雷神とナマズ姫

6.

「てゆーか、何だよお前。その瓢箪」
 瓢屋を出立して三町ほど歩いたとき、ジンはついに気になっていたことを訊いた。
 隣を歩くナマズの腕にしっかりと抱かれた黄色い瓢箪。ナマズの身長の半分はあろうかと思しき巨大なものだ。
「何だって何がじゃ」
 ナマズがちらりと視線をジンに向ける。
「だからその瓢箪だよ。一体何なんだよそれ」
 ジンは大股で歩きながら、ナマズの瓢箪の表面を拳で叩いた。中はほぼ空洞になっているのかゴォンと小気味のいい音が響いた。
「わらわの枕じゃ」
「枕ァ?」
 ナマズの返事にジンは思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
「んでそんなもん持ち歩いてんだよ。瓢屋に置いてこいって」
「嫌じゃ」
 ナマズがぷいっと顔を背ける。出かける間際に強引に作法指導をしたことを根に持ってるのか、ずいぶんと反抗的な態度だ。
「嫌だ、じゃねーだろ。そんなモン持ってたら邪魔臭くて買い物にならねーだろーが」
「ジンが全部持てば良いであろう? まさか、か弱いわらわに荷物を持たせるつもりであったのか?」
「当たり前だろ、このワガママ姫様がよ。てめーの荷物ぐらいてめーで持て」
「何じゃその口の利き方は! そなた、わらわを誰だと……」
 ナマズがいきり立ったときだった。
「しっ」
「んぐ……?」
 ジンは咄嗟にその口を平手で塞いだ。ちらちらと周囲の通行人の様子を窺い見る。ただでさえ珍しい青い色をした髪と瞳だ。それだけでも十分目立つというのに、日渡随一の大藩・鹿島の姫君であることがバレでもしたら大変なことになる。
「こんな人も多い往来で滅多なこと口走るんじゃねーよ。身代金目的でかどわかされてーのか? 少しは自分の立場を自覚しやがれ」
「う……、うぅー」
 声を潜めて注意すると、ナマズは悔しげに八重歯でジンの手を噛んだ。それでもやはり初めて見る江戸の街の景色は楽しいのか、再び歩き始めたジンの背を追いながら興味深そうにあちこちの店先に視線を配っている。
 ジンは大丸屋を目指した。日頃からヤマジが懇意にしている日本橋の呉服商である。株仲間が解散された革命後、一躍その商才を著した大丸屋九代目当主・秀和は諸外国との取引も多いと聞く。店を訪れるたびに、所狭しと飾られた異国の服にヤマジは目を輝かせ飛びついていったが、その奇抜すぎる彩色にジンは大抵根こそぎ気力を奪われてしまう。いつも当主とヤマジの着道楽な薀蓄をうんざりするまで聞かされる羽目になるからだ。
 だが、江戸随一の流行の最先端を走る呉服屋は大丸屋をおいて他にない。震斎からたんまりと渡された支度金のおかげで予算に困ることもない。あとは、ナマズを秀和の元に放り投げ、適当に夜会用のドレスとやらを見繕ってもらえばいい。
 永代橋を渡り、茶色く増水した隅田川の奔流を眼下に眺める。先頃起きた大地震と大雨に江戸の街は冠水したのだと、鹿島の厠で聞いた読売の口上をジンは思い出していた。薄曇の春空の下で河原に咲き誇る桜の木が花びらを散らしている。その先、橋下駄の延長上の西北の空に高くそびえる無骨な鉄塔が目に入る。前時代の遺物――今は稼動を止めた古い集中能源塔だ。
「足が痛い」
 ナマズがそんなことを言い始めたのは端を渡り終え、能源塔の袂を通り過ぎようとしたときだった。「あ?」と振り返ると、ナマズが厚底の草履の上で白い足袋をもぞもぞと動かしている。
「もう一歩も歩けぬ! うわぁ〜ん、父上ぇ!」
 ひとしきり叫ぶと、癇癪の虫に火がついたのか「嫌じゃ、もう歩きとうない!」と言って、ナマズはその場に蹲る。
 ふざけんな、まだ三町しか歩いてないだろう――怒鳴りかけて、ジンはナマズの足袋に浮く赤い染みに気づいた。橙色の鼻緒をした草履は今回の江戸行きのために新調したのかとても上品な造りであったが、ナマズの覚束ない歩き方を支えるには役不足であったようだ。
(ああもう面倒くせぇなぁ!)
 ジンは辺りを見渡し、数軒先の小間物問屋の張り紙に書かれた文字を見つけると、「ちょっとここで待ってろよ」とナマズに言い残し一目散に走っていった。涙をいっぱいに湛えたワガママ姫様にこれ以上道の往来で駄々をこねられ大地震を引き起こされるよりはよっぽどマシだ。ジンはひとまず身銭を切り、小間物問屋の親父から奪うように目的の品を買い叩くと、ナマズの元へ戻った。もちろん、品物代は後で倍返しで請求するつもりだ。
「ほらよ」
 ジンは道の真ん中に座り込み泣きべそをかくナマズに買ってきた品をぶっきらぼうに手渡した。
「何じゃこれは」
 ナマズが顔を上げる。
「ブーツだよ。異人の履き物だ。草履よりはマシだろうと思ってそこで買ってきた」
 ジンは答え、ナマズの前に腰を屈めた。小間物問屋で買ってきたのは、黒い牛革を使った『ブーツ』と呼ばれる足首までを包む偉人の履物だった。
「いいから履いとけって」
 ジンはナマズの草履を脱がせ、ついでに血の滲む足袋も取り払った。腰袋を漁り、取り出した軟膏をナマズの傷口に手早く塗りこんでいく。そして着物の袖口を少し噛み千切り、足に巻いてやった。その上から再び足袋を履かせていると、
「どうやって履くのじゃ?」とブーツを指差しナマズ。そう聞かれるだろうことは予測済みだ。
「履かせてたもれ」
 ナマズが珍しくしおれた様子で頼んでくる。よほど履き慣れぬ草履が痛かったらしい。それならそうと早く言えば良かったのに!
 ジンはむかむかと腹立つ気持ちを必死に堪え、仕方なくナマズの足を取り、黒いブーツを引き寄せる。
 ジンの手元を見つめるナマズの青い髪がさらりと垂れ、ジンの頭の上に影を落とす。ふと鼻をくすぐった甘い香りにぎょっとして、ジンは顔を上げた。ナマズが戸惑った顔をしてジンを見る。そして思い出した。たしか今朝、ヤマジが瓢屋を出る前にナマズに香り袋を持たせていた。その香りか――。驚いた。
 ジンはナマズに気づかれぬようほっと息をつき、ブーツの紐を解く作業に戻った。 
 と、そのとき、頭上低くを奔る眩い光にジンははっと手を止めた。
(何だ?)
 続いて見上げた目を思わず瞑るほどの突風。湿り気を帯びた旋風が飛んでゆく赤い光を追いかける。その風にジンの手から零れたブーツが飛ばされていった。
「わらわのブーツ!」
 ナマズが声を上げる。手を伸ばすも届かない。空高く上ってゆく黒いブーツの目の前で、今度は青い光が炸裂した。轟音が辺り一面をビリビリと奮わせる。途端に降り出す黒い雨。鉛色の雲の狭間から現れたのは、所々に青い鱗を剥がれさせた巨きな龍だった。
「な、なんだ。こいつ……」
 空を見上げるジンの視界で、空に昇っていった赤い光が龍に激突。龍の体が一瞬にして炎に包まれた。炎の中に見えたのは白い巫女装束に身を包んだ少女。ナマズとそう年も変わらない華奢な赤髪の少女だ。少女は空中を自在に飛び回り、能源塔に向かい牙を剥く龍の大きな体に容赦なく炎撃を加え続ける。
「おい、ナマズ!」
 ナマズの体が躍り出たのはそのときだった。
「じゃって、わらわのブーツが!」
「待て! 馬鹿ッ! 行くんじゃねぇ!」
 引きとめようと伸ばされたジンの腕を振り払い、ナマズは裸足のまま、激しい咆哮を上げ少女と戦う龍の体の下へと駆けていく。その目は風に飛ばされ川に落ちてゆくブーツしか見ていない。突然空から現れた龍の姿に恐怖し、通りを歩いていた人々は悲鳴をあげ、皆思い思いの方向へ逃げていく。その波に逆らい、ジンは慌ててナマズの背を追った。
 ナマズの足が橋下駄を踏み外す。
「危ないっ!」
 ジンは叫んだ。急いで駆けるも間に合わない。ジンは思わず目を瞑った。ナマズの体がドンと何かに衝突する。
 と、舞い上がる砂塵の中、見知らぬ男の声が聞こえてきた。
「神を見るのは初めてか」
 その場にそぐわぬ落ち着き払った声に、ジンは何度も目を凝らした。
「彼女は我らが守護神『緋桜の朱雀』――心配をしなくとも民に危害を加えることはない」
 次に見えたのは長い闇色の外衣。褐色の肌に薄鼠色の髪。きっちりと襟元まで締めた軍服の肩口には赤と緑の絹糸で彩られた勲章が見える。
「怪我はないか」
 ナマズを小さな体を抱え上げ、男はナマズを橋板の上へと引き戻した。そして、一瞬遅れて降ってきた黒いブーツを拾い上げると、ブーツをナマズに手渡した。
「わらわのブーツ……」
 ナマズが呆気に取られたように呟く。その背後では、激しく衝突を繰り返したまま龍と赤い髪の少女の姿が暗雲の彼方へ消えていった。
「これは鹿島の紋。そうか。お前が震斎の……」
 男はナマズが腕に抱える瓢箪にぶらさがる漆の印籠を見て、「ほぉ」と片眼鏡の縁を光らせた。
「父上を知っておるのか?」
 ナマズは目を丸くし、男に問いかけた。
「ああ。知っている。ずっと昔から」
「そなたは……?」
 おずおずとナマズが視線を上げる。それを正面から受け、男は美麗な口元を笑みの形に変えた。
「私は――」
 男が口を開きかけたときだった。
「宮内卿! お車へ」
 通りの向こうの馬車から男を呼ぶ声が聞こえた。車体全体に金の蒔絵が彫られた四頭立ての豪華な馬車だ。男に向かって叫ぶ従者の向こうに引かれた紫色のカーテン。その影、馬車の窓からナマズとジンをじっと見つめる誰かの視線を感じた。
「宮内卿……」
 ナマズは首を馬車へ向け、その呼称の意味を理解しようとゆっくり口の中で呟く。
 男はそんなナマズを見て微笑み、ナマズの体をその場に下ろすと「今行く」と言ってマントを翻す。ナマズは咄嗟にマントの裾を掴んだ。
「ま、待ってくだされ。く、宮内卿どの」
 男が歩を止める。怪訝に眉を寄せ、ナマズを見下ろした。
「そ、その……あの、わ、わ……」
 ナマズの声が面白いぐらいに上擦っている。ぶるぶると震える身体は、男のマントの裾を掴む手も顔も今にも燃え出してしまいそうなぐらい真っ赤に染まっていた。
 そして、その口から突然飛び出した言葉にジンは両目を剥いた。
「わ、わらわのご主人様になってはくださらぬか?」
(いきなり何言い出してんの、こいつー!)
「だ、ダメかの? そ、その宮内卿どのがもし良ければ、わらわのご主人様になって……わらわを踏みつけてもらいたいんじゃが……」
「バッ……お前、何言っ……」
 ナマズがもじもじと両手の人差し指を突き合わせ、男の前でしなを作る。
 ジンは慌てて背後からナマズを羽交い絞めにし、青い頭を九十度に下げさせた。
「すみません。こいつ、初めて江戸に来たせいで浮かれてて」
 必死に謝罪させるも、男の強張った表情が元に戻ることはない。
「何を言うておる。わらわは正常じゃ!」とナマズ。
「いいからお前少し黙ってろ!」
 ジンはナマズを叱咤し、ぐいぐいとなおも深く頭を下げさせた。
 宮内卿と呼ばれたこの目の前の男がもし本物ならば、相手は従三位・伊那田の国主にして新政府内閣の最高顧問、皆川鳳徳に間違いない。
 十五年前の革命時にその怜悧な頭脳で反乱軍を勝利へと導いた生ける伝説の軍師。ジンは己のなけなしの記憶の箪笥を無理矢理に抉じ開け、目の前で直立する男の様子を窺い見た。
「……まさかこんなところで情熱的な愛の告白を受けようとはな」
 気まずい沈黙を破り、先に失笑を洩らしたのは男のほうだった。
「だが、それは我が君主に向けて頂きたいもの」
 男はナマズの告白を子供の冗談と理解したのか、ナマズの頭の上に優しく掌を置き、片眼鏡の奥で目尻の皺を深めた。
「失礼。ナマズ姫。また会おう」
 そして辞去の礼をすると、男は大きくマントを羽織り直し、颯爽と馬車へと歩いていった。
「わらわの名前……」
 ナマズは唇に手を当て、その場に立ち尽くしている。背後で、男を乗せた馬車が動き始める。馬が大きくいななき、赤煉瓦の上を砂埃をあげ走り去っていった。
「格好良い御仁じゃったのぅ。宮内卿どの」
 ナマズがうっとりと呟く。とっくに男の姿は見えなくなっているというのに、すっかり魂を抜かれてしまったのか、ナマズの目は男の走り去った道の先に釘付けのままだ。
「けっ。ああいうのが好みなのかよ。趣味悪ぃな。ただのおっさんじゃねぇか」
 ジンは思わず地面に唾を吐いた。
「なんじゃその言い草は。そち、わらわの好みにケチをつけるつもりか?」
 すぐにナマズはそう言ってジンに怖い顔を向けたが、ナマズは分かっていない。「また会おう」だなんて気障な台詞を真顔で吐けるなんて、よっぽどの馬鹿か腹黒だけだ。
「格好よかったのぅ。あぁ……宮内卿どの……わらわのこと、踏んでくれぬかのぅ」
 しかし、ナマズはそんなジンの心配はどこ吹く風。胸元をきゅっと右手で掻き寄せ、頬を薔薇色に染めている。
「おい」
 ジンはたまらず口を開いた。
「なんじゃ」
「なんなんだよ、それ。さっきから踏んでくれ踏んでくれって」
「……ふん。そなたには関係のないことであろう」
 ナマズが唇をへの字に歪める。宮内卿に向けていたものと同一人物とはとても思えぬ、少しも可愛らしくない表情だ。
 ジンがひくひくと口元を引き攣らせていると、ナマズは急に声のトーンを落とし言った。
「父上の御力が弱まってきておる……だから、わらわはわらわだけの雷神様を見つけなければならないのじゃ」
「おーそーかそーか。……相変わらずさっぱり意味が分からねーこと言いやがって。お前、少しはオレに説明しようって気ねぇのか?」
「うるさいのぅ」ナマズは鬱陶しげに顔を背けた。「どうせ踏まれるのなら男前の殿方に踏まれたい。そう思っただけのことじゃ」
 そう言うと、ナマズは再び草履に足を通し煉瓦道の上を歩き始めた。手に持ったブーツは履くことを諦めたのか、「宮内卿どのの手の温もりが残っているようじゃ」と言って、すっかり緩みきった顔で頬擦りをしている。
 ジンはあらゆる怒りをぐっと腹の底に堪え、僅かばかりの仕事の建前と興味本位で訊いた。
「参考までに聞くがな。お前の好みの男ってどんなヤツなんだよ」
「父上じゃ」
 ナマズは迷わずに答えた。
「は?」
「だから父上じゃと申しておる。強くて格好よくて、わらわをいつも守ってくださる。父上以上に素敵な殿方はおらぬ」
 どこか誇らしげにきっぱりと言い切るナマズに横に並んで歩き、ジンはぼそっと呟いた。
「……真逆じゃねぇか」
「む? 何がじゃ?」
「さっきの男がだよ。オレにはお前の好みとは真逆に見えたがな!」
 ああまったくこれだから女という奴は分からない!
 もっともこんな奴の好みなど、分かりたくもないけれど!
「宮内卿どのはまた別じゃ。ああこれが恋というものかのぅ。胸のあたりがきゅうと締め付けられて仕方ない」
 ナマズが息苦しそうに胸元を押さえる。大袈裟によろけてみせる小さな体に、ジンはこれみよがしに舌打ちをした。
「全速力で走ったばかりだからだろ。ただの運動不足だ」
「なんじゃと?」
 思わず的確なツッコミを一つ。さっき空へ飛んでいったブーツを追いかけて走っていったのはどこのどいつだ。
「それにこの腹の肉」
「ひっ!」
 ジンはとどめとばかりに帯からはみでたナマズの横腹を指でつまんだ。初めて会ったときからずっと気になっていた箇所だ。
「腹も腕も掴み放題じゃねーか。だらしねーな」
「な……な……」
「男の顔をどうこう言う前に、このたるみきった腹をどうにかするべきなんじゃねーの?」
「い、あ、やっ……やめぬか、ジン! こそばゆい!」
 ナマズが真っ赤な顔をして体をくねらせる。一瞬にして元の表情に戻ったナマズにほっとして、ジンは少しだけ溜飲を下げた。
 龍の襲来からしばらく経ち、街は落ち着きを取り戻し始めている。そんな二人の騒ぎを何事かと行き交う通行人がちらちらと振り返っていった。
「そちはデリカシーがないのぅ! 宮内卿どのなら絶対にかようなことは乙女に言わぬであろうに……ああ、もう本当に助けてくださいなのじゃ宮内卿どの。嫁入り前にこのような辱めを受けようとは……もう宮内卿どのに合わせる顔がありませぬ」
 ナマズは大きな瓢箪を抱え、ぐずぐずと何事かを呟いている。その頭の中では今日会ったばかりの宮内卿とどのような仲になっているのか、ナマズの妄想は尽きることを知らない。
 まったく付き合っていられない――。
 ジンの頭痛は一層ひどくなるばかりだった。