雷神とナマズ姫

序.

 幾多の燭台が照らす円陣の中央で、緋色の袴を着た少女が鈴の音に合わせて踊っていた。肩まで伸びた赤い髪が炎に揺らめき、少女の背後に高くそびえるガラス張りの円柱に影を映す。
 少女を取り囲うように四方に控えるのは神祇官。皆一様に顔の前に白い布を垂らし、少女の舞に合わせ雅楽を奏でる。
 男は、その調べの中に混ざる異音に気づき、伏せていた顔を上げた。音は踊り続ける少女の先。円柱状の水槽の中から聞こえた。
 それは水中に投げ込まれた太い酸素チューブから聞こえる音だけではない。神祇官の祝詞に合わせ少女の指先に火が灯る。その途端、ガラスの壁面に小さな亀裂が走った、その音であった。
「陛下をこちらに」
 男は円陣に向かい恭しく膝を折ったまま、背後に控える部下に命じた。すぐに男と同じ軍服に身を包んだ若い将校が、慎重に男の元まで車椅子を押してきた。車椅子の上には、亜麻色の髪をしたまだあどけない顔立ちを残した少年。不安げな表情で男を見つめている。
「ご心配召されますな陛下。これは我が国が能源を取り戻すために必要な儀式。龍神は古来より最強のバイオマスとされております。今一度目覚めさせることで我が国は半永久的な国力を得ることができましょう」
 男は言い、部下に替わり少年の車椅子を円陣の中央にまで進めた。
「準備は良いか、ヒムカ」
 その問いに赤い髪の少女は頷き、白い千早をふわりと広げその場に屈んだ。炎を宿した両手で円陣に直接触れ、口の中で呪文の詠唱を始める。
「陛下、御手を」
 男は腰の短剣を抜き少年の掌を取った。男を見上げる少年の目は怯えているようで、でもどこか落ち着き払っているような、不思議な光彩を湛えていた。
「失礼致します」
 男は断り、己が主の掌に剣の刃先で小さな傷を作った。少年の手を高く掲げ、赤く光り始めた円陣の上へ血を垂らす。
「ここに雷神と契約せし、正当なる後継の血潮を捧げ奉る。古の導となりて黄泉への道を開かん」
 淡々と言葉を継ぐ男の足下で、少女の手から放たれた炎が渦を巻き、みるみるうちに形を変えていく。現れたのは双頭の炎蛇だった。
 赤髪の少女が男を見上げる。男が頷くのと同時、炎蛇は激しく咆哮し、真っ逆さまに円陣を突き破り、石床の中へ飲み込まれていった。
 その動きに合わせ、男は少年の血を吸わせた剣先を鋭くその場に突き立てる。
「目覚めよ、照葉(てるは)」
 次の瞬間、切り裂いた円陣の中央から瀑布のように火柱が立ち上った。ものすごい熱風と地鳴りが儀式の間を襲う。
「陛下!」
 男は咄嗟に少年の体を抱き上げた。みるみるうちに床石が砕け、辺りを立ってもいられないほどの地震が襲う。
 天井まで昇った火柱の中では、螺旋状に胴体を歪め激しくのた打ち回る黒い巨体。尖った爪に金色の鋭い牙。炎に焼かれ苦しみ呻く咆哮はびりびりと耳をつんざき、聞く者の心臓を萎縮させる。現れたのは、ところどころ青い鱗の剥げ落ちた巨きな龍だった。
「要石を持て! 能源(のうげん)の中に取り押さえろ!」
 男は神祇官達に命じた。すぐに三方に載せられた青い水晶が水槽の配電盤の下部にはめこまれる。途端に水が緑色に変わり、床に散らばる大量のコード類が生き物のように龍に襲い掛かった。しかし、それらは目的のものにたどりつくことなく霧散。龍が口から黒煙を吐いたためだ。すべてを溶かす濃硝酸の毒煙。
「馬鹿な……なぜ効かぬ」
 男は低く呻いた。龍の金色に光る双眸が男を正面から見据える。しかし、すぐに興味を失ったのか、龍は火柱を纏ったまま男の上空を飛び回り、狂ったように吹き抜けに体を叩きつけ始めた。
『……し、さ……ま……』
 龍の口から呻くような声が洩れる。だが、古の言語で綴られた難解な発音を正確に聞き取れる者はその場にはいなかった。龍の胴身が青く光り始める。眩い光に男は目を覆った。
 そして、今再びのけたたましい咆哮。
『……いま、……いに、……きます……』
 次に見上げると、龍は天井を突き破り黒檀の空へとみるみるうちに昇っていくところであった。
「追え! ヒムカ!」
 男はすぐに傍らの少女へ命じた。少女は炎蛇に乗り、瞬く間に空へと舞い上がる。
 轟音を立て鳴り続ける大地震。少女の飛び立った先から火の粉が散り江戸の街に火をつける。けれど今はそんなことに構っていられる余裕はなかった。
「鳳徳(ほうとく)様……」
 軍服を着た部下と神祇官達がおろおろと男の周りを取り囲み始める。
「案ずるな。龍神はあくまで雷神を呼び起こすための餌――この手で捕らえられぬのなら、雷神祭の準備を早めるだけのこと」
 冷静な男の言葉に、周囲に安堵の色が広がる。
 鉄塔の最上部に築いた儀式の間から見下ろした景色は紅色。燃え盛る江戸の街を眼下に、男は腕に抱いた少年へ恭しく頭を垂れた。
「陛下、今しばらくご辛抱頂けますか?」
 少年が乏しい表情で頷く。それを合図に男は長いマントを翻し、地鳴りの続く儀式の間を後にした。