雷神とナマズ姫

12.

 壁面を凄まじい勢いで駆け上がる炎に、ジンは素早く四足で柱を蹴った。空中で身を捻り、鋭く尖った爪をヒムカの前で一閃。だが、ヒムカを捉えるより先に炎蛇に噛み付かれる。ジンは右腕を激しく振り払い、乱回転しながら床に着地。乱れる息を整え必死に考える。どうすればいい。どうすれば、傷つけずにヒムカを止められる?
「ジン!」
 耳の遠くでヤマジの叫ぶ声。ジンは四方から降り注ぐ焔玉の雨を避け、再びヒムカに向かい突進した。後ろからヤマジが援護してくれたのか、巻き上がる風がジンの体を空中に突き上げる。長く滞空したまま今度は正確に狙いを定めヒムカの炎を切り裂く。執拗に纏わりつく炎蛇の首を噛み切り、ジンは咆哮した。
「うぐぉおおおおおおおおお!!」
 全身の毛を逆立て頭を振り乱す。あんなに痛んでいたのが嘘のように、完全変化を遂げた今ジンの頭はすっきりと冴え渡っていた。久方ぶりの力の解放に細胞が喜び、どくどくと激しく鼓動が脈打つ。迷わず目の前の白い肌に牙を剥いた。ヒムカの瞳が驚愕に見開かれる。咄嗟に身を翻すも間に合わない。
 ジンの牙が血飛沫の中に食い込む。それも束の間、ヒムカはジンに最大級の焔玉を放つと天井の梁から真っ逆さまに落下。爆音とともに床に大きな穴を作った。
「ヒムカ!」
 すぐにヤマジが駆け寄る。だが、ジンはヤマジもろとも前脚の爪で目の前の瓦礫を薙ぎ払った。せっかく獲物を床へ落としたのだ。邪魔はさせない。
「ジン……?」
 ヤマジが両目を見開く。その隣を猛スピードで駆け抜け、ジンは仰向けに倒れた少女の手足を四肢で押さえつけた。砂塵の舞い散る中でヒムカがうっすらと瞳を開ける。赤い瞳の中に映ったケダモノは尖った牙の狭間から涎を垂らし、低い唸り声をあげている。
(何だ……?)
 ジンは戸惑った。体が言うことを聞かない。頭は冴え冴えと澄み渡っているのに、血の味を口にした瞬間体が勝手に動き出し、まるでジンの言うことを聞かなくなっていた。
(何だ……? 誰だ……この声……オレの声?)
 体の奥から湧き上がる凶暴な声が「殺せ殺せ」とジンの頭の中でひっきりなしに反響する。ぐらぐらと視界が揺れ、ジンの体の周りをバチバチと火花が舞う。黒い体が電流を帯び始めたのだ。
「ぐっ……っあ! おああ!」
 右手を突き動かすのは堪えきれぬ破壊衝動。ジンは訳も分からず足元に組み敷いた肉塊を鉤爪で何度も抉った。温かな血潮が頬に飛ぶ。ヤマジが慌ててジンの背を羽交い絞めにしてきた。
「おやめ、ジン……! もう十分だ。これ以上は」
「どけ、ヤマジ」
 だがジンはヤマジを乱暴に突き飛ばし、獲物を前に爛々と目を光らせた。そして再び、四足で地面を蹴り大きく咆哮する。
「ジンっ!」
 と、目の前にはだかったのは両手を広げたヤマジの体だった。大きく振り出したジンの右腕が生温かい肉を突き破る。耳の後ろでゴフッと血を吐き戻す音。
 ジンは恐る恐る目線を上げた。ヒムカを背に庇い、ヤマジの体が正面から重く押し被さってくる。そんな馬鹿な。
「どうしてだ、ヤマジ……どうして」
 ジンはヤマジの腹を貫いたままの右腕を引き抜くこともできず、ただ驚愕に両目を見開いた。
「そいつは敵だ。オレ達を襲って……」
「けれど、妹だ。アタシの大事な妹なんだよ」
 ヤマジが耳元で苦しげに呻く。
「操られているというのなら目覚めさせる。それでも、どうしても呪いが解けないようなら……アタシが殺すよ」
 ヤマジが喋るたびにジンの右腕におびただしい量の血が流れてくる。ジンは怖くなって、素早く腕を引き抜いた。衝撃にヤマジはまた口から血を吐いた。ぐったりとジンの肩に凭れかかる。
「……いつだって手を汚すのはアタシの仕事だ……アンタになんか譲らないよ」
「ヤマジ……」
 銀色の髪がジンの胸を滑っていく。ジンは混乱した。体中の血が沸騰しそうなほどに熱くざわめく。そんな嘘だ嘘だ嘘だ――
「……あ、あ……ぁ……ヤマジ! ヤマジヤマジ!」
 体表に疾る電流がビリビリと発火し、轟音とともに瀑布となって一気に天井を突き破る。立ち込めた暗雲に呼応し、太い稲妻がジンの頭上を滝のように襲う。
「結」
 空を切る冷涼な声が聞こえたのはそのときだった。
「――禮、闢、劫、仁、撥、解、絶!」
 短い呪言とともに、ジンの体を襲っていた稲妻が二つに割れみるみるうちに消滅していく。
 闇色の雲の狭間から青い龍に乗って現れたのは、両手で印を組む墨袈裟姿の男だった。左手に持った数珠を引き寄せ、ジンに元にゆっくりと降りてくる。
「……ったく、力に飲まれおって。この糞ガキが」
「……震、斎……」
 ジンはハァハァと荒く肩で息をしながら、見覚えのある坊主頭を視界に収めた。ただし一体どうしたものか、震斎の体は龍から降りたあともまるで重力を失ったようにふわふわと宙に浮き、向こう側の壁を透かして映す。
「稲妻一つまともに操れぬくせに何が雷獣だ。笑わせる」
 しかし、震斎はいつもと変わらぬ調子でフンとジンを睥睨し、おもむろにその手に持った剣をジンに投げてきた。黒呂仕上げの陣太刀だ。ただし長さが半端ではない。
「武甕槌剣だ。今しばらくだけ、ワシの宝を貸してやる」
 震斎は言うと、「抜け」とジンに眼力で無言の圧力。ジンは床から刀を拾い、両手で固い鞘の鯉口を切った。
 瞬間、黄金色の疾風が一気にジンの体を駆け抜けていった。
 暗い洞窟。祭壇に掲げられた盃。供物。泣き叫ぶ赤子を腕に抱き頭を垂れる二人の青年の姿。その前で、青い髪をなびかせ巫女が舞い踊る。鈴の音。祝詞が高まるにつれ、激しく揺れ始める注連縄。大きな岩。足元から湧き上がった黒い蟲が辺り一面を覆い尽くす――
(何だっ……これ)
 剣を握った途端、脳裏に幾つもの映像が洪水のように溢れた。次々と浮かんでは消えていく古写真のように色褪せたそれは――
 金色の芒のなびく河原でヤマジが笑っている。
 ――それはかつて自分が見た記憶に違いなかった。
『……らわ、を……』
 そのとき、かすかに聞こえた声にジンははっと顔を上げた。派手に崩れた能源塔のむき出しになった鉄骨がカタカタと静かに震え始める。
(この揺れは……?)
 胸騒ぎを覚え、ジンは剣をきつく握り締めた。耳元で聞こえる声はよく大きく鮮明になっていく。
『……らわを、えて良いのはこの世でただ一人、雷神様だけじゃ!』
 次の瞬間、足元を突き崩すような大きな揺れが江戸の街を襲った。轟音とともに大地を揺るがす大地震。ジンは咄嗟に東の空を仰ぎ見た。今聞こえたこの声は――自分を呼び、泣き叫ぶこの声は――
「ナマズを泣かせたのはどこのどいつだ……!」
 ジンは激怒し、刀の柄を支えに大きくひび割れる床石の上にどうにか立ち上がった。
 耳元ではなおもわんわんと泣き喚く声が響き続けている。
「もうそなたには分かるはずです。ナマズがどこにいるか、そなたを求めて泣いている声が聞こえるでしょう」
 凛とした声に振り向くと、震斎の後ろにナマズと同じ青い髪をした女が東の空を指差しジンに微笑みかけていた。その透き通る白い肌はとうに彼女がこの世の者ではない証だ。そして震斎も恐らく――
「ジン。乗っていきな」
「ヤマジ……」
 ふわりとした風がジンの足元を浮かす。見ると、ヤマジが息を吹きかけ、ジンの足に韋駄天をつけてくれていた。その顔は苦しげだが、ヤマジは「アタシは大丈夫」と言って聞かない。
「風神ヤマジを舐めんじゃないよ」
「お前な……」
 言いたいことは山ほどあったが、その場は「案ずるな。あとは照葉に任せておけ」と言って震斎が引き取った。
「すぐに追う」
 震斎が頷く。背を押されるがまま、ジンはすべての雑念を振り払い、一路能源塔から闇空の上へと飛び上がっていった。



 不思議と温かな青い光に包まれ、ヤマジは閉じかけていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
 見えたのは雪のように白く透き通る肌。腰まで届く青い髪を山裾のよう広げ、女はヤマジの目覚めに気づくと優しく微笑んだ。
「アンタは……」
 ヤマジは霞む視界の中、女を見上げた。女の掌のかざされた部分から徐々に痛みが和らいでいく。静かに微笑む頬に浮いた白い鱗。ヤマジはその面差しに見覚えがあった。
 女が着物の裾を払い立ち上がる。そして優美な声で一鳴きすると、瞬く間に龍の姿に戻り空へ昇って行った。
「ありがとう、照葉――」
 ヤマジは呟き、未だ夢見心地の中、どうにか肘を使い上体を僅かに起こす。照葉に治癒された腹の傷は血を止めていたが、損傷した臓器のダメージまで完全に拭い去ることはできなかったようだ。
 あとは自然の生命力に任せるのみだ――。
 ヤマジは床を這い、少し離れた場所で横向きになって眠る妹の元へと向かった。ヒムカも同様に照葉の治癒を受けたのか、あれほど激しく全身に散らばった裂傷は跡形もなく消えている。ただし、とうに炎は使い尽くしたのかその顔は紙のように白く、揺らした肩から伝わる体温は低く冷え渡っていた。
「ヒムカ……ヒムカ」
 ヤマジが呼びかけると、しばらくしてヒムカはうっすらと目を見開いた。そしてヤマジの姿を認めると、掠れる小さな声で呟いた。
「ねえ、さま……?」
「アタシが分かるかい?」
 ヤマジは胸を詰まらせた。ヒムカの赤い瞳はぼんやりとではあるが、今度は確実にヤマジの姿をその虹彩の中に捉えている。
「遅くなってしまって、すまなかったね」
 ヤマジはヒムカの体をきつく抱き寄せた。泥だらけになった体も厭わず、自分の胸に妹を力いっぱいに抱きしめる。
「本当はもっと早くアンタを迎えに来たかった……。どんなに生活が苦しくとも、早くあの男からアンタを奪い返すべきだった。アンタがこんな目に遭ってるだなんて知っていたらもっと早く……遅くなってしまって……ごめんねヒムカ」
 みっともなく垂れる鼻を啜ることもなく、ヤマジはヒムカの肩に深く顔を埋めた。
 ヒムカを手放したのは、ヒムカを花街の人間として育てたくはなかったからだ。能源塔から解放された十五年前のあの日以来――、ヤマジが得たのは自由という大義名分のもとの変わらぬ檻だった。『力』を隠しただの人間として生きる。誰に身寄りがあるわけでもない子供にとって、そう簡単に手に職をつけることは難しいことであった。幼いヒムカを連れ、日渡の国中を流浪する日々。最後に辿り着いた花街で、ヤマジは自分を売った身上金を持ち、旧知の男の住む屋敷の門を叩いた。
 ――必ずすぐに迎えに来るからと約束して。
「なに言うてはるの?」
 ヒムカが不思議そうに首を傾げる。
「ウチ、鳳徳とおれて、うんと幸せやったよ」
 ヒムカはヤマジの腕の中でうっとりと目を細める。
「ウチの周りからみぃんないなくなった。父様も母様も姉様も……鳳徳以外、みぃんなおらんくなった」
 それは違う。ヤマジは歯を食い縛り、必死に首を振った。吉原で芸事に磨きをかけ、太夫にまで上り詰めた。ようやく生活に余裕が生まれいざヒムカを迎えに行くも鳳徳が頑としてヒム
 カを手放そうとしなかったのだ。何度も強引に奪い返そうとした。けれどそのたびにヒムカの命を楯に取られ、ヤマジは鳳徳に逆らうことができなくなっていった。
「鳳徳だけが、ウチに笑ってくれた。ウチを怖がらずに話しかけてくれた。化け物憑きやって後ろ指ささんと、ウチに生きる場所を与えてくれたんや」
 ヒムカが儚げに微笑む。
「アタシがいるよ」
 ヤマジはたまらずヒムカの体をさらに強く抱き締めた。そんなまやかしの幸せなんかではない。この折れそうに細い体に秘めた寂しさも愛しさも全部ひっくるめて本当の幸せを教えてやりたいと切にも願った。
「今日からはアタシがいるよ。鳳徳からアンタを取り戻す。これからはずっと、ずっと一緒だ。アンタを一人になんかさせない」
 ぱたぱたと頬を伝う涙を、ヒムカが不思議そうな顔をして拭ってくる。指先についた涙を「綺麗やなぁ」と言って、ヒムカは宙にかざす。
 その手首を取り、ヤマジは強く頷いた。
「行こう」
 このままでは終われない。すべての因縁に決着をつけて、新たな幕開けを。
 そして笑って帰るのだ。皆で一緒に。古ぼけた陽だまりの香る、瓢屋へ――