虎と朝までドライビング

12.

 ざあ、と砂を孕んだ春風が短く切った襟足を攫う。
 周は窓の外へ目を向けた。よく晴れた青空の下で、今日も教習車がのろのろとコースを走っている。裏山から流れる雪解け水は、教習所の側溝を静かな小川へと変えていた。
 壁時計を見ると、正午を少し回ったところだった。周はペンを置き、椅子に座ったまま大きく伸びをした。凝り固まった肩の筋肉がぼきぼきと音を立てて鳴る。
「はい、保之さん。お茶ですよ」
「ありがとう、ヨネ子さん」
 周の後ろではそんなやり取りが聞こえる。保之が退院してからというもの、近藤は何かにつけて甲斐甲斐しく保之の世話を焼いた。それは保之も満更でもないらしく、始終眉尻を下げて微笑みあっている有様だ。
(なんだ、そういうことかよ)
 周はげんなりと肩を竦ませた。いつの間に出来上がっていたのか、幸せそうにお茶を啜る二人を横目で眺め、「あーあ」と周は溜め息を深くした。
 これでは何のために自分が西郷村に残ったのか、意味がないじゃないか。
 周は弁当の包みを提げ、そっと席を立った。今日は天気もいいし、外のベンチでご飯を食べよう。なんで自分が気を使ってやらねばならないのか……思って、まぁそれも悪くないと目を細めた。
 青空の下に手をかざすと、眩しい日の光。鼻を擽る風は瑞々しく、足元から周の体を崩さんばかりに巻き上げる。
 春一番の突風だ。自動ドアをくぐり外に出ると、周は全身で大きく風を吸い込んだ。肺の奥まで満たすように、春の香りを楽しむ。
 まるで春一番のような男だったな。
 周は思った。突然現れて、さんざんに教習所を荒らしまわって、そして春の訪れとともに嵐のように去って行っていった。泰我がいつも寝転んでいたソファ、外で待つときは決まっていつもこの喫煙所の隣の岩の上だ。大股開きでつまらなそうにコースを眺めていた横顔が、近寄る自分を見つけるとぱっと生気を取り戻す。
「周っ!」
 耳の遠くでそんな声が響いたような気がした。いやだな。もう一ヶ月も経つのに。まだ教習所のあちこちに泰我の影を見つけては胸が締め付けられる。早く忘れなくては――思えば思うほど、つい目で追ってしまう。
 自分がこんなに女々しかっただなんて知らなかった。
(父さん達のせいだな……)
 周は自嘲し、岩の上に「よっ」と腰を落ち着けた。弁当の中身は、丸く握っただけの味も素っ気もないおにぎりだ。こんなものだけど、いつも近藤に作ってもらってばかりでは悪いからと保之に頼み込まれ、朝早くから台所で男二人で格闘した結果の産物だ。
 きっと今頃、近藤は悲鳴をあげていることだろう。不恰好なのは外側だけと思い切って食べてみたら、想像以上の塩辛さに周は大きく噎せた。
『まったく馬鹿なんじゃねーの』
 耳に残る嘲笑に、本当にその通りだと周は笑った。車のハンドル以外、おにぎり一つもまともに握れない、不器用な自分にほとほと嫌気がさす。
 穏やかな日差しの中を、とんびが円を描いて飛んでいる。
 どうにか一つ目を食べ終え、さてどうしようか、と周は膝の上を見つめた。
 食べ物を粗末にしたくはないが、これ以上無理に食べたら高血圧で死んでしまう。どうせだったら、とんびが攫って持って行ってくれればいいのに。
 頭上を旋回する影が大きくなる。そうだ。いいぞ、持っていけ。周はおにぎりを持ち、空に手を伸ばした。そのときだった。
 つむじを巻いて吹き荒れたのは強い突風。うっ、と反射的に目を瞑ると、続いて耳元でバラバラと爆音が鳴り響いた。
「あーまねー」
 怒号のように響くその声に、周ははっと顔を上げた。
 その、聞きなれた、自分を呼ぶ声は。
「なっ! なっ……お前!」
 周は空を見上げ、絶句した。眩しい太陽の逆光となってよく見えないが、その大きな体は、たてがみのように尖った赤い頭は。
「泰我!?」
 素っ頓狂な声で名を呼ぶと、着地準備を始めたヘリから我慢できずに泰我が飛び降りてきた。まだ五メートルは地面から離れた高さからだ。
「免停喰らっちまった!」
 そして、何事もなかったように大声で愚痴りながら、ずかずかと周の元へ歩み寄ってくる。
「東京の道はオレには狭すぎる!」
「どこも道の太さは一緒だよ!」
 周はつい反射的に切り返してしまった。
 なんで泰我がここに。まだ卒業して一月しか経っていないのに、もう免許を取り消されたというのか? そんな馬鹿な。
「知るかよんなもん! あーもう面倒臭ぇ」
 泰我ががに股になって春空に叫ぶ。その大声に、何事かと教習所の皆がわらわらと外に出てくる。そして、コースに不時着したヘリを見て一様に目を丸くした。
 泰我は「フン」と鼻を鳴らし、周の正面にふんぞり返ると、
「あまね、手」
「は?」
「いいから手ェ出せよ」
 と言って、周の手を強引に引っ掴んできた。
 握らされたのは手の平にすっぽりと収まるほどの大きさの、固いプラスチックのカードだった。
「何、これ」
「うちの社員証」
「え? は?」
 いつの間に撮られたのか。自分の顔写真の貼られたカードと、泰我の顔を交互に見渡していると、泰我はぐっと周の肩引き寄せて言った。
「っつーわけで、保之さん。コイツ貰ってくわ」
 高らかな宣言に、周はぎょっと後ろを振り返った。そこには近藤と連れ立って、ぽかんと自分達を見つめる父の姿があった。
 突然前触れもなしに戻ってきて、今度はいきなり何を言い始めるのだこいつは。
「ちょっ待て。待て泰我!」
 慌てて諌めるも、泰我は顔を保之に向けたまま、にやりと微笑む。
「うちの専属運転手。悪くねー職だろ?」
「ああ。どんどん貰っていってくれて構わないよ」
「父さん!」
 周は耳を疑った。
 父さんまで何を言い出すのか。
 保之は相変わらずのほほんとした表情で、なぜだか嬉しそうに頷いている。
「周がこんなに楽しそうな表情をしているのを見たのは随分久しぶりだ」
「ちょっ……」
 周は慌てて父の元へ駆け寄ろうとした。
 しかし、その体はがっちりと泰我に抱かれ、身動きが取れない。
「……だってよ。よかったな周」
「よ、よくない! 何だっていうんだよいきなり」
「いきなり? なんでだ。迎えにくるってちゃんと約束しただろーがよ」
 泰我が顔を近づけてくる。途端に鼻腔を擽る優しい香り。懐かしい、泰我のにおいだ。
「仁義は立てる男だぜ? 俺は」
 泰我はそう言って、自信に満ちた流し目を周にぶつける。
 そんなキザったらしい仕草まで決まっているだなんて、何の反則だ。
 効果は直下直撃、被害は甚大だ。悔しさに唇を噛み締めていると、
「そうと決まれば移動だな」
「うわっ!」
 と言って、泰我は周の腰をしっかりと掴むと、そのまま荷物のように肩の上に高く抱きかかえた。
「空のドライブ。さっそく初仕事といくか? 周」
「無茶言うなよ! 下ろせ! この人さらいが!」
 力の限り暴れ喚くも、そんなささやかな抵抗も泰我の前では無意味だった。
 長い冬を終え、降り積もった雪を融かす温かな日差し。飛び交う罵声。
「下ろせって言ってるだろ! バカ泰我!」
 苛立ちに任せて背を蹴るも、春風の中を走り始めた虎の背中にブレーキペダルはついていなかった。

 (了)