棒人間は愛を乞う

7.

 弁護士づてに千恵から二度目の離婚届が届けられたのは、その翌週のことだった。
 すでに千恵の判が押された用紙に、河辺はのろのろと自分の名前を書いた。無感動に印鑑を押し、封筒に詰めて差出元に送り返す。たったこれだけ。これだけの作業で、自分が今まで必死に守り続けていた「夫婦」という名の絆はあっけなく終わってしまった。
 喪失感よりも、これでようやく解放されたのだという安堵感が勝った。カレンダーを見ると、二月も終わりにさしかかっていた。千恵とのことで、一年以上も悩んだ自分が馬鹿らしくすら感じた。
 久しぶりに出社すると、河辺は長期入院で休職していたことになっていた。休職届は槌木の手で提出されていた。けれど、今度は代わりに槌木が会社に現れなくなった。河辺が復職したときは誰一人労う言葉をかけてこなかった同僚達が、口を揃えて槌木のことを心配していた。
 二週間、一ヶ月が過ぎても槌木は連絡ひとつよこさなかった。仕事は相変わらず忙しく、すっかり元に戻った日常の中で、槌木だけがいない。
 河辺は家に帰ると、槌木にめちゃくちゃに辱められたベッドの上で、槌木の手を思い出して何度もオナニーをした。けれど、一人で自慰をしても、虚しさしか感じなかった。
 監禁されて、さんざん辱められて、殺されかけもしたというに、槌木の気配が遠のくと寂しくてたまらなくなった。
 呼んだらいつでも来てくれると言ったのに。どうして槌木はここにいないのだろう。
 あんなにひどいことをされたのに、気がつくと槌木のことばかりを考えていた。河辺はそんな自分に戸惑った。
『好きです。河辺さん。……河辺さん』
 そう言って何度も抱きしめられた。槌木の声が耳の奥にこびりついて離れない。その温もりをたしかに心地いいと感じていたはずなのに、自分は槌木の気持ちを利用したばかりか、踏みにじって失望させた。
 槌木はもう自分を好きでいることをやめたいと言って泣いていた。そこまで槌木を追い詰めたのは、ほかでもない自分だ。
 槌木はもう自分には会いたくもないのだろうか。だから会社にやってこない。携帯も着信拒否され、ぷつりと連絡が途絶えた。
 今までどれだけ自分が槌木に甘えきっていたのかを思い知る。いつも槌木から歩み寄ってもらって始まった関係だった。わがままは何でも聞いてもらえ、会いたいと言えばいつでも会えた。けれどもう会えない。もう二度と会うことができないのもしれないと思うと、槌木に会いたくてたまらなくなった。
 会って、どうにかもう一度だけ会って、槌木に謝りたい。
 河辺は走って槌木のアパートへ向かった。温かくなってきた春の夜風が涙を誘う。
 どうしてもっと早く認めることができなかったのか。自分の心に芽生えた槌木への気持ちを、もっと早く伝えてやればよかった。
 槌木の部屋の前に立ち、呼び鈴を押す。中から反応はない。けれど、河辺はしつこく何度も扉を叩き続けた。
 そうして一時間……二時間、どれぐらい長い時間、扉の前で立ち尽くしただろう。夜が白み始め、もうすぐ出勤しなくてはいけないという時間になって、どうしても諦めきれなくて、最後に祈る気持ちでドアノブを回した。
 すると、運よく鍵がかかっていなかったのか、部屋の中に入ることができた。だが、槌木の姿はどこにも見当たらなかった。どこへ行ったのだろうと見回すと、浴室からかすかな水音がしているのに気づいた。
 河辺は浴室の扉を開けた。と、途端にむっと血の香りが漂った。湯船の中に座り、目を閉じる槌木の姿が見えた。だらりと伸ばされた手首から血が伝っている。
「槌木!」
 河辺は慌てて駆け寄った。名を呼びながら、何度も槌木の頬を叩く。その声に気づいたのか、槌木はぼんやりと目を開けた。
「ああ、夢が見えるな。河辺さんが俺の家にいる」
 河辺を見あげる槌木の瞳の焦点は合っていなかった。タイルの床に剃刀が転がっている。これで手首を切ったのだろうか。
「しっかりしろ。こんなところで死ぬつもりか」
 河辺は槌木の裸の肩を掴み、揺さぶった。
 どうして。どうしてこんなことに。
「死ぬ? 馬鹿言わないでくださいよ。俺が死ぬとでも思いましたか? あなたに振られたぐらいで俺が」
 槌木は高い声で笑った。「これぐらいじゃ人は死にませんよ」と言って、手首に残る傷痕を見せつけるようにひらひらと手を振った。
 たしかによく見れば、浅い傷が数本走っているだけで、命に別状はないようだった。血も止まりかけている。
「何を自惚れてるんですか。俺は、もうやめたんです。あなたを好きでいることから、俺は逃げたんです。……もう疲れました。二度とあなたの顔なんて見たくない。帰ってください。気分が悪い」
 湯船の中で膝をかかえ、槌木は丸くなった。
「槌木……」
 恐る恐る手を伸ばすも、叩き落とされる。
「今さら何の用ですか? また俺に抱いてくれって言いにきたんですか? あなたにとって俺は棒以外に何の価値もない男ですもんね。だけど、棒にだって感情はあるんです。俺はもうこれ以上惨めな思いをしたくない。あなたに焦がれて、利用されて振り回されて……でも結局何も手に入らなくて……もう沢山だ! 俺を馬鹿にするのもいい加減にしてください!」
 槌木は両手で頭を抱え叫んだ。耳に痛いぐらい大きな声が風呂場に反響する。
「……馬鹿になんかしていない」
 河辺は震える声を絞り出した。
「君が心配で来たんだ。その……会社にも全然来ないから」
「それは上司としての責任からですか? それはどうもありがとうございます。でも、もう気にされなくて結構ですよ。あの会社は辞めますから」
「違う、上司としてじゃない。私は君のことが気になって……本当に心配で……」
 もう一度、槌木の肩に手を伸ばす。今度は振り払われることはなかった。
「河辺さんはいつもそうだ。……そうやって隙を見せるから、俺みたいな男がつけあがるんですよ」
 槌木の前髪からぽたぽたと滴が垂れる。何時間すっかり冷めた風呂に浸かっていたのか、触れた肌は氷のように冷たかった。
「中途半端に優しくするぐらいなら、いっそはっきり捨ててくださいよ。あなたは残酷だ。もう期待なんかしたくないのに……こんなところまでのこのこやって来て……。どうしてそんなに俺にこだわるんです? あなたを抱いてくれる男なら探せばほかにいくらでもいるでしょう?」
 槌木は河辺の胸元に手を伸ばした。定期入れの中に折り畳んで入れてあったピンク色のチラシを取りあげる。
「俺じゃない、プロの男の味はどうでしたか? よかったでしょう?」
「そんなもの、使えるはずないじゃないか」
 河辺は奥歯を噛んだ。
「どうしてですか? 誰でもよかったんでしょう? それとも、いまさら俺が惜しくなりましたか? 俺のペニスが」
「違うっ!」
 河辺は首を振った。槌木の肩を強く掴む。
「誰でもいいわけじゃない。君が欲しいんだ。君のペニスがじゃなくて、君の全部が」
 顔をあげると、焦点の合っていない濁った瞳がぼんやりと河辺を見つめてきた。
「あのとき私は千恵に嫉妬したんだ。君が千恵と関係していたと知って、カッとなった。目の前が真っ暗になって、それからしばらく落ち込んで……そんな自分に戸惑った。ありえないって何度も思ったよ。でも君の声がずっと耳から消えなくて……」
 河辺は洟を啜った。
「君が私を好きだって言ってくれるのが嬉しかった。何度も何度も聞いているうちに当たり前みたいに感じて、馬鹿な私は優越感に浸っていたんだ。君が私を想っていてくれる。それがどれだけ幸せなことかも気づかずに」
 河辺は唇を噛みしめ、槌木をまっすぐ見つめた。息を吸い、懺悔するように告白する。
「君が、好きだ。いまさらこんなことを言っても信じてもらえないかもしれないけれど、君を好きになってしまった。こんな気持ちを覚えたのは初めてで、自分でもどうしたらいいのかわからなかったんだ。君が誰かと浮気をしているんじゃないかって思ったら、感情が制御できなくなって……色々ひどいことを言って君を傷つけた。本当にすまない」
 河辺は恐る恐る槌木の背に手を回した。どうか振り払われないようにと願いながら、冷たい体を抱き寄せる。
「夢みたいだな。あの河辺さんが自分から俺に抱きついて、俺のことを好きだなんて言ってる」
「夢じゃない……。聞いてくれ。私は君に謝らなくてはいけない。だから、ちゃんと聞いてほしい。……君が好きなんだ。やっと気づいたんだ。遅くなって本当にすまない」
「もっと言ってください」
 槌木はうっとりと目を閉じた。河辺は乞われるまま、続けた。
「好きだ。君が、好きだ。これが好きという感情なら私はなんて浅ましい……。君のことを考えていると、ほかのことが全部どうでもよくなるんだ。家にいても会社にいても、君に会いたい、触れられたいとそればかりを思って……」
「俺がいなくて寂しかったんですか?」
「そ、そうだ。寂しかった。体じゃない。君にもう会えないんじゃないかと思ったら、胸が痛んで……、このまま君に嫌われて終わるのが怖かった。君に見捨てられたら……私はもうどうしたらいいのかわからない……」
 みっともない。情けない。思うのに、込み上げる嗚咽を止められない。こんなに誰かに捨てられたくないと思ったのは初めてだった。
「た、頼む。都合のいい願いだとはわかってる。だけど、どうかもう一度だけ私にチャンスをくれないか。君とちゃんと向き合いたい。付き合いたいんだ。今度は棒としてじゃなくて……こ、恋人同士として……」
「恋人、か……いい響きですね」
 槌木の手が後頭部に回される。優しく抱き寄せられるのかと思ったら、後ろ髪をぐっと引かれ、河辺は顔を仰け反らせた。
「でもそんな甘い関係で終われるほど、俺は優しくありませんよ。付き合うとなったら俺はあなたのすべてを支配して、管理します。あなたは指一本、髪の毛一本まで全部俺のものになるんです。射精も排泄も自由になんかさせない。永遠にです。それでもいいんですか?」
 槌木の目の奥に狂気が見える。でもそれすら心地いいと思った。
「……いい。そうしてほしいと、思っていたんだから」
 河辺は吐息を弾ませ、答えた。槌木の手を引き寄せ、指を舐める。ペニスに奉仕するように、いやらしい音を立ててそこを吸った。
「私は君のものになりたい。そのためだったら何だってするよ。こんな私でよかったら……君のやり方で、私を愛してほしい。君が飽きるまでで構わないから、どうか」
 槌木の手に頬ずりをする。この手が自分をぶとうと、嬲ろうと、槌木から与えられる感覚なら、どれでも甘んじて受けたい。
「あなたは本当に馬鹿だ。俺なんかにあっさり落ちてきちゃって……」
 槌木は河辺の髪を持つ手を放した。
「どうなっても知りませんよ」
 槌木はぽつりと呟いた。
「俺はあなたに飽きることなんかない。あなたが嫌がって逃げ出しても、今度は手放してやるつもりはありません。一生です。一生、何があっても俺のそばにいてくれますか?」
 目を覗き込まれる。河辺は頷いた。
「俺の愛は重いですよ?」
「ああ。だけど私にはそれぐらいがちょうどいいみたいだ。君がずっと真剣に私のことを想っていてくれたから、私は君を見つけることができたんた。今まで誰かを想う気持ちを知らなかった私に、本当の恋を気づかせてくれて……ありがとう」
「河辺さん……」
 河辺さん、河辺さん、と槌木は何度も名前を呼びながら、腕を回してきた。きつく抱きしめられる。
「妻を裏切って君を選んで……私はやっぱり不幸になるのかな」
 声に涙が混じる。好きな人と抱き合えて嬉しいはずなのに、不安で胸が押し潰されそうになる。こんなの、きっと世間に褒められるようなまともな恋愛じゃない。いびつで偏執的で、ましてや男同士だ。けれど、この温もりを手放すぐらいなら、誰に糾弾されようとやめるつもりはなかった。
「まさか。幸せにするって言っているんです」
 槌木の目にも涙が滲んでいた。キスを受けながら、目を閉じる。
「あなたがそばにいてくれるなら、そこがたとえ地獄であっても、俺は幸せです」
 迷うことなくそう言い切った男に、自分のすべてを捧げようと河辺は思った。



 出しっぱなしにしたシャワーの水音が耳の遠くでずっと響いている。湯船から立ち込める湯気に、意識が白く霞んだ。
 河辺は、湯船のへりに腰かける男の股間の前に跪いて、恍惚とした気分で男のモノを舐めていた。
「何度も死のうと思いましたよ。だけど、途中で思ったんです。俺が死んだらあなたはどうなるんだろうって」
 槌木の手が後頭部に置かれ、髪を掻き回してくる。心地よさに河辺は目を細めた。
「俺を舐めてるだけで、勃っちゃったんですか? さすが筋金入りの変態ですね」
 槌木が足の爪先ですっかり熱くなった股間を揉んでくる。かぁ、と頬が火照った。
「あなたみたいな変態を愛してくれるのは、この世で俺のほかにいませんよ。そのことがわかったから、あなたも俺のところへ来たんでしょう?」
「槌木……」
「そうです。あなたを世界で一番愛しているのは槌木亘という男です。よく覚えておいてください」
「あっ……」
 乳首を摘まみあげられる。ギリ、と捏ねるように回され、河辺は思わず槌木のペニスを口からこぼしてしまった。
「俺のチンポが欲しいんでしょう? 挿れてほしいなら、ちゃんと俺の目を見てねだってみてください」
「ほ、ほしい……」
「何が?」
「き、君のおチンポが……」
 それを口にしたときは恥ずかしくて死んでしまうかと思った。
「俺のチンポをどこに?」
「わ、私の、お尻の穴に」
「違うでしょう。いやらしくて、はしたない穴にでしょう?」
 槌木が笑う。河辺は羞恥に頬を染めた。
「言いたくないなら、別にいいですけどね。このまま乳首を捻り潰すだけです」
「あっ……、ああっ……」
 強い力で乳首をつねられ、息が弾んだ。股間に先走りが滲む。
「それとも乳首だけで達きますか? ここ弄られるの、あなた好きですもんね」
 河辺は必死に首を横に振った。好きだ。乳首を弄られるのは好きだけれど、そんなじりじりと身を炙るような快感ではなくて、もっと激しくて鮮烈な快感がほしかった。
「もっと気持ちよくなりたいんでしょう? なら言って。素直に俺を求めて」
 槌木の甘い命令は毒のようだ。河辺の理性を焦がしていく。
「挿れて……」
 河辺は掠れた声を絞り出した。どれだけ淫らな願いを口にしても、槌木はきっと自分を嫌いにはならない。本当の自分を出しても見捨てられたりしない。それはなんて幸せなことか。
「挿れてください……私のいやらしくて、は、はしたない穴に、君のおチンポを」
「よくできました」
 上に乗って、と指示される。ようやく許しが出たのだ。河辺は槌木の太腿をまたぐ形で向かい合った。槌木の屹立に手を添えて、ゆっくり腰を落としていく。
 ぬぷぬぷと肉を押し分け入ってくる圧倒的な充溢感に、喉が仰け反った。
「どうですか? あなたを犯す男の味は」
「あ……っ、いいっ、いい……っ」
 河辺は夢中になって、腰を振った。本能のまま愛しい男の欲望を全身で貪る。下から容赦のない力で突かれると、ひっきりなしに声が出た。ぬちゃぬちゃと接合部から洩れる水音が風呂場に反響する。
「名前、呼んで」
 頬に口付けられる。河辺は広い背にしがみつき、恋人の名を何度も呼んだ。
「槌木、つちき……っ、つち……あっ、ああ!」
「河辺さんっ」
 深いキスを交わしながら、激しく穿たれる。耳元にかかる吐息も、触れる肌も、どこもかしこも熱かった。前を扱かれ、狂乱する体の首元に槌木は顔を埋めてきた。
「俺の愛しい、淫らで美しい体」
 うっとりとした声で、背骨をなぞられる。
「ほかの棒を咥え込んだら許しませんからね」
 首筋に歯を立てられる。ちり、と甘い痛みが走った。
 これからもきっと槌木に求められるまま、自分は堕ちていくのだろう。一度解き放たれた欲望は際限を知らない。けれどきっと槌木はそのすべてを受け入れてくれるだろう。
 だから、もう何にも我慢することも怯えることもなく、自分を求めてくれたこの男だけを愛していく。永遠に――。
 河辺は誓いを胸に刻むと、槌木の首に手を回し、初めて自分からのキスを贈った。

(了)