雷神とナマズ姫
10.
翌朝は良く晴れた透度の高い青空が皇居の上空にどこまでも広がっていた。
「父上どこへ行かれたのじゃろう」
鏡台の前に座らされたナマズが、手持ち無沙汰に椅子の上で足をぶらぶらと遊ばせている。
その隣には物憂げな表情で化粧箱の中を改めるヤマジ。連日遅くまで開かれるパーティーに疲れが出始めたのか、やや言葉少なだ。
慣れた手つきでナマズの髪を結いその頬に白粉をはたき終えると、コルセットをぎゅっと締め、その背をぽんと叩く。
「さぁ、できたよ。アタシの可愛い姫君。今日もうんと沢山男をたぶらかしに行こうね」
「うむ、大儀であった、ヤマジ」
ナマズが椅子から飛び降りる。今日もナマズは午後から恙雅の茶席に呼ばれていた。何の冗談かヤマジの入れ知恵かは知らぬが、あの少年帝はナマズを気に入ったらしい。だが、昨日の失態が深く心に尾を引いているのか、ナマズの表情はどこか浮かない。
その様子が少し気になりはしたが、ナマズが頼ってこない限り、無理に口を割らせるのも悪いような気がした。
ジンは壁際に凭れながら、ナマズの支度を待った。怪我は一晩で回復したとはいえ、頭を重く響かせる鈍痛は続いている。
(なんでこんなイライラすんだオレ。ちゃんと祝ってやらなきゃ……)
ジンは悶々とする心で必死に考えた。ヒムカと名乗った赤髪の少女のこと。突然ナマズに襲い掛かってきた龍の化け物。気になることは沢山あったが、今はとりあえず滞りなく今日のパーティーを乗り切る方法を考えることが先決だ。
ナマズが恙雅に気に入られた。これは喜ぶべきことだ。傀儡の王に過ぎないが、恙雅は紛れもなき第十七代・日渡の国主――皇帝である。雷神祭を終え、正式に雷神の加護を身につければ、直に政権も手中に収めるだろう。不遇な御足を持ちながらも、類稀な頭脳を有する聡明な皇子であると聞く。齢十六にして古代の呪術書を読み解き、失われかけていた雷神祭の手筈を復活させたのも、恙雅自身であると専らの噂だ。
――だから、このままうまくナマズと恙雅の縁を取り持ち、無事この仕事を終える。瓢屋は王妃の縁を取り持った縁師として名をあげることだろう。ナマズの結縁にあやかろうと客が我も我もと押し寄せ、将来食いはぐれることはまずなくなる。脳裏に描いた未来図は万事順風満帆でとても魅力的なものに思えた。
だが、どこか素直に喜べない自分がそこには居た。
「どうした、ジン。顔色が優れぬぞ?」
ナマズに顔を覗き込まれても、ジンは目を合わすことができなかった。
「……何でもねぇよ。準備はもうできたのか?」
「うむ。どうじゃ、今日もわらわは可愛いであろう?」
「ああ、そうだな」
それは何度も交わした同じ遣り取り。今日は紅色の内掛けに身を包んだナマズは、いつものようにジンの返事にむくれた表情を見せる。
「それじゃ、行くか」
ジンは脇差を持ち、壁から背を浮かした。
「お待ちジン」
その動きを制したのはヤマジだった。
「いいよ。アンタはまだ寝てな。今日はアタシが姫の共をするよ」
「あ?」
ジンは思わず怪訝な声で聞き返した。城にあがってからというものの、ヤマジは己の男探しに夢中でナマズの世話などちっとも焼いていなかったくせに、一体どういう風の吹き回しだ。
「昨日ぶっ倒れたばかりの奴に姫の共が務まるものか」とヤマジ。
「それに、むさ苦しい男の従者より、美女が二人で居たほうが華があるだろう」
ヤマジの胸にぎゅと抱き寄せられ、ナマズは「うぎゃ」と声をあげた。胸の肉に押し潰され息が苦しいのだろう。
そうしてようやくヤマジの黄緑色の袷から抜け出すことに成功したナマズは、ジンを横目にぶっきらぼうに言う。
「そうじゃ、寝ていよジン。今日は特別に暇を出す」
「……偉そうに」
ジンは苦笑した。二人が自分の体調を気遣っていることが手に取るように分かったからだ。
ナマズは大事そうに瓢箪を抱え上げ、ジンの前を通り過ぎ廊下へと歩いていく。
「……さぁ、行こうか、姫」
そう言ってヤマジはナマズの手を引き、支度部屋を後にした。
次にジンが気がついたときには、いつの間にか窓から夕陽が差していた。
(やべ……寝すぎた!)
ジンは寝台の上で飛び起きた。昼間からこんなにのんびりと寝過ごしたのは、瓢屋で働き始めてから初めてのことだった。
それもこれもこの柔らかな布団が悪い。体の芯まで包み込むような上等な羽毛布団の心地よさにすっかり時間を忘れてしまった。またヤマジにどやされる! 思って、ジンは「あ」と口を開いた。
ここは瓢屋ではない。城の中に用意された豪華な客室。その寝台の上だ。
「なんだ……びっくりさせんなよ……」
ジンはどたんと再び仰向けに寝台に寝転んだ。身に染み付いた条件反射とは恐ろしいもので、うかうかゆっくり眠ることもままならない。ジンは深く溜め息をついた。
ヤマジに共を任せ、皇帝の元へと赴いたナマズは今日こそはうまくやっているだろうか。
せっかく休みを出され雑事から解放されたというのに、頭を悩ますのは仕事のことばかりだった。幸い、しばらく惰眠を貪ったおかげで頭痛は少し軽くなったようだ。ジンはしばらくごろごろと寝台の上で転がったあと、暇を持て余し仕方なく起き上がった。
(仕方ねぇ……ここでいつまでも寝てるわけにもいかねぇし……)
「……行くか」
ジンは重い吐息とともにのろのろと立ち上がった。朝から何も食べずに眠り続けたせいで、腹も減っている。あまり気は進まないが、パーティー会場へ潜り込めばそこらのテーブルに所狭しと並べられたご馳走に少しでもありつけるはずだ。(あまりがっつくと従者のくせにと白い目で見られるのは先日すでに実証済みだ)
ジンは部屋の扉を開け、赤絨毯の敷かれた廊下へ滑るように足を踏み入れた。
(ていうか、どこだここ……)
きょろきょろと辺りを見回す。今朝目覚めた部屋と同じ部屋を使ったつもりだったが、どうやら場所を間違えていたらしい。どこも似たような造りの部屋と廊下だからちっとも気づかなかった。
適当に廊下の突き当たりまで歩いていくと、上下に別れる階段にぶつかった。ナマズ達が今どこに居るか検討もつかないが、とりあえずなんとなく人の気配のしそうな方を選ぶことにした。階段を下り、微かに耳に響く声の元を追う。くんくんと鼻を利かせ、辿り着いたのはそこだけろくに塗装も施されていない剥き出しの木扉だった。少なくとも大広間への入り口ではない。
(納戸か、控え室か?)
だが、部屋の中にはたしかに人がいる。ごそごそと蠢く気配と衣擦れの音。時折聞こえる低い呻き声はただごとではない雰囲気を醸し出している。
(何だ?)
ジンは不審に思い、木扉を引いた。だが、施錠がされているのか持ち手が錆びた音を立てて回るのみで一向に扉は開く気配を見せない。中から呻く声がより大きくなる。ジンは周囲を見渡し、人通りのないことを確認すると、助走をつけて両足で扉を蹴破った。
「……っ! 何やってんだよおっさん!」
見えたのは見知った男の後ろ姿だった。墨染めの衣の上から縄をぐるぐる巻きにされ、床に転がされている。その坊主頭は間違いない――鹿島入道震斎その人だ。
「おっさん、おっさん! おい、どうした。しっかりしろ」
うなされているのか、呻き声を上げながら寝ている震斎の肩を揺り動かし、ジンは声を荒げた。
なぜ仮にも鹿島の藩主ともあろうこの男がこんな場所で簀巻きにされて転がっている?
「……んぁ?」
震斎はジンの声に薄目を開くと、次の瞬間には
「はっ……! いかん!」
と言ってガバッと身を起こした。くわっと目を見開き、後ろ手に縛られた格好のままぶるぶると唇を震わせる。
「ワシとしたことが……正面から眠りの風を食らうなど何たる失態……」
「おい」
「美しい女子と思ってすっかり油断しておった。あれはまさしく紛れも無き風神の力。しかし、風神は十五年前はあのような姿ではなかったはず。それに加えあやつを動かす影の陰謀……鳳徳の奴め何を考えておる……」
「おい! 無視すんな、このクソジジイ!」
ジンは目覚めるなり一人でぶつぶつと呟き始めた禿頭を遠慮なく叩いた。そして、仕方なく縄を解いてやりながら愚痴垂れる。
「せっかく助けてやったってのに……。一体何があったんだよ」
その問いに震斎はぎょろりと大きな目をジンに向けた。
「今は説明している暇はない。貴様、たしかジンと申したな?」
「あ、ああ」
「ヤマジを追え。ナマズの身が危ない」
「は?」
ジンは思わず聞き返した。震斎はどこか頭でも打ったのかと思った。突然訳の分からないことを言ってジンの肩を掴む。だが、その表情は恐ろしいぐらいに真剣だ。とても冗談を言っているようには見えない。
「ナマズの力を見たであろう?」
震斎は声を低めて言った。
「ナマズの力を抑えるためには雷神が必要だ」
「……どういうことだ?」
縄を解き終えたジンは、震斎に膝をにじり寄らせた。
「古来より天災の神々は天帝たる雷神の力に従属する。ナマズに持たせた瓢箪の中にある布都御魂――あれは本来雷神の力を宿した要石。雷神の不在時に力が暴走せぬよう各々の神へ雷神が授けた和魂であるのだ」
震斎が口早に説明する。ジンは脳裏に疑問符を浮かべながらも、震斎の怖い顔に合わせて神妙に頷いた。
「その要石を狙い、ヤマジがナマズをさらっていきおった」
「……は?」
だが、その次の言葉だけは馬鹿なジンでもよく分かった。ヤマジが何やらナマズの大切なものを盗み、ナマズを連れ去って行った?
「嘘だろ? どうしてヤマジがそんなことする必要があるんだ」
「理由は本人の口から聞け」
震斎はにべもなく答えた。そして素早く手の中で印を組み、断わることなくジンの背に掌を押し付けた。
「ぎゃっ!? 何すっ……」
ジンは思わず悲鳴をあげた。背中に触れた震斎の手は燃えるように熱く、「え?」と眉を寄せた瞬間にビリ、と背から腹に向けて鋭い雷撃がジンの心臓を貫いた。
「とりあえず一旦ワシの力を貴様に譲渡する。すぐにヤマジを追うのだ」
「ま、待てよ……どうしてオレが」
お前が自分で行けばいいだろ! 言いかけた言葉は、震斎の向ける鬼の形相の前に掻き消えた。有無を言わせぬ強い迫力。
「ワシはやることがある」
震斎は決意を秘めた瞳でそう言った。ドン、と背を押される。
「いいから先に行け! ……ナマズを頼んだぞ」
ジンはその場によろめき、震斎を一度振り返ると、弾かれたように爪先で床を蹴った。
ああ、もう何だか全然分かんねーけど、行けばいいんだろちくしょう!
震斎に注ぎ込まれた不思議な力が全身を駆け巡り、血をどくどくと沸騰させる。
――こっちだ。
廊下に飛び出したジンは今度は迷うことはなかった。
「闇雲に走ってゆく若さ……それをワシは忘れたのかもしれんな」
震斎は走り去る少年の後ろ姿を眩しい気持ちで見送り、軋む体に鞭打ち立ち上がった。勝手知ったる城の廊下を壁伝いに歩いていく。
老いは心を弱くさせる。彼女に正面から向かい合う勇気を呼び起こしてくれたのは、皮肉にも震斎が最も心憎く思う口の減らない少年だった。自分を皇弟としてでもなく大名としてでもなく、いつまでもへりくだった様子を見せずに接してくる稀有な少年。その真っ直ぐな瞳に今は賭けてみることにした。
「さて……久しぶりにもう一仕事と行くかの」
辿り着いた部屋の前で震斎は拳を鳴らすと、重い扉を片手で抉じ開けた。そこは常から特に施錠されることのない、古びた楽器ばかりを収める狭い納戸だった。暗闇の中で目を凝らし、埃被った棚の一つ一つを注意深く改めていく。ほどなくして目的のものが見つかった。
胴に瑪瑙と鮑の貝殻で螺鈿細工を施した五絃の琵琶だ。ただし、今では誰も手入れをする者がいないのか、当時の輝きは色褪せてしまっている。
震斎は琵琶の柄を持ち上げ、懐かしさに目を細めた。そう、今宵のように月の明るい夜に――かつては幾度も彼女のために弾いて聴かせたものだ。
震斎は納戸の窓を開け、窓枠に足を着くと迷わず月空の下へ躍った。城の屋根瓦を蹴り、琵琶を持ったまま天守閣の外壁を登る。そして、金色の鯱の隣に腰掛けるとその場に胡坐座を掻いた。
辺りは雲の流れる音だけが響く、静寂な月夜。
数珠を手に取りそこに提げた鼈甲の撥を外す。震斎は静かに五絃を奏で始めた。目を閉じ、ゆっくりと唄を吟じる。身分違いの男女の叶わぬ恋路を詠った古の調べ。
この曲を聴かせると、彼女は決まってうっとりと目を伏せ震斎の背に温かな肌を寄せたものだ。『力』を吸い取られ、何重にも手足に纏わりつくコードを引き千切る気力さえ残されていない彼女は、それでもほんの僅かな逢瀬を惜しむように、震斎の背に甘えた。
決して犯してはならぬ禁忌の恋――皇弟という立場も支配者としての責務もすべて忘れ、彼女を逃がすためだけに剣を取った十五年前のあの日――空には今日と寸分も違わぬ丸い月がぽっかりと浮いていた。
天守の上で唄い続ける震斎の墨染めの衣を冷めた夜風が攫う。静かなそよぎは次第に旋風を巻き起こし、瞬く間に紫色の雲が月を覆い隠していった。雲間の遠くから響くは稲妻。鼻先を蒸した空気が圧し、瞼の裏に青い閃光が近づいてくる。
『……し、さま……』
己を呼ぶ声に、震斎はようやく伏せていた眦を持ち上げた。琵琶を弾く手を止め、正面に迫った青い光渦を正面から見つめる。
そこには今にも震斎を飲み込まんと大きく口を開けた龍の顔。両頬から長く伸びたヒゲの周りに無数の黄檗色の燐粉を飛ばし、震斎に金色の眼を向ける。
「久しぶりじゃのぅ、照葉」
震斎は手を伸ばし、龍の頬に触れた。琵琶の音で多少は浄化されたのか、その瞳の中に先日見た白い濁りの色は見られない。
「ぬし……さま……」
「照葉……」
龍が甘えるように震斎に頬ずりをしてくる。震斎は青い鱗の剥がれ落ちた黒い肌理を何度も確かめるように掌で擦り、声を震わせた。
「どうして黄泉より戻ってきおった。現世には、そなたの安住の地は最早ないというのに」
触れた先から龍の肌がボロボロと崩れていく。一度は灰に包まれたはずの体だ。どんな呪式でもって強引に甦らせられたのか、抱き寄せた龍の首は冷たく、どこからも心音は伝わってこない。
「日渡はそなたが望んだ美しき国へは戻らなんだ。十五年前、そなたが望んだ美しき国へは一歩も――」
震斎は悔しさに奥歯を噛み締めた。
「民は相も変わらず能源を求め、官もまた安易な『力』を欲し再び能源に縋り始めておる。革命時にワシが掲げた自然追求主義など最早過去の題目に過ぎん。そこにどんな犠牲を伴うとも知った上でなお日渡はまた同じ過ちを……」
懺悔をするように肩を震わせる震斎を、龍は首を傾げて見守る。永きの眠りから覚めたばかりの彼女は震斎の言葉は半分も理解できていないようだ。しかし、震斎は構わず続けた。
「これ以上事態を看過しているわけにもいかぬ。けれど、ワシにはもう時間がない。この身に宿した『雷神』は日に日に力を失ってきておる。守護すべき『龍神』を、そなたを失ったあの日から……」
そして、龍の目を正面から見据え、ゆっくりと言い聞かせるように名を呼んだ。
「照葉―ー愛しい我が妻よ。今一度、ワシに力を貸してはくれぬか?」
その言葉に、龍の目が優しく細められる。「ぬし様」と昔と変わらぬ控えめな甘い声が震斎を呼ぶ。震斎は唇を引き結び、夜空に透ける青い龍の胴身へ手を伸ばした。
「この身と引き換えに、そなたへ預けたワシの要石を返してもらおう」
夫の呼びかけに応え、照葉は微笑みながら大きな口を開け、震斎の体をゆっくり、ゆっくり時間をかけ喉の奥へと飲み込んでいった。
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