棒人間は愛を乞う
4.
よく晴れた冬の昼下がり。携帯電話が震える音で、河辺はパソコンのキーを打っていた手を止めた。オフィスはちょうど昼の休憩時間で、人影はまばらだった。
画面を開くと、件名のないメールが一通届いていた。
「今夜は来てくれますか?」
河辺は憂鬱な気持ちで携帯を閉じた。差出人のアドレスは登録していないが、こんなメールを送ってくる心当たりは一人しかいない。隣の島をちらりと見る。槌木は何食わぬ顔をしてパソコンのキーを叩いていた。
社内メール宛に私用メールを飛ばされ続けるのが嫌になって、渋々携帯の連絡先を槌木に教えたのは先月のことだ。
以来、週末が近づくと槌木は決まって誘いのメールを送ってよこすようになった。
拒むと「写真をメールに添付して会社にばらまく」と脅された。何の写真かは聞くまでもなかった。これは脅迫だと何度訴えても、
「そうでも言わないと、あなた来てくれないじゃないですか」
と言って、槌木は悪びれた様子も見せずに笑う。
「俺はあなたに『理由』をあげているんです。俺に抱かれる『理由』を。そのほうが気が楽でしょう?」
肩を掴まれ、耳元で囁かれる。河辺はぐっと息を呑んだ。
「……君は卑怯だ」
逃げられない。蛇のような目で狡猾に自分を嘗め回す男の視線から、逃れられない。
「卑怯なのはお互い様でしょう? あなたも俺の体を使って楽しんでいるくせに」
顎を掴まれ、キスをされる。そうして、いつもなし崩し的に抱かれた。
こんな関係がいつまでも続くのは、よくない。間違っている。わかっているのに、槌木から届くメールの呼び出しに河辺はどうしても逆らえなかった。
その日はめずらしく仕事が早く終わり、七時過ぎに会社を出ると、最寄駅の改札で槌木が待っていた。
ごった返す人ごみの中でも一つ飛びぬけて高い頭。品のいい細身のスーツはよく似合っていて、白い肌と清潔感の溢れる黒髪から滲み出る雰囲気が、男の人となりを優しく見せる。顔は平凡だが、仕事もできて支社から栄転してきたばかりの出世頭だ。女にもてないというわけでもないだろう。それなのに、どうして自分なんかに付きまとうのか。
「河辺さん!」
改札へ近づくと、河辺に気づいた槌木が大きく手を振った。主人を見つけた犬のように駆け寄ってくる。それを疲れた視線で見あげ、河辺は鞄の持ち手をぎゅっと握った。
「もうこれっきりにしてほしい」
小声で呟く。
「何言ってるんですか。どうせ今日も奥さんは留守なんでしょう。夜ご飯ぐらい付き合ってくれてもいいじゃないですか」
槌木には千恵の母親が病気で、しばらく実家に帰っているのだと嘘をついて伝えてあった。
槌木が隣に並ぶ。槌木は河辺より十センチほど背が高い。自然と見あげる形になる。
「俺、一人暮らしなんですよ。家に帰っても適当にコンビニ飯かカップラーメンを啜るぐらいなんで、外で食べれると楽なんです。河辺さんも今、お一人なら似たようなもんでしょう?」
「私は自分で作るようにしているから」
「へぇ。自炊するんですか? いいなぁ。河辺さんの手料理、食べてみたいな」
槌木がにこりと笑う。そして腕時計を見て、「今日はどこへ行きましょうか」と尋ねられる。
「何か食べたいものはありますか?」
「いや……」
「どこか適当に近くの居酒屋でも入りますか?」
しばらく考えて河辺は首を横に振った。会社の最寄駅付近は駄目だ。たいして親しくもないのに、槌木と二人で飲んでいるところを会社の人間に見られたくなかった。
「騒がしいところは苦手なんだ」
「そうなんですか」
ぽつりとこぼすと、槌木は気にした様子もなくさらりとこんなことを提案してきた。
「じゃあ、うちに来ますか?」
肩に触れられ、びくりと心臓が飛びあがった。自分でも過剰反応だということはわかっている。でも、一人で槌木の家に行くというのは危険なような気がした。まるで、「それ」だけが目的で家を訪ねるようなものだ。
河辺が答えられないでいると、槌木は少し困ったように笑った。
「亀(かめ)口(ぐち)の大吟醸があるんですけど。一人ではとても飲みきれなくて」
それが自分を家に誘う口実だとわかっていても、縋るように自分を見つめる槌木の視線に耐えられなくて、河辺は俯くことしかできなかった。
「河辺さん、日本酒好きでしょう? いつも金沢に出張にくるとき、買って帰ってましたもんね」
「どうして知ってるんだ」
「知ってますよ。あなたのことなら全部ね。俺がどれだけ長いこと、あなたを見続けていたと思っているんですか」
槌木の笑顔に返す言葉がなかった。
結局、ほかに行きたい場所も提案できなくて、流されるまま槌木のアパートに連れていかれた。槌木のアパートは会社から一時間ほどの、河辺の家の最寄駅と同じ場所にあった。どうしてもっと会社に近い場所に住まないのかと尋ねると、「出向者向けの借り上げ社宅で、家賃が一万五千円で住めるんですよ」と槌木はそんなことを教えてくれた。
槌木が台所で酒の用意をしている隙を見計らって、河辺は千恵に今日は遅くなることをメールした。少し考えて、「もしかしたら泊まることになるかもしれない」と付け加えた。
酒は好きだが、そこまで強くもない。ビールや酎ハイぐらいなら大丈夫だが、度数の強い日本酒を飲むと、派手に酔ってしまう。学生時代は友人の家でそのまま昏倒してしまうことも多々あった。
けれど、飲まなきゃやっていられなかった。槌木が一升瓶と簡単なつまみを手に台所から戻ってくる。河辺は慌てて携帯をしまった。ローテーブルを挟んで、槌木と二人きりで顔を突き合わせて酒を飲む。槌木はしきりに何かを話しかけてきたが、河辺はろくに相槌すら打てなかった。緊張をごまかすため、いつもより早いピッチで酒を飲む。
「そんなに一気にいって大丈夫ですか?」
槌木が心配そうに声をかけてくる。河辺は「大丈夫だ」と見栄を張った。どうせこれからこの男とセックスをするのだ。素面な状態ではとても無理だった。
次第に意識が霞みはじめ、少しふわふわとした気分になってくると、槌木がキスをしてきた。舌を優しく吸われ、徐々に快感を引き出されていく。条件反射のように股間に熱が集まった。こればっかりはどうしようもなかった。
「したくなりましたか?」
河辺は頷いた。半ば自棄だった。どうせ拒んでも抱かれるのだったら、自分から求めたほうが幾分か気分がマシだった。
「可愛い」
曇った眼鏡を取られ、頬に口付けられる。
「お酒が入るといつもより素直になるのかな。すごく可愛い。好きです。河辺さん。……河辺さん」
槌木は河辺を抱きしめ、何度も啄ばむようなキスを贈ってくる。背中に腕を回すと、ひょいと荷物のように抱えあげられ、ベッドまで運ばれた。
「何かしてほしいことがあったら、教えてくださいね。俺、何でもしますから」
やわらかなスプリングの上に背中を下ろされ、丁寧な手つきで一つ一つシャツのボタンを外される。けれどすべてを脱いでしまえば、紳士的な態度からは一変、槌木はいつも激しく河辺の体を求めた。
槌木とのセックスは気持ちよかった。自分を愛していると公言してはばからない男は、河辺の手の先、足の爪先、腋の下から穴の襞までどこでも喜んで舐めた。ビデオで見たことはあっても、自分では一生することのないだろうと思っていた、獣のような体位をいくつもした。そのたびに河辺は絶頂を極め、意識を手放した。
その日も、河辺は気がつくと槌木の腕の中に抱き込まれていた。槌木は規則的な寝息を立てて眠っている。どれだけ嫌がっても、槌木はいつも河辺を抱きしめた格好のまま眠りたがった。温かな手は河辺の頭に置かれたままだ。眠りにつくまで飽きることなく自分の頭を撫でていたのだろう。
少し湿った温かい腕に抱きこまれ、とくとくと静かに鳴る槌木の鼓動を聞いているうちに、なんだか泣きたい気分になってきて、河辺は槌木を起こさないようにそっとベッドから抜け出た。床に散らばった服を拾い、身につける。暖房が効いているはずなのに、寒くて少し身震いがした。ベッドの上で眠る男をちらりと振り返る。
槌木は自分に恋人の情を求めている。一ヶ月に一回の夜だけでいいと言いながら、槌木に乞われるまま週に一回以上のペースで体を重ねている。槌木のためを思うなら、こんな中途半端な関係はもうやめなくてはいけない。いくら求められても、自分は槌木の気持ちに応えることができないのだという罪悪感に胸が苛まれた。
河辺は「今日は帰ります」と書置きを残して、槌木の家を出た。寒空の下、歩いて家に帰ると、めずらしく二階に明かりが点いていた。千恵が帰ってきたのだと思って、河辺は急いで鍵を取り出した。
扉を開けると、玄関に自分のものでない男物の靴が置いてあった。腕時計を見ると、もう十二時を回っている。誰か客が来ているにしても遅すぎる時間だ。「千恵」と名を呼んでも、二階から下りてくる気配はなかった。
河辺はコートも脱がず、階段をのぼった。もう眠ってしまっているのだとしても、一目千恵の顔が見たかった。千恵が帰ってきていることを確認したかった。
寝室を開けると、千恵の隣に誰かが眠っているのが見えた。見知らぬ男だった。
驚いて、河辺は床に鞄を落とした。その音に目覚めたのか、千恵はむくりと体を起こした。目を擦り、河辺を不思議そうに見つめる。
「あなた……今日は帰らないんじゃなかったの?」
千恵は特に焦ったり、慌てて男を匿ったりする素振りは見せなかった。千恵の寝巻きの胸元は大きく開かれて、小ぶりな乳房が覗いている。
河辺は弾かれたように踵を返し、階段を駆け下りた。千恵の隣で眠る男の肩は裸のようにも見えた。途端に何も考えられなくなって、河辺は外へ飛び出した。走って家から逃げる。浮気をしている千恵を目の当たりにしても、相手の男を殴ることも、千恵を責めることもできなかった。ただ、あの場所にいたくないと、そう思って逃げた。
自分が情けなかった。セックスレスの挙句に妻を寝取られた夫に、誰が同情してくれるというのだろう。
自分は本当に千恵を好きだったのだろうか。
付き合っていたときは、たしかに可愛いと思っていた。「好き」だと言われて悪い気分はしなかった。だから自分も好きなんだろうと思っていた。けれど、千恵が他の男と同衾しているのを見ても、嫉妬のような感情は湧きあがってこなかった。
わからなかった。恋が、わからなかった。自分が今まで千恵に抱いていた気持ちは一体何だったのだろうか。
そのまま、家に帰ることもできなくて、河辺は冬空の公園で一晩を過ごした。ベンチの上に膝を抱えて座る。夜半を過ぎると、雪がちらつき始め、寒くてたまらなくなった。
ふと、槌木のアパートに戻ろうかとも考えたが、自分には槌木の腕の中に戻る資格はないのだと弱った心に言い聞かせて、河辺は深くうなだれた。
翌日、熱を出した。公園で一夜を明かしたのがたたったようだ。夜明け過ぎに恐る恐る家に帰り、寝室の前から鞄だけを拾いあげると、河辺はそのまま会社へ出勤した。少し頭がふらふらするなとは思っていたが、朝一でどうしても外せない会議が入っていたため、出社しないわけにはいかなかった。
昼を過ぎると、熱はいよいよ上がってきたようで、昼食を食べに外へ行く気力すら残っていなかった。照明が消され、誰もいなくなったオフィスで一人、パソコンの前に突っ伏して目を閉じる。ゴホゴホと咳が出た。
「ひどい熱だ」
意識が薄らいでいたので、額に誰かの手が当てられたことにしばらく気づかなかった。のろのろと顔をあげると、厳しい顔をした槌木が目の前に立っていた。
「どうしてそんな状態で出社したんですか」
同僚と一緒に昼食をとりに行ったのではなかったのかと思いつつ、河辺は槌木をぼんやりと見つめた。
「あなたが無理をしても、周りに迷惑がかかるだけでしょう」
その通りすぎて何も返す言葉がなかった。また咳が出た。
「すまない」
「謝らないでください。あなたが心配で言っているんです」
槌木に背中をさすられる。会社で槌木に触れられるのは初めてで、びくりと背が震えた。だが、幸いオフィスには誰もいない。
「立てますか? 俺の肩、掴まっていいですから。午後は帰りますよね? 家まで送っていきます」
槌木に支えられ、立ちあがる。パソコンは強制的にシャットダウンされてしまった。
槌木に言われずとも、今すぐ帰りたい気持ちはあったが、今の河辺には帰る家なんてなかった。
「家には、帰りたくない」
「どうしたんですか?」
答えられなかった。理由を話せるはずもなかった。
千恵はまだ家にいるのだろうか。あの男と一緒に……。合わせる顔もなかった。どんなに体調が悪くても、あの二人が使ったベッドには横になりたくない。だからといって、風邪ぐらいでは病院に入院させてもらうことはできないだろう。ホテルは……病人が泊まったら迷惑をかけるような気がする。
河辺は茹だる頭を持ちあげた。心配そうに自分を見つめる槌木の顔がすぐそばにある。
槌木は自分に甘い。自分を好きだと言っている。だからきっと断わらないだろう。少し迷ったあと、河辺は意を決して口を開いた。
「君の家に行ってもいいだろうか」
槌木は驚いたようだが、すぐに頷いた。なぜ家に帰りたくないのかと、それ以上深く理由を聞かれることはなかった。
『いい子。いい子ね、真澄さん』
スーツに身を包んで玄関で靴を履く母の後ろ姿を、河辺は夢の中でぼんやりと眺めていた。穴の開いた押入れの襖に、ささくれて毛羽立つ黄ばんだ畳。幼い頃自分が住んでいた団地の部屋だとすぐにわかった。
『お母さんが帰ってくるまで、一人でお留守番できるわよね?』
母はショルダーバッグを肩から提げ、立ちあがる。行かないで、とはとても言えなかった。母は忙しい。母と子一人の生活を支えるため、母は昼夜仕事に明け暮れていた。
『ちゃんと鍵を閉めて。夜は夜更かしせずに早く寝るのよ。ご飯はテーブルの上にお金を置いておいたから、好きなものを買って食べていいけれど、甘いものは買っては駄目よ。虫歯になって夜中に痛いと泣かれるのはもう御免ですからね』
黙って頷く。母はそんな河辺を見て、満足そうに微笑んだ。
『いい子ね、真澄さん。私の自慢の息子よ。それじゃ、行ってきます』
扉が開かれ、母が光の向こうへ消えていく。一人残された部屋の中は闇だった。膝を抱えてうずくまると足元から泥の沼へずぶずぶと引きこまれていくような気がした。
頭が痛い。息苦しい。寂しくて、早く母に帰ってきてもらいたかったけれど、しばらく会いたくないとも思った。母は「いい子」でない自分を愛してはくれない。だからいつも気を遣って、母の重荷にならないよう我慢をして、「いい子」を演じ続けていた。熱を出しても、ずっとそばにいてもらえたことはなかった。頭に手を置かれる。罪悪感に河辺はうめいた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
目尻に涙が浮かぶ。母は自分のために会社を休んでくれたのだろうか。だが、額を撫でる手は母のものにしては大きいような気がして、うっすらと目を開くと、誰かが自分の顔を覗きこんでいるのが見えた。
「すみません。起こしてしまいましたか?」
自宅とは違う木目の天井。心配そうに自分を見つめる顔は槌木だった。冷たい手が気持ちいい。そこでようやく河辺は、槌木のアパートのベッドの上に寝かされているのだと気づいた。虚ろな視線をゆっくり動かすと、ベッドサイドのテーブルに小さな土鍋がのったお盆が置かれているのが見えた。
「少し、食べられそうですか?」
槌木が作ってくれたものらしかった。食欲はなかったが、断わるのも悪い気がして、河辺は頷いた。槌木に支えられ体を起こすと、熱でまだ少し眩暈がした。
槌木は土鍋の蓋を開けると、茶碗に中身をよそった。白い湯気が立ちのぼり、いいにおいがした。長ねぎと卵でとじた雑炊のようだった。
「あまりこういうのは作ったことがなくて味は保証できませんけど。よかったら食べてください」
れんげに乗せた雑炊を口元に差し出される。戸惑っていると、猫舌だと勘違いされたのか、槌木はふうふうとそこに息を吹きかけて、雑炊を冷ましてくれた。「どうぞ」とやわらかな声で促される。
おずおずと唇を開くと、槌木は嬉しそうに笑って河辺の口にれんげを運んだ。
味はよくわからなかった。一口、二口、と食べさせられていくうちに、まるで自分が子どもに戻ってしまったような気分になった。いたたまれず、河辺は俯いた。
「もう、いい」
「え。でも」
槌木は困惑したように、まだ半分以上も残っている雑炊と河辺に、交互に視線を遣った。
気恥ずかしいのと食欲がないのもあったが、その雑炊を食べられない理由はほかにもあった。槌木の顔をちらりと見て、申し訳ない気持ちで肩を竦める。
「ねぎが、少し苦手で……アレルギーが出るんだ。あまりたくさん食べると」
河辺がぼそりと呟くと、槌木の表情がみるみるうちに強張った。
「どうしてそれを先に言わないんですか」
「あ……でもそれは子どもの頃の話で、今はそんなに」
河辺は慌てて取り繕った。無理をすれば食べられないこともない。せっかく用意してくれたのだから、やはり残すのはまずい。河辺はれんげに手を伸ばした。
だが、槌木は河辺より早くれんげを奪うと、お盆を持ってさっさと土鍋ごと片付けてしまった。そして、台所まで歩いていくと、流しに土鍋をひっくり返し中身を捨てた。
「作り直します」
「そんな……」
何も捨てることないだろう。思ったが、槌木の背中が少し怒っているような気がして、何も言えなかった。
「苦手なものがあるなら、ちゃんと教えてください。あなたはいつも我慢ばっかりして。……そんなに俺って頼りないですか?」
「……すまない」
ベッドの上で小さくうなだれる。槌木に不快な思いをさせてしまった。ただでさえ風邪で寝込んで迷惑をかけているのに、これ以上余計な手間を増やすことになるなんて。
槌木はベッドのそばに戻ってくると、そんな河辺を見て慌てたように床に膝をついた。
「ああ、ごめんなさい。少し強く言いすぎました。でも、わかって? 弱ってるときぐらい、素直に俺を頼ってほしいんです。俺の前でまで気を遣う必要はどこにもないんですから」
頭に優しく手を置かれる。
「すまない」
「またそうやって謝る。もう口癖なのかな。しょうがない人ですね」
ぐりぐりと頭を掻き回された。かと思えば、こつんと額と額を寄せられた。
「謝らなくていいんですよ。俺がしたいって思ってしてるんだから」
「でも……」
「そんなに気になるなら、今度、俺に何か作ってくださいよ。肉じゃががいいな。大好物なんです」
槌木は冗談めかして笑う。いつも身勝手な都合で一方的に利用しているばかりなのに、槌木は必ず自分のために逃げ道を用意してくれる。その優しさに胸が詰まった。
「だから早く元気になってくださいね」
目尻に浮いた涙をそっと拭って、槌木はそこに唇を寄せてきた。けれどそこじゃなくて、唇にキスされたいと思った。風邪なんて引いていなければ――。そんなことを考えている自分は相当熱でやられているのだろうと呆れ、河辺は静かに目を閉じた。
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