雷神とナマズ姫

2.

 鹿島の国は江戸から北東へ約二十里、日光街道から分岐し鹿島神宮へ続く門前町として古くから栄えた港町である。下総国の犬吠崎から大洗岬へと続く海岸線は鹿島灘と呼ばれ、長い年月をかけ荒ぶる磯波に浸食された岩肌が複雑な造形美を見せる。
 鹿島神宮の裏手、高台に築かれた城の天守から眺める景色は勇壮の一言で、多少路銀がかかっても帰りは船旅にしようとジンは一人心を弾ませた。
「しばしこちらでお待ちください」
 城門から部屋まで案内をしてくれた使用人が恭しく一礼をし、下がっていく。ヤマジが「ありがとう」と、羽扇を手に微笑んだ。こういうときのヤマジの外面の良さは折り紙つきである。ジンは小さく頭を下げ、再び窓枠から身を乗り出した。城下の景色をつぶさに眺める。
 眼下を大きく東西に分断し、海へ悠々と流れ込むのは鰐川。西端に北浦。ともに利根川の支流にして霞ヶ浦を形成する湖である。川の両岸には集落が軒を並べ、刈り入れを間近に控えた黄金色の田圃が周囲に延々と続く。遠くに望む筑波山の尾根にはまだ雪が残っていた。
(それにしても)
 ジンは思った。川の上流、城郭に程近い白壁で囲われた一角は市場になっていて、物売りの行き交う街道沿いには先ほどジンが長時間格闘した忌々しき厠が見える。
(それにしてもさっきの髭面野郎は運が悪かったよな。今頃、どうにか自力で気がついてくれてりゃいいけどよ)
 厠でヤマジに眠らされた哀れな侍のことを思い出し、ジンは重いため息をついた。
 目が覚めたら厠で長い時間伸びていました、だなんていいお笑い草だ。あの様子では、きっとしばらくは糞のにおいが袴からとれないであろう。ご愁傷様なこった。
 そこまで思って、ジンはふと気になって己の袂を引き寄せ嗅いでみた。いや、これぐらいならまだセーフ。……のはず。異様に鼻が利きすぎるため、たまに臭さの一般基準がわからなくなるのが、ジンの悩みの一つであった。
「何やってんだい、ジン。さっきからそんなところをふらふらして」
 名を呼ばれ顔をあげると、ヤマジが座敷の中央で盆に出された茶菓子を美味しそうに頬張っていた。
「食べないなら、これ、アンタの分も貰うよ」
 言うより早く、ジンの茶饅頭はあっと言う間にヤマジの口の中へ消えていった。
 行儀よく正座はしているものの、使用人が消えた途端、ヤマジはすっかり普段の調子に戻ってしまった。抹茶を片手で豪快に飲み干し、「かーっ、うまいねぇ!」と満面の笑みを浮かべる。手に持った品のいい有田焼きの茶碗がまるで酒のお猪口のようだ。
「さすが鹿島の殿様だねぇ。用意する菓子の質も段違いだ。これは報酬もうんと期待できそうだね。いくらふっかけてやろうか。ヒヒヒ」
「なぁ、ヤマジ」
 ヤマジが頭の中で楽しそうに算盤を弾き始めたところで、ジンはずっと気になっていたことを訊いた。
「今日の客ってのは? まさか、鹿島入道震斎本人じゃねぇよな?」
「当たり前だろう。誰がジジイの縁談をまとめて喜ぶもんか。アタシが依頼を受けたのはもっと可愛い子だよ」
「可愛い子? けど、震斎には子供はいなかったはずだ。養子を取ったという話も聞かねぇけどな」
「それがいたのさ。まぁ、今まで震斎のジジイがひた隠しにしてきたからあまり世間に知られちゃいないが、それはもう城の中で大事に大事に育ててきたという深窓の姫君がね」
「深窓の姫君……ね」
 そこまで聞いて、ジンは首を傾げた。これまで縁師に仕事を依頼してくる客と言えば、女郎上がりや博徒や札付き者ばかりで、要は花街に巣食う「ワケあり」な男女ばかりであった。しかも皆揃って醜女・醜男揃い。真剣に客の身の上を聞くヤマジの隣で、「こりゃひどい」とジンがこっそり涙したのは数知れない。
「だけどおかしなもんだな。これほど大きな藩の姫なら、縁師を雇うまでもなく勝手に縁談が降って沸いてきそうなもんだ。なんでオレらなんかにわざわざ」
 ジンが訝しげに振り返ると、ヤマジは「まぁ、事情は人それぞれって話さ」と言って苦笑した。
「御一新後は家格や石高だけで縁談がまとまるほど簡単な世の中じゃなくなっちまったからねぇ。我々庶民と違って、お大尽様方にも色々あるってところさ」
 珍しく歯切れの悪いヤマジの物言いに、ジンはピンとくるものがあった。「ははぁ」と顎を掻く。
「さてはその姫君、相当のブ……」
 言いかけたときだった。
「ぐ、お……!」
「滅多なことを言うんじゃないよ! アンタは瓢屋を潰したいのかい!?」
 ヤマジの右拳が目にも止まらぬ速さで、ジンの下腹に決まる。いわく「アタシらはもう敵の陣中に来てるんだ。どこで見張りが聞き耳を立てているか分かったもんじゃない」
 怖い顔でまくしたてるヤマジにジンは己の迂闊な発言を後悔する……より先に耐えがたい震えが再び全身を襲い始めた。
 よりにもよって、古伊万里よりも繊細な今のオレの下腹を殴るやつがいるか!
「く、そ……ヤマジ、てめぇ……」
「……って、ジン! お待ち、どこ行くんだい」
 畳の上に四つん這いに崩れたジンは呪詛の言葉を吐きながら、のろのろと廊下へ向かい犬歩きを始めた。
 ヤマジが慌ててジンの後ろ髪を引っ掴む。ジンはすぐにその手を振り払った。
「うるせぇ」
 ジンは低い声で唸る。額にはすでに脂汗が浮かび、ひくつく尻の穴はもう一刻の猶予も許してくれない。そのあまりの剣幕にヤマジが押し黙る。ここぞとばかりにジンは叫んだ。
「いいからオレを厠に行かせろ!」



 すぐに戻るから、と言って廊下に出たはいいものの、ジンは早速広い城の中で迷子になっていた。
 元来方向感覚のいいほうではない。行けども行けども似たような白い壁。鶯張りの廊下。延々と続く豪奢な襖絵も絵心のないジンにはどれも同じものに見えた。
 最初は迷ったらそこらの使用人に道を聞けばいいと軽く構えていた。だがジンの目論見はすぐに外れた。部屋を出てからというもの、先ほど部屋まで案内してくれた女中はおろか他の使用人とも一人もすれ違っていないのである。広い城の中はがらんとしていて、そもそもあまり多く使用人を雇っていないのか、よく見ると天井の梁や襖の陰に蜘蛛の巣が張っていた。
 そして何より奇妙なのは、城の構造であった。幾重にも曲がりくねった細い廊下、階下へ繋がる階段は細身のジン一人が降りるのがやっとで、それも壁の仕掛けを下ろさなければ使えない梯子階段であった。
(まるで忍者屋敷じゃねぇか……)
 そう結論づけたのは、何気なく凭れた壁がぐらりと揺れてジンの体ごと中へ一回転したときだ。本物の忍者屋敷になど行ったことはないが、吉原にも忍者屋敷を模した揚屋があるので、だいたいの内装やからくりは予想がつく。けれど、これほど手の込んだ忍者屋敷は初めてだ。城郭というものはいつ外敵に進入されても平気なよう、わざと迷いやすい造りにしてあるのだと聞いたことがある。けれどそれにしてもこれはやりすぎだ。
(オレは厠に行きたいだけなのに!!)
 ずんどこずんどこ、とリズミカルな蠕動を繰り返し痛む下腹を騙し騙しここまでやってきたが、ジンの便意はとうに限界を迎えていた。「うぅ」とよろけながら近くの柱に掴まる。
 どうして厠を探すだけでこんなに苦労をしなくてはいけないのか。
 と、そのとき、ひらひらと風に舞う梅の花びらがジンの鼻先を掠めた。見ると、荒れ放題の庭の中央に古い梅の木がぽつんと生えている。その根本。ぬかるんだ地面。そこに両手を広げた大きさほどの泥沼が見えた。
 ――しめた。
 ジンはきょろきょろと周囲を見渡し、人気がないことを確認すると、裸足のまま庭へ降りた。
 緊急事態だ。山中ならまだしも他人の屋敷の庭先で野糞をするのには若干の後ろめたさもあったが、この際、恥や外聞などに構っている場合ではない。
 泥沼の端に立ち、ごそごそと袴を下ろす。やっと。やっとこの苦悶から解放される。ジンは安堵のため息をついた。
 尻を突き出し沼の上に屈む。沼はどれほどの深さなのか分からないが、足の裏で踏んだ感触は柔らかい。ぷにぷにと温かな、まるで人肌のような――
(人肌……!?)
 ジンが違和感に視線を落とした瞬間だった。泥の中から何かが伸びてきて、素早くジンの足首に巻き付いた。
「ひっ!」
 もの凄い力だ。足首ごと沼の中に引きずり込まれる。ぎょっと目を剥くと、今度は泥の中からくぐもった声が聞こえた。
「……じゃ」
「え」
「誰じゃ、わらわの上に座っておるのは……!」
 続いて耳をつんざくような爆音。それが地鳴りと気づくのにしばしの時間がかかった。ゴゴゴ、と音を立てて庭の地面が揺れ始める。梅の木が倒れてジンの背後に転がった。
(な、なんだ……?)
 慌てて身を捩り、足首を沼から抜く。そのまま転がるようにジンは庭へ飛び出た。地震はなおも続いている。急に天候が悪くなったのか、空には鉛色の雲がひしめき始めていた。
「この無礼者めが」
 声はなおも聞こえる。沼の表面が不気味に盛り上がり、中から泥まみれの塊がジンを追ってきた。
「わらわの眠りを妨げた罪は重いぞ」
 再び足首を掴まれる。
(なんかぬめっとしてる――!!)
 そのなんとも言えない感触に、ジンは声にならない悲鳴をあげた。泥の塊は低い声で何かを呟きながら、なおもジンに迫ってくる。
「離せっ、この化け物が!」
 ジンはとっさに背に括りつけていた脇差しを抜いた。本来なら城にあがった際、案内役の女中に預けるべきものだが、特に何も言われなかったのでそのまま持ってきてしまった。それがまさかこんな形で役に立つとは。
 刀の切先を突きつけると、化け物は一瞬怯んだように大きく体を震わせた。化け物の体から次第に泥が流れ落ち、その下から淡い桜色の着物と青い髪が見えた。
(え……)
 ジンは己の目を疑った。突きつけた切先の向こう。涙をいっぱいに湛えた青い瞳と視線がかち合った。
(お、女の子……?)
 ジンは戸惑った。何度も瞬きをする。
「化け物と言うたな……」
 目の前の少女と思しき塊がぶるりと震え、白い肌から泥がぼたぼたとこぼれていく。ジンの足を掴む手に一層力が込められる。
「わらわは化け物ではない! ナマズじゃ! 鹿島のナマズ姫じゃ!」
 少女は叫び、火がついたように泣き始めた。それに呼応するように曇天に稲妻が走り、爆音とともに庭に落雷した。ちょうど先ほどジンが凭れた廊下の柱の上だ。火炎が立ち昇る。
(なんだこいつ……やべぇ……!)
 少女はなおも豪快に泣き続けている。助けを呼ぼうにも近くに人はいない。
 逃げようにも立っていられないほどの地震がジンの足元を掬う。
 ジンは脇差しを地面に突き立て、どうにか立ち上がった。どこでもいい。早くこの場から逃げなくては。殺される。この少女に殺される!
「ナマズ……!!」
 野太い声が飛んできたのは、ジンがようやく一歩を踏み出したときだった。大きな体に横薙ぎにされる。ジンは再び地面に転がった。
「何してるんだい、アンタは!」
 続いて、ヒステリックなヤマジの声。ああ、ヤマジだ。彫りの深い顔立ちにこれでもかと言うように青筋を浮かべ、ジンの元へ駆け寄ってくる。
 ヤマジとともに駆けつけたのは、墨染めの袈裟を着た坊主頭の男だった。泣き喚く少女の体を羽交い締めにして、必死に落ち着かせようとしている。ヤマジが耳元で「鹿島入道震斎」と教えてくれた。この城の城主だ。ということはつまり……
「おい、小僧」
 だいぶ地震が鎮まり、空が晴れてきたところで、少女を腕に男は振り返った。その手にはいつの間に抜かれたのか、すらりとした直刃の大刀。ぴたりとジンの額に当てられる。
「話は聞いたぞ」
 蛇も射殺さんばかりの鋭い視線がジンを正面から睨む。縦に派手な刀傷を負った隻眼だ。
 話? 話って何がだ?
「我が娘の寝込みを襲うとはいい度胸だ。覚悟しやがれ。刀の錆にしてくれるわ」
「わーっ!」
 問答無用で降り下ろされる刀に、ジンの便意はすっかり吹き飛んでしまった。