雷神とナマズ姫

　ほんの一ヶ月ほど留守にしていただけで、江戸はまるで違う街へと変わってしまったかのような顔を見せる。
　十五年前の革命以来、尊皇派の新政府の主導のもと江戸の街の景観は著しく変化し続けていた。街頭にはガス灯が灯り、土を剥き出しにしていた路面にはアスファルトが敷き詰められた。日本橋の商店街には大店の豪商がこぞって西洋風のビルディングを建て始め、洋装に身を包んだ男女が行き交う大通りには、客待ちをする人力車と馬車でひしめいている。
　旗本屋敷の立ち並ぶ数寄屋橋の一角はつい先日取り壊され、陸軍の練成所が新たに設けられるのだと専らの噂だ。
　江戸を一望する高台には皇居と名を改めた江戸城本丸。京より招いた現皇帝・雷恙雅の住まいであり、敷地内には新政府の高官達が集う内閣府の煉瓦造りの建物群が同居する。
　江戸湾から隅田川へ入り、ジンは渡し舟の上から江戸の夜景をぼんやりと眺めた。皇居の裏手にそびえる鉄塔は能源の集中生産装置。十五年前の革命時に一度壊されたものだが、何を思ったのか政府は近頃鉄塔の修復に躍起だ。日に日に天まで届かんばかりに高く積み上げられていく鉄塔は、江戸の東の外れの吉原からでもはっきりと確認できる。
　以前は夜通し行灯の火が絶えることのなかった吉原も近頃ではすっかり寂れた。十年前に公娼制度が廃止されて以来、江戸の街には私娼が溢れ、吉原よりも安い値で遊べるとあって夜鷹や岡場所へ客が流れたためだ。最盛期は百軒を超えた揚屋も今では十五軒にまで減り、暇を出された女郎達は各地に散り散りになった。
　夜露を溜めしなだれた見返り柳の立ち並ぶ水路に、船頭は静かに舟を止めた。
「着いたぞ」と起こそうとして、やめた。ナマズはすっかり疲れて眠ってしまったのか、ヤマジの腕の中で寝息を立てている。
　ヤマジに目配せをすると、案の定ジンがおぶって瓢屋まで運ぶことがすぐに決まった。
　瓢屋は三年前までヤマジが働いていた揚屋だ。主人が手放す際にどういう交渉をしたのか知らないが、今では髪結い処の看板を掲げ住居兼縁師の事務所として好き勝手に使わせてもらっている。
　――それほど無理にでも新しい商売でも始めない限り、花街の人間の生活は成り立たなくなっているということだ。
「どうしたんだい？　ジン」
　月明かりの下でヤマジの銀髪がさらりと揺れる。今まで水仕事をしたこともないような綺麗な白い指。夜毎それが赤くひび割れるまで髪結いの修行を重ね、ジンを育ててくれた手だ。
「……何でもねぇよ。さっさと帰ろうぜ」
　ナマズを背負いジンは立ち上がる。渡し舟が大きく揺れ、ヤマジの口から小さな非難の声があがった。
　背中にずっしりと感じる重みと温もり。これがいずれ大金に変わるのかと思えば、重さなど気にならなかった。
　今の生活と帰る場所を守るためならば、どんな卑怯な手でも使ってやる。
　大門をくぐり瓢屋までの一本道の道すがら、ジンは静かに決意を燃やした。



　翌朝、ヤマジは用があると言って早々に瓢屋を出ていった。
　船を飛ばしたおかげで、予定より三日も早く江戸に着くことができた。それは良かったが、慣れぬ船旅の疲れと船酔いの後遺症でジンの気分は未だに優れなかった。
　瓢屋の二階。三畳ほどの小さな自室で旅装を解き、もうしばらく惰眠を貪ろうと横になったときだった。ドン、と突然何かが腹の上に乗ってきた。
「何をしておるのじゃ、ジン。行くぞ！　共をせい！」
　見上げると、体の上に馬乗りになった青い髪の少女。今回の依頼主でもあり、トラブルメイカーのワガママお姫様だった。夕べ早くからたっぷりと睡眠をとったナマズは朝から元気いっぱいであるようだ。白靄の漂う静かな花街を向こう三軒ほど叩き起こす大きな声で、ジンの首根っこをガクガクと揺らしてくる。
「行く？　行くってどこへ」
　ジンが半ば魂を飛ばしながら訊くと、
「ヤマジに言われたのじゃ。しょうぶふく、とやらを買いに行くぞ」とナマズ。
「勝負服……？」
　ジンは怪訝に眉を寄せた。船の上で意識を失いかけていたとき、背中でそんな会話を聞いたような気もする。
「それって、どうしても今日買わなきゃいけねーもんなのかよ」
「当たり前であろう。明日にはお城に上がるのじゃから」
「じゃあ、ヤマジが帰ってくるのを待てよ。なんでオレが……」
「フン。そちの耳は節穴か？　ヤマジは今日は夕刻まで帰らんのじゃと。さっきそう言っておったではないか」
　ナマズが鼻の穴を広げ、得意げに言い放つ。そしてさも当たり前のように命じるのだ。
「共をせい」
　お断りだ――喉元まで出かかった言葉を、ジンはぐっと飲み込んだ。
　こういうところが生粋のお姫様というか何というか。相手の事情などお構いなしに万事マイペースに事を進めようとする。さらに厄介なのはそこに悪気のかけらもないということだ。
「わらわは江戸へ来るのは初めてじゃ。一人ではとても回れぬ。本当はヤマジが良かったが、おらぬのなら仕方ない。そちで良いから案内をせい」
　ナマズはジンの腹をバシバシと叩きながら言った。ジンはしばし考えたあとに口を開いた。
「……ついて行ってやってもいいが」
「うむ」
「その前に言っておきたいことがある」
　まずは、すぅ、と一呼吸。素直に首を傾げるナマズに向かってジンはありったけの怒声を響かせた。
「人に物を頼むときは、まず頭を下げやがれ！」
　そして腹の上に跨るナマズのヒゲを即座に捕獲。手首に絡めて左右に引っ張りあげた。
「ひぃっ……！　痛い痛い！　何をひゅるのじゃジン！」
　ナマズが悲鳴をあげる。
「あ？　常識知らずの姫様に行儀っていうもんを教えてやってんだよ。これから城にあがるんだろ？　皇帝の前でもテメェはその態度のままで行くつもりか？　このままじゃ未来の旦那探しどころか門前払いで即ご退場お願いしますだ！」
「な、何がじゃ！　わらわのどこが」
「うるせぇ！　全部だよ全部！　その喋り方も偉そうな態度もお前の全部がアウトだ。婿探しに来てるんだって自覚があるなら、少しはモテるよう深窓の姫君らしく振る舞ってみろってんだ！」
　ジンはなおもギリギリとナマズのヒゲを締め上げた。
「返事は？」睨むと、
「わかった！　ようわかったからヒゲを引っ張るのはやめよ！」と言って、痛みに耐えかねたナマズがジンの手を退けようと必死にもがく。だが、ここで許すわけにはいかなかった。
「わかりましたごめんなさい、だろ。もう一度ちゃんと言ってみろ」
「うぅ……」
　口の利き方を知らない姫君に教育的指導。多少厳しくとも、震斎によってベタ甘に育てられてきたであろうナマズにとってはいい薬のはずだ。
　ジンが三白眼を吊り上げしばし無言で睨みつけていると、その迫力に圧されたのかナマズは渋々口を開いた。
「ごめんなさいなのじゃ……。その、わらわ、一人では外に行ったことがなくて……」
「もう一声だな」
　ジンはその言葉に付け加えた。
「あなたがいないと心細くて不安なんです。もし良かったら一緒に来ては頂けませんか？　それぐらいは言っとけ。その方が男は喜ぶ」
「ふぇ……？」
　訳が分からないといった顔をして、ナマズが涙目で見上げてくる。
　ジンは顎をしゃくり「ほら」と促した。ナマズの短い眉がきゅっと切なく寄せられる。
「うっ……わ、わらわはジンがいないと……」
「ジン様、だろ」
　ジンは仰向けに寝そべったまま、腕を組んだ。気分は猿回しの調教師だ。
「あ……、わらわは……ジン……ジン……」
　きっと平民に敬称をつけて呼ぶことなど生まれて初めてなのだろう。悔しさと惨めさがないまぜになった絶妙な表情で、ナマズはつっかえつっかえ小さな唇を震わせる。
「わららは……ジン、さまがいないと、心細くてどこにも行けませぬ。その……どうか、もし良かったら……」
　そしてそこで一旦唾を飲み、最後は半ば自棄になったようだ。
「一緒に来てはくださりませぬか！」
　そう叫ぶのと同時に、ナマズは、ゴン、とジンの胸に額を打ち付けてきた。どうやら恥ずかしくてたまらないらしい。細い肩がぶるぶると震えている。
　まぁ、初めてにしては十分及第点だ。
「ま、そんなもんだな。いつでもそうやって猫被れるように準備はしておけよ」
　ジンは鷹揚に頷き、掴みっぱなしだったナマズのヒゲをようやく手放した。
「く、屈辱じゃ……わらわがどうしてこんな……こんな」
　ナマズは俯き、低い声でそんなことを呟いている。その目尻に涙が溜まっているのが見えて、ジンは「げ」と顔をしかめた。ここでまた大袈裟に泣かれでもしたら面倒臭いことになる。
「大丈夫だ。そのうちそうやって男を騙すのが快感になる……らしいぜ。うちの誰かみたいによ」
　仕方なくフォローになっているのか分からないフォローを一つ。
　いつまでも腹の上に乗っているナマズを押しやって、ごそごそと部屋の隅に放置した風呂敷包みの中を探る。そして目的のものを取り出し、ナマズに放ってやった。
「……何じゃ？」
「見ればわかるだろ。櫛だ」
　ナマズの足元の畳に転がった櫛を指差し、ジンは命じた。
「ちゃんとそれで髪梳かしてヒゲを隠してから下りてこいよ。これから行く街で悪目立ちはしたくねぇからな」
　そして、よっこらせ、と疲労困憊の体に鞭打ち立ち上がる。首を回すとボキボキと音がした。部屋の隅に立てかけた脇差を手に取り、開け放たれたままの襖から部屋の外へと出る。生あくびをしながら階段を下り始めると、
「ま、待つのじゃジン！」と言って、背後から追いかけてくる足音が聞こえた。