雷神とナマズ姫
4.
本日は快晴なり。高く澄み渡った空と青い海。長年の憧れだった豪華な船旅。
鹿島港を出航して早半日。鹿島の紋をつけた立派な船は江戸へ向かい順調に帆を進めていた。
「おい」
――ただ一つの問題を除いては。
「おい、いい加減にしやがれってんだ。このナマズ姫が。いつまでそこで籠もってるつもりだ? ああ?」
ジンは傍らで丸まる布の塊をゆっさゆっさと揺さぶった。木製の簡易寝台だ。これから一ヶ月を共にする大口の依頼主を乗せ、軋んだ音を立てる。
「おーい。生きてるのか? 生きてるなら返事ぐらいしろ」
ジンは生あくびをしながら、根気よくナマズを揺すり続けた。しかし、ナマズは答えない。船に乗るやいなや一目散に客室の寝台へと駆け込んだきり、ナマズは頭からすっぽりと毛布を被り、半日以上もずっとこの状態だ。
ジンが揺すってもヤマジが宥めてもびくとも動かない。しくしくと鼻を啜る音が聞こえるばかりである。
「なんてことをしてくれるのじゃ、そちどもは。こ、こんな頭では恥ずかしくてどこにも行けぬではないか」
そして時折口を開いたと思えばそんな愚痴。いわく、旅立つ間際にジンとヤマジにいいように切られた髪型が気に入らないらしい。
「なんだい、可愛くしてやったのにつれないねぇ」
「少し強引すぎたんじゃねぇの?」
ジンとヤマジは肩を寄せ合い、ひそひそと囁いた。ヤマジはもちろん、ジンとて見習いではあるが髪結いの腕に自信がないわけではない。はっきり言って心外である。
「やっぱり父上の仰る通り城の外は怖い場所であったのじゃ。どうしてわらわがこんな目に……こんな下賎な者どもの手にかかって……」
ナマズの落胆がヒートアップする。
『何気に失礼なことを言う子だねぇ』と横目でヤマジ。
『大丈夫だ。オレはずっと気づいてる』ジンは深く頷いた。
「ああ、嫌じゃ嫌じゃ。早う城へ帰りたい……泥の中に戻りたい……」
毛布の塊が一層小さく縮こまる。ナマズの泣き声が高まるにつれ、船室の空気がさらに湿ったものへ変わっていく。
(面倒くせぇなぁ)
ジンがいい加減辟易としてきたところだった。視線を隣に配るとヤマジも同意のようで、肩を竦めようやくの態で膝を折った。
「ナマズ姫」
ヤマジが毛布の上からナマズの肩をさする。今まで聞いたこともないような猫撫で声だ。
「いつまでもこんな場所にいたら気も塞いでしまうよ。甲板へ出て少し海の風に当たってきたらどうだい?」
「海の……風?」
「ああ、そうだよ。姫は海を見るのも初めてだろう?」
ヤマジが優しく問いかける。緑色の毛布はこくんと頷いた。
「わらわは……」
「うん」
「わらわはずっと城の中で暮らしておった。だから、こんな大きな沼は知らぬ。見たこともない。嫌じゃ。怖い」
「怖くなんかないよ。綺麗なもんさ。煌めく波間も、海風もとても気持ちの良いものだとアタシは思うけどね」
「でも……」
ヤマジの精一杯のフォローを、暗い声が遮る。
「でも、さっきちらっと……ちらっとじゃぞ? 窓から見たんじゃが、この『海』というやつ、底が知れぬほど水が真っ暗で深いのじゃな。その中を変な形をした見たこともない魚がうようよ泳いでおって……ああ、思い出すだけで気味が悪い。もしあの中へ落ちてしまったらどうするのじゃ。わらわが可愛いからと魚達が沢山集まってきて、骨も残らぬほど頭から貪り食われてしまったら……」
「おい」
ジンは思わず口を挟んだ。もうどこから突っ込んだらいいのかわからない。
「……姫。心配することなんかないさ。海の中の魚が急に襲いかかってきたりなんかはしないし」
(そうだそうだ)
必死に含み笑いを噛み殺すヤマジに、ジンは何度も頷いた。ヤマジもたまにはまともなことを言うじゃないか。
「それに」
だが次の言葉には同意できなかった。
「万が一、やってきたとしても……うちのジンが姫を守ってくれるよ」
(おいいい!)
目を剥くジンをよそに、ヤマジは続けた。
「うちの護衛はこう見えても剣の腕だけは立ってね。なんと、かの塚原卜伝の編み出した最強の剣術・鹿島新当流の免許皆伝」
「だー! ふざけんなってヤマジ! オレはそもそもお前の護衛じゃねーし、免許皆伝とか勝手にそんな設定つけるんじゃ……うぐっ!」
「すまないね。この子は少し照れ屋でね」
いきり立つジンの後頭部を、ヤマジの大きな手が問答無用で抑える。
「まぁ、見ての通り頭は悪くて品はないけれど、護衛としての腕は保証するよ。躾も行き届いているし、姫に危害を加えることは決してない。だから安心して出ておいで。ずっと布団にくるまっていたら、折角の可愛い顔が台無しだ」
「かわいい……?」
緑色の毛布がぴくりと揺れる。
「それはまことか?」
「ああ。吉原随一の髪結い・瓢屋ヤマジが髪を切ったんだ。可愛くないわけがない。ほら顔をおあげ」
「う、む……」
ヤマジの手に導かれ、布の塊が身じろぐ。ゆっくりと持ち上がった緑色の毛布から、青い瞳が覗く。涙をいっぱいに湛えた少し眦の垂れた丸い目だ。
「まことに、まことに変ではないか? わらわ、可愛い?」
ナマズの小さな唇が震える。ほんのり赤く染まった頬と鼻。眉の上で切り揃えた青い髪は、寝癖であちこちに跳ね、小さい額には毛布の皺の痕がくっきりと残っている。
そのアンバランスな幼さを残す面立ちとは裏腹に、ジンを正面から射抜く視線は思いのほか強い。
『なにぼーっとしてるんだい。褒めな。全力で褒めな!』
ジンが言葉を失っていると、ヤマジが肘で突ついてきた。
(褒めろって言ったって……!)
ジンはたじろいだ。口から生まれてきたようなヤマジとは違い、ジンはとっさに嘘をつくことが苦手だ。
だから思うままを口にした。ごくっと唾を飲み、ナマズの顔を正面から見つめ、親指を突き出し太鼓判を押す。
「ああ、心配するな。実に変態受けのしそうな、最高の萌え系だ」
次の瞬間、ジンの頬に双方向から平手が飛んできた。
――これだから女という生き物は嫌いだ。
(痛ってぇ〜)
熱を持って痛む頬を押さえながら、ジンは甲板で潮風に当たっていた。
その隣にはヤマジ。はしゃぐナマズの体が船べりから落ちないように、小さな体をしっかりと片脇で抱えている。
「何じゃ、あそこ! あれ、あれ!」
「ん? 何だい」
「今、何かが跳ねたのじゃ。ほれ、あそこで。また……」
先ほどとは打って変わって興奮した声がナマズの口から洩れる。波間に魚の影が見えるたび欄干から身を乗り出し、初めて見る大海原の景色に見惚れているようだ。
「うーん、よく見えぬ。ヤマジ、その手を離せ」
「ダメだよ。落ちたら危ないだろう。姫は泳げるのかい?」
「泳ぐ? 泳ぐのなら得意じゃぞ。いつも城の中では、沼底で寝ておるからな」
横顔から生えた青いヒゲがナマズの機嫌を表すように、ぴょこぴょこと面白いほどに揺れる。そのヒゲでエラ呼吸までできるというのか。さすがは化け物憑き。
(……てゆーか、今まで城の外に出たことないんだって言ってたっけ)
ジンは傍らで目を輝かせるナマズを複雑な気持ちで見つめた。
古来より『神』の生まれ変わりとされる化け物憑きの子供。彼らは総じて短命だ。その身に宿った『力』を制御できず、成人を迎えることなく『力』に飲まれてしまうためだ。そうして我を失った化け物憑きが『天災』となり人里を襲う――この事態を憂えた幕府が天災の神々の捕縛策を打ち出したのは、泰平の世が続く皇歴一○二五年。今からおよそ三百年前のことだ。
(化け物憑きは世に災いをもたらす……か。けど、とてもこいつにそんな力があるようには見えねぇけどな)
ジンは海風に青い髪をなびかせるナマズの幼い横顔を盗み見た。
見るものすべてが珍しいのか、瞬きも忘れ食い入るように海の中を覗き込んでいるその姿は、どこにでもいる普通の少女だ。日に焼けていない白い頬はほんのりと色づき、太陽の光を浴び燦々と輝く。
規則正しい波の音とナマズのこぼす溜め息。と、突然風が吹き荒れ、帆柱が大きく傾いだ。見ると、隣でヤマジが羽扇を手に厳しい表情を作っていた。
「ヤマジ?」
ジンが問いかけると、
「嫌な雲が近づいてきた。少し急ぐよ」
と言って、ヤマジは西の空を見上げた。そこにはいつの間に現れたのか、黒い雨雲がもくもくと育っていた。
ヤマジが羽扇を持った長い右腕をすらりと伸ばす。そして左手の親指を口許に当て、静かに口笛を吹く。再び船体が大きく揺れた。
「おわっ! 何じゃ!?」
「危ねぇ!」
欄干から海に転げかけたナマズの体を寸でのところでキャッチする。
風がいきなり強くなったのだ。
「おい、ヤマジ! いきなりスピード上げるんじゃねぇよ。この船、能源を積んでたんじゃなかったのか?」
「積んでないよ。今では能源もすっかり贅沢品になっちまったからね。この帆船は、100%自然の風力だけで動かしている」
「嘘だろ。今時そんなアナログな船があってたまるか!」
「それがあったのさ。鹿島のお殿様は大の能源嫌いで有名でね。この船は今でも鹿島の公用船だろう?」
「そう……じゃと思うが」
ナマズが自信なさげに頷く。
能源とは三百年前に幕府が開発したエネルギーシステム。自然の力を利用し変換装置を通すことで半永久的に持続するエネルギーとして活用することに成功した画期的な動力源である。
発明以来、江戸の集中管制塔で精製された能源は年貢に応じて各大名に振り分けられ、農業・林業・漁業・生活の細部に渡りすべての民の生活を支えてきた。
「父上は能源がお嫌いじゃ。鹿島の城には能源は一台も置かれておらん。それでも今まで特に不便に思ったことはなかったが、やはりおかしいのかのぅ……」
「いいや。時代遅れでとてもエコロジーで素晴らしいことだと思うぜ……っぷ」
ナマズの肩を抱きながら、ジンは気持ち悪さに口元を押さえた。急に激しくなった揺れに、堪え切れぬ吐き気が襲ってきたのだ。
「おい……ヤマジ。急ぐのはいいけど、もう少し丁寧に船を動かせねぇのかよ」
思わず苦情を入れるも、
「さぁね。それは風に聞いておくれよ」とヤマジ。
「たまにはのんびりと気ままに風に揺られる船旅もいいもんじゃないかと思ってたけど、嵐に巻き込まれるのは御免だよ。アタシの着物と髪が汚れるじゃないか」
(そんな理由かよ……!)
ジンは甲板に四つん這いになり、深くうなだれた。
いや、そうだ。ヤマジの行動理由はいつだって単純だ。そんなことだろうと思ってはいたけれども。
ジンの背後で屈強な船員が何人も悲鳴を上げて倒れていく。次々と伝播する激しい船酔いに甲板はさながら地獄絵図と化した。そんな中涼しい顔をして立っているのは、ヤマジとナマズの二人だけ。
「さぁ姫もこっちへおいで。驚かせて悪かったね。髪を梳かしてあげるよ」
ヤマジがナマズを手招く。ナマズは不思議そうに足元でうずくまるジンを一瞥したあと、ヤマジに手を引かれ船室へと戻っていった。ジンものろのろとその後を追う。
船室に入るとジンは真っ先に寝台に転がった。あまりの吐き気にもう立ってもいられない。
「思い出すねぇ、こうして髪を梳いていると妹にしてやっていたのを思い出すよ」
背後ではナマズの髪を梳き始めたのか、そんな暢気なヤマジの声。ナマズは部屋の中央に置かれた椅子にちょこんと腰掛け、ヤマジを上目遣いで見上げる。
「ヤマジには妹が居るのか?」
「ああ、居たさ。もうずっとずっと前のことだけれどね」
「……そんなことオレは初耳だがな」
ジンは呻くような声で呟いた。もうここまでくると、ツッコミは最早ジンの習性である。
ヤマジは赤い柘植櫛を動かす手を止め、そんなジンを鼻で笑った。
「おや、小さい頃アタシのおもちゃになっていたのは、どこのお嬢ちゃんだったかな」
(オレのことか……!)
皮肉たっぷりの揶揄に、ジンはかっと頬を染めた。しまった。完全におちょくられた。
「こいつも今ではすっかり可愛げがなくなっちまったけど、小さい頃は一人で小便も行けないぐらい可愛い子だったんだよ」
ヤマジがくつくつと笑う。その笑みに幼い頃の嫌な記憶が蘇る。太夫から髪結いへと転職したいと考えるヤマジの練習台として、散々髪をいじられ続けた忌まわしき過去の記憶。
「わらわは一人で厠へ行けるぞ」とナマズ。
「そうかい。なら、姫のほうがずっと大人だね。なぁジン」
「うるせぇな……」
声をかけられても、もうまともに返事をする気が起きなかった。
ヤマジはいつまで経っても保護者面で、どこの出自とも知れない自分を拾って育ててくれた手前、そのことを持ち出されるとジンは弱い。
「いいにおいがするのぅ。ヤマジ、これは何じゃ。何の実じゃ」
「これは口紅だよ。紅花を搾って作ったものだ。まぁ姫には必要ないものかもしれないけど、一応ね」
背後では相変わらず楽しげな会話。女同士気が合うのかもしれない。(まぁ片方はオカマだが)
「江戸に着いたらまずは着物を新調しようね。ドレスなんかもいいかもしれない。姫は何か着てみたい服なんかはあるかい?」
「着てみたい……服、か?」
「こんなに可愛いんだ。何でも似合いそうなものだけど、一応好みは聞いておかないと」
「そう言われてものぅ……」
ナマズが少し困ったように言い淀む。「うーん、うーん」と思案する声。しばらくすると思考に煮詰まったのか「にゃー!」と奇声を発した。
「わらわにはよう分からん。そちにすべて任せる。それでは……ダメか?」
ナマズが縋るようにヤマジを見上げる。ヤマジはこれ得たりと艶然に微笑んだ。
「そうかい。なら、アタシの力で、姫を雷神祭一の美姫に仕立ててあげるよ。精一杯可愛らしく着飾って、素敵な殿方を一緒にゲットしようね」
「うむ。任せたぞ、ヤマジ」
ヤマジの頼もしい言葉にナマズはたちまち破顔した。豊満な胸にここぞとばかりに抱きつく。一見して感動的な合意。しかし最後に何やら聞き捨てならない台詞が聞こえた。
ジンは首だけで億劫に振り返った。
「……おい、こら。待て、このオカマ」
「あ? なんか言ったかい、この死に損ないのフニャチン野郎」
ナマズを腕に抱き、とろけんばかりの笑みを浮かべていたヤマジの顔が、一瞬にして般若の表情に変わる。
ジンは口元をひきつらせた。
(何が一緒に男をゲットしようだ……! どさくさに紛れて結局はテメェの男探しが目的なんじゃねぇかよ……!)
ジンのそんな叫びは大海原を進む船首の音にむなしく飲み込まれ言葉を成さずに消えていく。
――もっとも、依頼にかこつけたヤマジの男漁りは今に始まったことではないけれど。
(ああ、不安だ……この依頼、この面子で本当に大丈夫なのかよ……)
まともな奴はオレしかいないじゃねぇか!
ジンは寝台に突っ伏し、枕でこっそり涙を拭った。ナマズはすっかりヤマジに懐いたのか、二人で耳元で囁き合って何やら楽しげに話している。
そうこうしているうちに船は内海へ入ったのか、激しかった揺れが次第に収まってきた。
「さぁ、江戸が見えてきたよ」
船室の窓を開け、ヤマジが穏やかな声で促す。ナマズが甲高い声を上げて、一目散に窓際に駆け寄っていった。
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