雷神とナマズ姫
終.
「号外! 号外! 江戸でまた大地震だよ!」
通りを駆ける読売のよく通る大声に、ジンははっと後ろを振り返った。読売の手から撒かれた瓦版がひらひらと風に舞う。手に取るより早く、紙面に踊る鮮やかな錦絵に目が釘付けになった。
「二度に渡る災厄・天災。またもや暴れた地震鯰に鹿島大明神はご立腹だ。夜空に現れた稲妻で能源塔は真っ二つ! さてはこの世の終わりか新たな時世の幕開けか……」
瓦版に描かれた大きな地震鯰の絵。目の周りを太く朱で隈どった鹿島大明神が手にもった瓢箪で鯰の頭を押さえている。それは古くから伝わる想像上の図案。けれど、鯰の少し左右に離れた大きな目は目の前の墓前で手を合わせる少女にどこか似ても見えた。
「結局ワシは二度もフラれてしまったな……」
少女の前に屈み、墓碑に木杓で水をかけるのはずっしりとした体躯の坊主頭。男は空になった木杓を活けた花の隣に裏返して置くと、再び静かに合掌した。
ジンは溜め息をつき、そんな彼らを背後から見守った。ジンの隣には同じように時間を持て余したヤマジとヒムカ。ヒムカはとうに墓参りに興味が失せたのか、読売が配り歩いていた瓦版をヤマジの風で引き寄せてもらい手にした紙面を読み耽っていた。
よく晴れた青空の下で、緑色の葉をつけ始めた桜の花びらがひらひらと散っている。皇家の菩提寺の片隅に築いた墓碑は十五年前に建立したとは思えぬほど今でも手入れが行き届いている。ジンの背後でヒムカが「鳳徳がしたんや」と教えてくれた。鳳徳とともにもう数え切れぬほどこの場所に訪れたのだと言ってヒムカは生欠伸。すぐに「はしたない」と言ってヤマジが横から妹の口を塞いだ。
「やれやれ。また面倒なことになりそうだ」
震斎はそう言って重い腰をあげる。鳳徳亡きあと空位となった宮内卿の座に無理矢理といった形で座らされることになった彼の溜め息は深い。一旦は政治の表舞台から姿を消した震斎に再び泣きつかざるを得ないほど、現在の新政府には有人が少ないのだ。
「ワシはこのまま鹿島で隠居していたかったのだがな」
「何をおっしゃるか。父上はまだ隠居するにはお早いじゃろう。鹿島にばかり篭もっていないで、お勤めに励んでくだされ」
「ハッハッハッ、手厳しいことを申すようになったの、ナマズ」
震斎は眩しそうにナマズの青い髪を撫でた。今はまだ幼い顔立ちもあと数年もすれば母親の面影を濃く映し出してくるだろう。
震斎は微笑み、左手に持った数珠を首にかけると、くるりと踵を返した。
「帰るぞナマズ。引越しの準備だ」
「え……」
震斎は墓地の狭い通路をナマズに構うことなくずかずかと歩いてゆく。
「ち、父上……わらわは」
ナマズが慌てて震斎の背を追う。駆け出したところで、鼻頭から墨染めの袈裟にぶつかった。震斎が急に立ち止まったのだ。そして肩を揺らして言う。
「分かっておる。荷物の運び先は、瓢屋だろう」
「父上っ!」
途端にナマズの顔が真っ赤に染まる。そんな娘の様子がおかしくて仕方ないのか、震斎はくつくつと喉を鳴らして笑っている。
ジンはそんな二人をぼんやりと眺め、数秒遅れて「え?」と気がついた。
「運ぶって? 荷物を? こいつの? 瓢屋に?」
突然降って沸いた震斎の決定事項に、ジンは慌てふためいた。忙しなくナマズの顔とヤマジの胸を交互に指差し、「嘘だろう?」と呟く。
「本当だよ」
答えたのはヤマジだった。今にも鼻歌を歌いだしそうないつもの軽い調子で、涼しげに羽扇を仰いでいる。
「もう前金として三十両は頂いたからね。姫の行儀指導と、これからの江戸での生活を全面的にサポートするようお大尽から言いつかってる。もちろん、引き続き鹿島のお婿探しもね」
「だー! なに勝手に安請け合いしてやがんだヤマジ! こいつと暮らす? 冗談だろう?」
「姫だけじゃないよ。ヒムカも一緒だ」
「ヒムカも!?」
ジンはぎょっと後ろを振り返った。ヤマジの背に隠れて、ヒムカは相変わらず自分はどこ吹く風。読み終えた瓦版をびりびりに引き裂くと手の中で小さく丸め、無心に捏ねている。
「家族が一気に増えて良かったじゃないか」とヤマジ。うっかり快活な笑みに誤魔化されかけて、「いやいやいや」とジンは慌てて首を振った。
「何じゃ。わらわが居ては不服か、ジン」
「いや、不服とかそういう次元の問題じゃねぇ、誰がお前なんかと……うぐっ!」
じとったした視線を向けるナマズに一言言ってやろうと拳を握るも、次の瞬間には震斎の正拳突きがジンの腹に決まっていた。
「勘違いするなよ、小僧」震斎は仁王像のような顔をして言った「ナマズは『力』を抑えるため、今しばらく貴様の傍に居らねばならぬだけだ。貴様はいつか本物の雷神が現れナマズと生涯を添い遂げるまでのただの繋ぎだ。そのこと、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
「そうじゃ、喜べジン。これからもわらわの逗留を賜るのじゃ。身に余る光栄であろう?」
震斎の言葉を受け、ナマズがふふんと鼻を鳴らす。ああ、その小生意気な鼻柱をへし折ってやりたい。ちくしょうちくしょう!
だが、四方を敵に囲まれたジンに残された選択肢は一つしかなかった。
「……謹んでお受け致します、……ナマズ姫様」
「うむ、よかろう。これからも誠心誠意尽くすように」
がっくりと項垂れ蚊の鳴くような声で呟くと、ナマズは鷹揚な態度で頷いた。丸い顔には満面の笑み。高らかに笑いながら震斎の腕にぶら下がり、前を歩き出す。
その背をジンは渋々追った。これからもこんなワガママ姫様と一緒に暮らすだなんて何の性質の悪い冗談だ。
(恨むぞ、ヤマジ……)
どんよりとした視線をヤマジに向けるも、ヤマジはジンとは反対の方向へ歩き始めたヒムカを呼び止める。
「どこ行くんだい? ヒムカ」
「んー?」
ヒムカは生返事をし、ひらひらとヤマジに後ろ手を振る。赤い髪を揺らす春風に気持ち良さそうに目を伏せ、「ちょっと散歩や」と言い残しその場から飛び立っていった。
「おい、ヒムカ! ……まったくあの子は」
ヤマジの口から呆れた溜め息が零れる。そして解れた鬢を直しながら、「これからは街中で無闇に『力』を使うのはやめるように躾けないとね」と一人ごちる。
「何をしておるのじゃ。行くぞ。ジン! ヤマジ!」
参道の向こうからナマズの声。桜の木の下で二人を呼ぶ。
ジンはヤマジと顔を見合わせ、少しだけ眉尻を下げると、ゆっくりナマズの元へと歩いて行った。
瓦礫の積み残った空き地の中で、捻り鉢巻を巻いた大工と職人達が大きな掛け声とともに鉄屑を運び出している。その様をヒムカは城の天守からぼんやりと見下ろしていた。
かつて江戸の街を最も高い位置から見下ろすことのできた能源塔はナマズの起こした地震によって破壊され、今はもうない。鉄屑と化した廃墟跡に群がる職人達はまるで蟻のようだ。都合の良いときだけ甘い汁を啜りに集まってくる、ただの蟻。
ヒムカは天守の屋根瓦に膝を抱えて座ったまま、能源塔からさらに北の街区へと目を向けた。政府の高級官僚達が競って建てた色とりどりの洋館の中に混ざって、一際地味な母屋作りの長屋敷が見える。三方を小高い防風林で囲い、実用性を重視した質素な昔ながらの武士の家――そこに、ヒムカはつい先日まで住んでいた。
主の不在が続く屋敷は使用人もろくに雇っていないため荒れ放題だったが、それでも春になれば梅の花が芽吹き、夏になれば小川に涼しげに鯉が泳ぎ、秋には枇杷の木が、そして冬には降り積もった雪の上に山茶花が小さな蕾を散らす――そんな箱庭のような世界でヒムカはずっと主の帰りを待っていた。その家に、今はもう誰もいない。
「鳳徳が恋しいか、狗よ」
背後から聞こえた声に、ヒムカは振り向きもせずに答えた。
「せやなぁ」
赤い髪を風になびかせ、ヒムカは膝の上で首を傾げた。背後に佇むのは少年。線の細い体に亜麻色の髪。いつの間に屋根に降り立ってきたのか。だが、それもヒムカにとってはどうでもいいことだった。
「ウチには分からん。ぜぇんぶ、鳳徳が決めたことや。あんお人が納得して逝きはったなら、ウチは何も言わへん」
ヒムカはじっと廃墟と化した元・宮内卿の屋敷を見つめた。背中の向こうで少年が哄笑する気配を感じた。
「哀れな娘よ。行く宛もないのなら、どうだ。今後は余のもとで飼ってやっても良いぞ」
少年は言いながら、ヒムカの隣に立ち並ぶ。
「バイオマスとして覚醒し、我が血と肉になれ」
そして朱い唇で美しく弧を描き、ヒムカに手を差し伸べる。身の丈よりも大きな軍服の袖口から、黒い蟲が一列の線となり湧いて出てくる。ヒムカは嫌悪に顔を歪めた。
「勘違いするんやないで、ツツガ」
固い声で少年の真名を正確に発音しその誘いを断わる。少年はそれでも微笑を浮かべたままだった。黒い瞳を細め、面白そうにヒムカの顔を眺めている。
少年の身から次々に溢れ出す蟲は、屋根の上空に小さな竜巻となって立ち上る。それは鳳徳に力を与え、支配していた恙虫。少年の名を冠す寄生虫だ。
「ウチは鳳徳の狗や。アンタの言うことは聞かへんで」
ヒムカが言い切るやいなや、蟲はその矛先を一斉にヒムカへと変えた。瞬く間に視界が黒く塗り潰される。だが、ヒムカは瞬時に炎蛇を召喚。
「おいで、壱焔。弐焔」
蟲の追撃を焼き払い、迷わず青空の下へ飛翔した。
(了)
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