのがマナーだそうだ。だが、手に持った紫色の扇は中々思うように開かない。手元でまごついていると、ジンがこれ見よがしな溜め息とともにナマズの手から扇を奪い取る。
「……一人で要も外せねーぐらい不器用なくせに、何が邪魔をするな、だ。ほらよ」
 そしてあっという間に扇の要を外すと、ナマズの手に突き返す。ぶっきらぼうな態度はいつものことだが、やることだけはいつもきちんとやってくれる。
「あ……」
 礼を言おうとして顔を上げるも、馬車の窓に頬杖をつく厳しい横顔につい萎縮して、口をついて出たのは「手袋をしていたから外せなかっただけじゃもの……」といったなんとも苦しい言い訳だった。それすらもジンは「へーへーそうかよ」と言って聞き流す。
 そして、ナマズに目を合わさずに言うのだ。
「城のあがったらボロを出さねーように、なるべくオレから離れるんじゃねーぞ」
 横から伸びてきた拳にこめかみをぐりぐりと押されながら、ヤマジとジンに挟まれ身動きの取れないナマズは「うぅ」と低く答えるのが精一杯だった。



 小半刻ほど馬車に揺られ城に到着すると、昼間だというのに天守から望む青空に色とりどりの花火があがっていた。
 城と隣接された迎賓館とを繋ぐ広大な庭には紅白幕が張られ、大道芸人が招待客達を周囲に集わせ歓声とチップを欲しいままにしていた。
「す、すごい賑わいじゃのぅ……一体何人が招待されておるのじゃ?」
 呆気にとられたナマズが思わず口を開くも、ジンは「さぁなぁ」と言って興味無さげにずかずかと庭を突っ切っていく。人ごみの中ではぐれないようにと背中の脇差に結んだ紐をナマズに掴ませ、真っ直ぐに城を目指す。
 庭のあちこちでは雷神祭の前哨戦なのか、白い天幕に囲われた試合場で腕に覚えのある武士達が剣を競っている。諸肌脱ぎになった若い武士達が真剣に戦う様にあちこちから黄色い声があがる。かと思えば、かたや隣の松の木の下ではもう目ぼしい相手に巡り合えたのか若い男女がもじもじと何事かを囁き合っている。
「これが雷神祭か……すごいのぅ。日渡中の若者が一堂に介したようじゃ。こんなにも人が集まっておるのを見たのは初めてじゃ。ほんにすごいのぅ……」
 これならば、本当に特に強く望まなくとも運命的な出会いが自分にも降ってくるかもしれない。ナマズは期待に胸を膨らました。――もっとも、運命の相手にはすでに出会ってしまったけれど。
「よくおいでくださった、鹿島の姫君。さぁこちらへ」
 城の中へ入り、受付らしき座敷に通されジンと大人しく待っていると、ほどなくして目的の相手が顔を出した。雷神祭の主催にして日渡の国の最高顧問でもある――皆川鳳徳。今日も襟元まできっちりと締めた灰色の軍服がとてもよく似合っていらっしゃる。
「宮内卿どのっ!」
 ナマズは両手を挙げて飛びつきたい気持ちを堪え、弾む声で宮内卿自らの歓迎を受けた。もちろん、それは鹿島の一の姫に対する政府の礼であるとは分かっていたが、それでも恋する心は勝手に暴走を始めてしまう。
(わざわざわらわを迎えに……? というより、待っていらした、といったご様子であるな。わらわが来るのがいつであるのかすらきっとお見通しなのであろう。ああ、鳳徳様。わらわもお会いしとうございました!)
 鳳徳に連れられ廊下を歩きながら、その颯爽とした後ろ姿を眺めているだけでナマズは今にも興奮で鼻血を噴きそうだった。一歩後ろに並んで歩くジンはそんなナマズの心の内などお見通しなのか、うんざりとした表情をナマズに向ける。「少し落ち着けって」と何度か肘で小突かれたが、これが落ち着いていられるものか!
 ナマズはうきうきとした声で、先を行く鳳徳に問いかけた。
「どこまで行かれるのですか? 宮内卿どの」
 すると、鳳徳はそこでぴたりと足を止め、ナマズとジンを振り返った。ちょうど城から迎賓館へと続く廊下を渡り終え、上り階段にさしかかる前のところだ。
「共の者はここまででお控え願いたい」
「しかし……」
 そうきっぱりと言い切った鳳徳にジンが渋る様子を見せる。だが、鳳徳は変わらぬ調子で言った。
「これより先は皇族とそれに近しい者のみが立ち入ることを許される潔斎の間。姫君の従者にはご遠慮願いたい」
「皇族……? なぜ、わらわがそのような場所へ?」
 疑問に思ったことを素直に聞くと、鳳徳はおもむろにその場に膝を折り、ナマズに簡易的な跪拝を行った。そして恭しくその手を取り言う。
「陛下が姫とお話がしたいとご所望です」
「え……」
 ナマズは思わず言葉を失った。陛下? 突然のことにうまく頭が働かない。鳳徳の言う『陛下』が聞き違いでなければ、指すのはただ一人。今上帝の雷恙雅その人だ。
(陛下がわらわにお話……?)
 ナマズはきょとんと首を傾げた。今まで面識もありもしないのに、何故急に自分が呼ばれたのかが分からない。分からないけれど、痛いほどに理解したことが一つ。
 鳳徳がわざわざ自分を迎えに出たのは、彼の意思ではなく純粋に皇帝の命に従っただけだということだ。
(わらわは、そなたが好きなのに……)
 そう思うと、あれほど高鳴っていた胸がみるみるうちにしぼんでいった。「さぁ、参りましょう姫君」と手を取られてはいまさら断わることもできない。ジンを振り返り助けを求めるも「諦めろ」と無言の目配せ。この国で皇帝の命に逆らえる者など誰もいない。それは分かっている。分かっているけれども――
 鳳徳に手を引かれ、階段を上がる。途中、着慣れないドレスの裾を踏み、何回も転びそうになってしまった。その都度鳳徳が優しく助けてくれたが、背後からジンの心配そうな視線がいつまでも自分を見つめているのが分かって、なんだか泣きたい気分になってきた。
 急に皇帝の御前になど呼ばれて、これから一体どういうふうに振舞えばいいのか。雷神祭の初日からこんなに心細い気持ちになるとは思っていなかった。
 階段をあがり、赤い絨毯の続く廊下を奥へ奥へと鳳徳は進んでいく。やがて見えてきた重厚な造りの扉を開くと、眩いシャンデリアの光がナマズの目に飛び込んできた。
「よく来てくれた、ナマズ姫!」
 名を呼んだのは、爽やかな声だった。ナマズは目を瞬かせ、部屋の中へと足を踏み入れる。十人掛けほどの長いテーブルの周りに、ナマズと同じ年頃の少年少女がずらりと腰かけている。皆ドレスや燕尾服で思い思いに着飾った品のいい顔立ちをした美男美女ばかりだ。
 その一番奥。テーブルの上座に腰かけた亜麻色の髪をした少年が、ナマズに向かい再び声をかける。
「突然呼び出して申し訳ない。鹿島の姫君よ。今日はどうかゆるりと楽しんでいかれよ」
 少年は人好きのする笑顔で、ナマズに正面の椅子を勧める。鳳徳を見上げると、すぐに少年の前までエスコートされた。「ご挨拶を」と耳元で小さく囁かれ、ナマズは慌てて頭をぴょこんと下げた。
「あ、あの、お初にお目にかかります。鹿島のナマズにございます。陛下におかれましては、え……と、ご機嫌美しく……」
 昨日ジンに習ったばかりの挨拶を必死に思い出し、言葉を継ぐ。だが緊張と焦りでうまく舌が回らない。
「ああ、良い良い。堅苦しい挨拶は抜きにせよ。急にそなたを招いたのは余のほうであるからな」
 幸い、目の前の人の良さそうな少年はそう言って屈託もなく笑ったが、いきなり出だしからこんな失態をしたとジンにバレたら間違いなく大目玉だ。
「恙雅(きょうが)様」
 鳳徳が少年の耳元に顔を寄せ、何かを囁いている。しばらくして少年帝は「ああ」と理解したように頷いた。
「そうか、姫は余と会うのは初めてであったな。どうもそのような気がしていなかったので、これは失礼をした。この間、余は馬車の中からそなたを見ておったものだからつい」
 そして「ブーツは無事であったか?」と言って首を傾げる。ナマズは「あっ」と小さく声をあげた。鳳徳と初めて能源塔の前で会ったあの日、馬車の中から感じた視線はこの少年のものであったのだ。
「そなたを招いたのは他でもない」少年は変わらず穏やかな声で言った。「この城には余と歳の近い者が誰もいなくてな。せっかくの機会ゆえ、こうして諸大名の子らを集め話を聞いておるところだ。余は足が悪いゆえ、中々各国を回ることができぬ。だから、姫も鹿島の国のことなど、余に色々と語って聞かせてはくれまいか?」
 少年はテーブルに並べられたご馳走に目もくれず、にこにこと正面からナマズを見つめる。ちょうど昼食の途中であったのか、参席している他の少年少女も恙雅に倣い、ぴたりと食事の手を止めてしまっていた。ナマズが入ってきたためだ。
「そう畏まらずとも良い。ゆるりと寛いで行かれよ。鳳徳、姫へワインを」
「御意」
 少年は朗らかな声で鳳徳に命じる。鳳徳は軽く一礼をし、部屋の隅へ控えるメイドの手からワインボトルを受け取ると、ナマズの前に置かれたグラスの中へ慣れた手つきで赤い液体を注いでいく。ぷわん、と今まで嗅いだこともないような強烈な香りがナマズの鼻腔を擽る。思わず大きくくしゃみをしてしまった。
「あ……」
 ワインを注ぐ鳳徳の手が一瞬止まる。が、すぐに何事もなかったように、グラスを赤い液体で満たす作業に戻った。ちらちらとテーブルの四方からナマズに遠慮のない視線が注がれる。
「さて、食事に戻ろうか。たしか、芳野の国の蝗の話であったな。それでその後、蝗害は問題なく対処ができたのか?」
「ええ、それに関してですが我が藩では……」
 恙雅に促され、会食が再開される。隣の部屋からは誰かが絃を奏でているのか、聞いたこともないような優美な調べが控えめな音量で流れてくる。
 ナマズは目の前に置かれた数え切れないほどの皿をきょろきょろと見渡し、どうしたものかと途方に暮れた。どれも綺麗に盛り付けられた食欲をくすぐる肉や魚料理ではあったが、どうやって手をつけていいものか分からない。隣に座る高く金髪を一つに結い上げた少女の手元を参考に、見よう見まねで銀色のフォークとナイフを手に持つ。
 と、それより先に空の皿の上に置かれた白い布を膝に敷くべきなのだと気づいて、ナマズは慌ててナイフとフォークを元の位置に戻した。
「どうした、ナマズ姫。余に遠慮せずとも好きに食べると良い」
 すると、まごつくナマズに気づいたのか恙雅が優しく声をかけてきた。
「あ、はい……申し訳ございませぬ」
 ナマズは消え入りそうな声で答え、急いで目についた肉料理の皿を手元に引き寄せた。が、皿がテーブルクロスにひっかかり、赤いソースがナマズのドレスに飛び散る。その場に居合わせた沢山の目が驚きに見開かれ、一斉にナマズを見遣る。「まぁ大変」と隣に座る金髪の少女が口に手をあて、すぐにナプキンでナマズの胸元を拭いてくれた。ナマズは羞恥にみるみるうちに頬を耳まで真っ赤に染めた。
「そう慌てずとも良いぞ。大事はないか?」
 恙雅が少し上体を伸ばし、真剣に訊いてくるのがまた辛かった。足が悪い、と先ほど言ったように車椅子に乗った恙雅は自由に動くことができない。代わりに鳳徳を呼び寄せ、自分の分のナプキンもナマズにとその手に持たせた。
「だ、大丈夫ですのじゃ。これしき……」
 ナマズは答え、隣の少女に礼を言うと、自分を鼓舞するように再び皿に向き合った。カチカチと小刻みに震える手でナイフとフォークを掴み、肉を切り分ける。案の定、手元が狂い、ガチン、と大きな音を響かせてしまった。
 気まずい沈黙と不躾な視線が、ナマズに圧し掛かる。情けなくて恥ずかしくて目尻に涙が込み上げる。
(ここにジンがおってくれたら……!)
 その名前を心の中で呼んだのは、藁にも縋る思いだった。きゅっと唇を噛み締め、溢れそうになる涙を堪える。ジンが居れば、このように恥をかかずともよかった。こんな、他人ばかりの席で監視されながら食事を摂ることもなかった。ジンが、ジンさえ居れば……
「ナマズ姫?」
 鳳徳が後ろから気遣わしげな声を聞かせる。けれど、鳳徳は助けてはくれない。ジンと同じように少し呆れた表情を浮かべてはいるが、鳳徳は恙雅以外の命令では動かないのだ。――それが痛いほどに分かった。
「何でもありませぬ」
 しゃくり上げる嗚咽を必死に噛み殺し、ナマズは再びナイフとフォークを使う。
 今にも弾け飛んでしまいそうな、なけなしの矜持だけが今のナマズを支えるすべてだった。