雷神とナマズ姫

1.

「号外! 号外! 江戸でまた大火だよ!」
 買い物客で賑わう鹿島の城下町。西の外れの辰の市。昼下がりの眠気を振り払うような読売の声を耳の遠くで聞いたのは、少年が今まさに敵にとどめの一撃を加えんとするときだった。
 腰を低く落とし敵を大きく跨いだ状態で、幾度目とも分からぬ深い息を吸う。額にびっしりとかいた脂汗は頬を伝い、いまや少年の着物の襟までも濡らしていた。
(ちくしょう……あと少し……あと少しなのに、なんで)
 少年は固く目を瞑り、奥歯を噛み締めた。己の限界に挑み続けること小四半刻。ぶるぶると震える足を叱咤し、少年は一畳にも満たぬ薄暗い部屋で孤独な戦いを続けていた。
「地震雷火事親父、相次ぐ天災に人殺し。さては神の怒りかこの世の終わりか」
(この世の終わりはオレの尻だよ!)
 陽気な読売の口上に突っ込むやいなや、再び強烈な波が少年の腹を襲った。「ぐ…」と低く呻き、前のめりに倒れかける。少年の足元にはぽっかりと口を開けた黒い穴。数多の旅客の糞便を吸い込んだ魔境への入り口である。
(ふざけてんじゃねぇっての)
 少年は荒い呼吸を繰り返しながら、精一杯の悪態をついた。咄嗟に便器に手をついたおかげで、どうにか糞溜まりの中へ顔面直撃という恐怖からは逃れることができたが、事態はなおも切迫していた。
(くそ……また……)
 下腹が蠢き、耐え難い便意が少年の全身を襲う。そのたびに切り裂けそうな痛みが尻の狭間に走るのだ。江戸からはるばるこんな田舎くんだりまでやってきて、美味いものを食べることもなく宿場の美女と遊ぶでもなく、こんな市場の外れの掘っ立て小屋のような厠で切れ痔の恐怖に襲われるだなんてたまったものではない。
「今年の吉凶は鹿島の事触れにあり。まずはこちらの幣帛をご覧なすってご安心召されよ。今なら一体六十文から……」
「ぬ、ぐ……お、お、お……!」
 読売が商売気を出してきたところで、少年は震える両膝を抱え低い声でいきんだ。
 あと少し、あと少しで楽になれる。と、ふいに突風が厠に吹き荒れた。
(――何だ?)
 顔を上げると、格子で囲われた採光窓からバサバサと何かが降ってきた。大量の紙だ。紙面に踊る『号外』の文字。少年の頭上へひらひらと舞い落ちてくる。しかし、確認するより早く、再び突風が少年の顔面を襲い、紙は扉の向こう側へと吹き飛ばされてしまった。
「地鳴り、冠水、相次ぐ不審火に連続殺人……ね」
 聞こえたのは気だるげな声だった。
「アタシらが留守にしている間に江戸も随分と物騒になったもんだ」
 続いて気の抜けた大あくび。扉の向こう側から白い手首を伸ばしてきたのは少年とともに江戸から旅をしてきた連れだ。おおかたこの風も連れが起こしたものだろうと推測をつける。右手に瓦版を持っているのが見えた。外の通りで読売が配っていたものに違いない。
「聞いてんのかい、ジン」
「うるせぇ、今話しかけんな」
 名を呼ばれるも、目下便意と格闘中の少年――ジンは、連れに見えぬと知りつつしっかり歯茎を剥いた。生憎今は暢気な世間話に付き合ってやる心のゆとりはない。
「江戸で放火が起きてるんだってさ。瓢屋は大丈夫かね。一応、しっかり戸締りはして出てきたけれど」
「オレとしては燃えてくれたほうが有り難いんだがね」
「なんてことを言うんだいこの子は。罰当たりだね」
「うるせぇ! 今オレはそれどころじゃねぇんだよ!」
 ジンは吠えた。江戸の放火事情よりも今は自分の尻事情である。それぐらい分かれよ馬鹿野郎!
「まったくだらしのない……」
 すると、扉の外から盛大な溜め息。
「おい、ジン。いつまでかかるんだい。せっかく上等な着物を新調したんだ。糞のにおいなんかつけないでおくれよ」
「無理言うな」ジンはにべもなく答えた。「これはお前が勝手に買ってきたんだろ。オレはこんなもの用意してくれなんて一言も言ってない」
「何言ってるんだい。この仕事は第一印象が大事だっていつも言っているだろう。最初の印象で安く見くびられぬよう、一流の縁師はお客の家格に合わせてそれなりの格好をしてくものさ」
 何度も言っただろう? と呆れた声が聞こえる。
 何が一流だ。お前はただの着道楽じゃねぇか! 言いたいことは沢山あったが、そんな叫びは再び襲ってきた便意の波に飲まれてしまった。
 ちなみに縁師とは男女の縁を取り持つお節介屋のようなもので、これを生業にしている者は江戸広しと言え、ジンの相棒の他にはいない。最初は本業の髪結いの傍ら始めた新たな商売だった。しかしこれが予想外に当たり、口コミで広まった評判のおかげでいまや江戸の街で瓢屋の名前を知らぬ者はいない。
「それにしても急に腹を下すなんて。そんなにここの水が合わなかったのかい」
「悪かったな。根っからの都会育ちなもんでね」
「嘘をお言いよ。アタシが拾う前は、どこの野っ原で生きてたのかも分からない野生動物だったじゃないか」
「ヤマジ! お前な!」
 思い出したくもない過去をつつかれ、ジンはたまらず扉を蹴り破った。三白眼できつく睨み上げるも、自称・縁師の連れ――ヤマジはやっと出てきたとばかりに形の良い唇を吊り上げ微笑む。その顔にジンはまんまとヤマジに乗せられてしまったことを知る。
「ああ、いやだいやだ。大きくなっても野蛮なところはちっとも変わってないねぇ。そうやってすぐ怒る」
「お前もその人を無駄にイラつかせる喋り方はちっとも変わってねぇよな」
「嫌だねぇ、ジン限定だよ。お客の前ではちゃんとするよ。これでも昔は吉原一の美人太夫だってアタシを見に江戸中から男が集まったもんだ」
「ああ、知ってるよ。お前の外面のよさは間違いなく日渡一だ」
「アハハ、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。分かっているなら」
 ひとしきり笑った後、ヤマジはすっと切れ長の双眸を細めた。と、次の瞬間、ジンの耳元にひゅっと風の切る音が聞こえた。次いで、ガラガラと崩れる壁の音。毛先が切り落とされ、ひらりと宙に舞った。ジンの黄色い前髪のそこだけ黒くなっている部分だ。
 目の前には、大きく右足を掲げ半回転して元の位置へ戻るヤマジの姿。一瞬にして厠であった場所を粉塵の山へと変えたヤマジはジンを正面から見据え、背筋も凍りつくような低い声で命じた。
「早くおし。アタシは役立たずを連れていくつもりはないよ」
「くそっ……」
 ジンはのろのろと体を起こした。まだ腹の調子は心許なかったが、これ以上ヤマジを待たせ怒りを増幅させてはこの街自体が破壊されかねない。
 その昔、天女もかくやと謳われた吉原一の美貌はそのまま、腰まで伸びた銀髪を後ろで無造作に結い上げ、派手な色調の袷ばかり何枚も重ねたその出で立ちは、長身も相俟って良くも悪くも見る者の目を引く。
 ただしそれは黙っていれば――の話だ。
「ジン」
 名を呼ばれ顔を上げると、ヤマジはうっとうしげに眉寄せ、長く研いだ爪の先を自分に向けていた。
「いつまでも汚いもの出してるんじゃないよ。さっさとお仕舞い」
「うおっ……!」
 視線でヤマジの指先を辿ると、袴の腰板が太腿の裏にぶら下がっていることに気づいた。慌てて袴をずり上げ前で帯を締める。危うく尻を丸出しにしたまま外に出るところだった。
「まったく先が思いやられるねぇ。今日のご依頼主は滅多にない上客だ。くれぐれも粗相はしないでおくれよ」
 ヤマジが何度目とも分からぬ溜め息をつく。
「それは腹の調子に聞いてくれ」
 ジンは苦々しく答えながら、ヤマジに預けていた刀を受け取った。護身用の脇差だ。背中に紐でくくりつけ、上体を屈め解れた脚袢を手早く直す。ヤマジはもう出口に差し掛かっている。ジンは慌てて行李を背負い、自分よりも上背のあるヤマジの後ろ姿を追った。
「おっと」
 耳障りなだみ声が聞こえたのはそのときだった。ヤマジの肩の向こうに山賊のように濃い髭を生やした浪人の姿が見える。茶色く煤けた着物はひどく醜悪な臭いを放っている。男は入れ違いにヤマジにぶつかった肩を押さえ、胡乱な視線を上げる。しかし、すぐにその双眸は驚愕に見開かれた。
「おっ、女!? なんで」
「あらいやだ」
 ヤマジが口許に手を当てる。まるで、今初めて気づいたとでもいわんばかりの反応だ。
「ごめんなさいねぇ、男前なお侍さん。まさかこんなところで出会っちまうなんてねぇ」
 ヤマジはいかにも可笑しそうに笑いながら浪人の肩に手をつく。甘えるようにしなだれ男の目を覗き込むと、男は一瞬にして黙りこくった。上下する喉の動きが遠くからでもよく分かる。
「な、なんだ。ワシに何ぞ用か?」
 居丈高な言葉とは裏腹に浪人はすでにだらしなく頬を緩め始めている。ヤマジが自慢の胸をぐいぐいと押し付け、艶っぽく小首を傾げてみせたからだ。
「用って言うほどのものでもないんだけどね」ヤマジは呟き「これも何かの縁の尽き。どうか恨まないでおくれよ」と断わったうえで、右手を添え、男の耳元に吐息を吹きかけた。
「アタシのことは、忘れてちょうだいな」
 紅を引いた唇がゆっくりと蟲惑的に動く。甘やかな囁きに魂を奪われたのか、男は次第に瞼を落とし、十数える間もなく鼻頭から派手に厠の地面に沈んだ。
「おい、ヤマジ」
 ジンはすっかり地面に伸びてしまった男の禿げ頭を見下ろしながら、呆れた声を聞かせた。
「こんなところで『力』を使うのはやめろよ」
「どうしてだい? 美女のキスを受けて倒れるんだ。幸せなもんだろう?」
 しかし、ヤマジはそう言って取り合わない。
「今頃、天国で菩薩にでも会っているだろうよ。夢見心地とはまさにこのことだね。まったく感謝してほしいぐらいさ」
「美女って、お前な……」
「アタシが男の厠に出入りしてるなんて知られたら、女の沽券に関わるからね」
 ヤマジは薄く微笑み、玉厨子色の瞳を片方だけ瞑ってみせた。通常の男ならば一発で再起不能になると謳われたヤマジの流し目を正面から受けても、ジンは決して屈しなかった。屈しない、屈せない理由があったのだ。ジンは無言でヤマジの体を頭から爪先まで見つめた。
「なんだい? ジン」
 ヤマジが両手を払いながら訊いてくる。その顔は一仕事終えたとばかりに晴れやかなものであった。ジンは足元で転がる髭面の浪人に心底同情した。
(女、女って……)
 ジンはたまらず心の中で絶叫した。
(てめぇは男だろうが……!)
 例えば、さっき扉を蹴破ったときに緋襦袢の裾から覗いた褌の奇妙な盛り上がり。幼い頃に初めて一緒に銭湯に連れて行かれ見たヤマジのそれは、軽くジンの人生においてワーストワンのトラウマになっていた。
 しかし、目の前で上機嫌に鼻歌を歌うヤマジに今さらそれを突っ込めるほど、ジンは浅慮でも気丈でもなかった。ぐっと堪え、ヤマジの後に続き厠を後にする。途端に眩しい陽の光がジンの額を容赦なく襲った。
「で、何者なんだよ、今日の客ってのは。前金で二十両も出すなんて尋常じゃねぇぞ」
 気分を入れ替え、青空の下を高下駄で揚々と歩くヤマジの隣に並ぶ。
「鹿島入道震斎。前皇帝・雷舜雅の実弟にして、ここ鹿島の国の藩主さ」
「ほぉ」
 その名前ならばジンも聞いたことがあった。十五年前の革命を成功へと導いた剣の腕の誉れ高き傑物だ。しかし今はあらゆる官職を蹴り、領地である鹿島で細々と暮らしていると聞く。
 それにしても、そんなお大尽様が自分達のようなぽっと出の縁結び屋に仕事を依頼してくるだなんて一体どんな風の吹き回しか。
「で?」
 ジンは鼻をほじりながら訊いた。縁師の仕事にも依頼主の素性にもさして興味はないが、ヤマジがどんなあくどい手を使ったのかだけは気になった。
「そんなすごいお殿様をどこで口説き落としてきた?」
 おおかた花街か本業の髪結いの仕事先での話か。多少話を誇張して客を掴むのは商売の基本であるが、この美貌の性悪オカマの場合常識というものが通用しない。今後も目立たず恨まれず至極真っ当に生きていきたいと望むジンにとって、こんなところで警邏隊に捕まるのは本意でなかった。
「どうせあることないこと吹き込んできやがったんだろう。え? 今度は何て言って騙してきやがったんだ」
 眩しい日差しに目を細め、隣を振り仰ぐと、
「……内緒」
 と言って、美貌のオカマは人差し指を唇に当て、たおやかに微笑んだ。