棒人間は愛を乞う

1.

 どうしてこんなことになったのだろう。
 やわらかなベッドの端に腰掛け、河辺真澄(かべますみ)はもう何度目ともわからぬため息をついた。
 間接照明を限界まで落とした薄暗い部屋にはシャワーの水音だけが響いている。河辺はネクタイをゆるめ、じっとりと汗ばんだシャツのボタンを上から一つ、二つと外した。
 酔いが冷めるにつれ、やはりここへ来たのは早まったのではないかと後悔の気持ちばかりが沸き上がってくる。できることなら今すぐにでも逃げ帰りたい。だが、出張先で土地勘のない河辺にとって、雑居ビルの立ち並ぶこのネオン街からどうやって宿泊先のビジネスホテルまで帰ればいいのか、皆目見当がつかなかった。
(……いや、それはただの言い訳か。子供じゃないんだ。いざとなればタクシーを呼んでホテルまで帰ればいいわけだし)
 河辺は両手を組み、深くうなだれた。
 八畳ほどの煙草くさい部屋は、掃除が行き届いていないのか、鏡台に備え付けられた電気スタンドの傘は埃を被ったままで、今どきめずらしい二十インチほどのブラウン管のテレビは何度リモコンを押してもスイッチが点かなかった。
(まいったな……)
 何もすることがなくなって、河辺はダブルベッドの上にごろりと仰向けに転がった。綺麗にベッドメイクの施された紺色のシーツがふわりと河辺の細い体を包む。
 横になるとまだアルコールが完全に抜けきっていないのか、軽い酩酊感と疲労を覚えた。思えば仕事を終えた足でそのまま飲みに行ったのだ。出張先で暇を持て余した夜は、大抵そうして一人で適当な居酒屋を探して、その土地の郷土料理と地酒を楽しむ。特に酒に強いわけではなかったが、妻に気兼ねすることなく自分のペースでちびちびと杯を重ねることのできるこの時間が、河辺は何より好きだった。
 その日、仕事で進めている大きなプロジェクトの中間報告が首尾よく終わり、河辺はいつになく気が弛んでいた。いつものように居酒屋で飲み、ほろ酔い気分でビジネスホテルへと帰る途中、視界に入ったとある看板に目を引かれた。
「紅」(くれない)と書かれたピンク色のネオンで縁取られたけばけばしい看板は、河辺が以前から密かに目をつけていたバーのものだった。
 バーの入口へと続く雑居ビルの細い階段は傾斜が急で薄暗く、客の訪れを積極的に歓迎しているようには見えなかった。
 河辺はバーのある二階を見あげ、ごくりと唾を飲んだ。今までは気後れして、なかなか階段をのぼる勇気が出なかったが、その日ついに河辺は抗えぬ好奇心に負けた。
 しばらく躊躇ったあと、一度だけ、一度だけ……と心の中で唱えながら、素早く周囲を見渡し、河辺は滑り込むように階段をのぼった。
 ――今思えば、その一瞬の判断の誤りが、すべての始まりだった。
 憂鬱な気持ちでベッドの上であくびをかいていると、浴室から響くシャワーの水音がやんだ。しばらくすると中から物音がして、扉が開いた。
「お待たせしました」
 声をかけられ、河辺は慌てて跳ね起きた。
 浴室から出てきたのは、白いバスローブに身を包んだ若い男だった。濡れた髪をタオルで乱暴に拭い、床に脱ぎ捨てた灰色のスラックスを拾いあげる。背の高い男だ。バーの暗い店内では痩せぎすに見えた体は思いのほかよく鍛えられ、バスローブの隙間から覗く引き締まった胸元に思わずどきりとした。
 途端に気まずくなって、河辺は男から目を逸らした。ベッドの上で膝を抱え、居心地悪く縮こまる。
「そんなに緊張しなくてもいいのに。何も今すぐ取って食おうってわけじゃありませんよ」
 男はそんな河辺の姿を認めると、くすりと笑った。左の目元に見える小さな泣きぼくろが妙な色気を感じさせる。
 河辺はかっと頬を火照らせた。ベッドの上にだらしなく寝そべっている姿を男に見られてしまったことも恥ずかしかったが、いい年をして男の半裸に一瞬でも見惚れてしまったことが居たたまれなかった。
 男はスリッパを履き、ゆっくりと絨毯の上を歩いてくる。
「岡部(おかべ)さんも入ってこられたらどうですか? 俺は汗臭いままヤるのも好きですけど、岡部さん側には色々準備とかあるでしょ。挿れるのはいいけど、あそこのにおいは嗅がれたくないって人もいるし」
 男はあけすけに言う。誰のことを指しているのかわからず一瞬ぽかんとしたあと、河辺は偽名を使っていたのを思い出し、みるみるうちに青褪めた。「あ、ああ……」としどろもどろに、どうにかそれだけを返す。
「岡部」というのは母方の旧姓だ。母親が再婚する中学三年生の秋まで、河辺は「岡部」の苗字を名乗っていた。幼い頃に家を出ていった本当の父親の名前は知らない。顔も覚えていなかった。
 男は河辺の前を通り過ぎると、テレビの下に置かれた小型冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、ごくごくと飲み始めた。
 形のいい喉仏が忙しなく上下している。バーで見たときは気がつかなかったが、ずいぶんと白くてなめらかな肌をしている。
 もうすぐ三十も半ばになる自分とは大違いの、端正な若い雄の体だ。河辺は近頃たるみの目立ち始めた自分の下腹部に手をやり、小さくため息をついた。学生時代に部活動でやっていた軟式テニス以降ろくなスポーツ経験もなければ、日に焼けにくい肌も相俟って、自分の体は男に比べとても貧相に見えた。
 と、ふいに左手に冷たい感触を覚え、河辺は「ひっ」と喉を詰まらせた。いつの間にか男が河辺の隣に腰かけ、手の甲に自分のものを重ねてきたからだ。
「何をそんなに怯えているんです?」
 男はベッドの上で、猫のようにしなやかに上体を伸ばしてくる。耳朶を啄ばまれ、低い声で囁かれた。
「まだ服も脱いでないというのに、今からそんな調子でどうするんですか。これから見ず知らずの男とセックスしようとしているあなたが」
「わ、私は……」
 思わず声が震えた。
「そんなつもりではなかったんだ」
 河辺は咄嗟に弁明しようとした。男の手を払い、両手で火照った顔を覆う。男の言っていることに間違いはなかったが、いざ若い男の瑞々しい体を前にすると、怖気づいた。
「何言ってるんですか。こんなところまでのこのこついてきて、今さら気が変わったなんて言わせませんよ。最初に誘ってきたのはあなたでしょう?」
 手首を掴まれ、顔を隠すものをゆっくりと退けられる。河辺は絶望的な気持ちで男を見あげた。羞恥と緊張から目尻が小刻みに震える。
「ふふ、色っぽい顔。それ、わざとですか?」
 男は親指で河辺の眼鏡のフレームをなぞると、そっと河辺の頬に触れてきた。湯上がりでまだあたたかい、湿った手だった。
「あんまり煽らないでくださいよ。それともそんなに早く俺に犯されたい?」
 男がにっこりと笑う。冗談めかしているが、熱っぽい声には隠しきれぬ情欲が滲んでいた。
 男に肩を抱かれる。吸い寄せられるように唇が近づいてきた。――キスをされる。思った瞬間、河辺は反射的に顔を背けていた。
「……シャワーを浴びてきます」
 ぽつりと呟く。男の体を退け、河辺は立ちあがった。心臓が早鐘のように鳴り続けている。シャワーを浴びて少しだけでも落ち着こうと思った。
「はい。どうぞごゆっくり」
 逃げるように浴室へ飛び込んだ河辺の背に、男の笑い声が追従した。



 きっかけは一本のアダルトビデオだった。
 半年ほど前のことだろうか。結婚して五年目になる妻の千恵(ちえ)に突然別れ話を切り出され、河辺は混乱していた。セックスレスが原因だった。
 四つ年下の千恵とは見合い結婚だったが、積極的に肌を合わせたのは新婚当初の数ヶ月のみ。それ以降は、どちらからともなく交接が途絶えた。お互い性に関して淡白な性質だったためだと河辺は考えていた。ベッドは共にしないが河辺は千恵を愛していたし、夫婦仲もこれといって特に問題はなかった。
 状況が変わったのは、今年に入り河辺が課長に昇進してからだった。会社から小一時間ほどの郊外に念願だったマイホームを買い、日頃から仕事が辛いと零していた千恵に保育士の仕事を辞めさせた。
 稼ぎ頭が自分一人に減ったことに危機感を覚え、河辺は今まで以上に仕事に励むようになった。毎晩終電近くまで残業をし、出張も頻繁になり、家に帰れない日が続いた。
 そんな中、春の初めだった。零時を回って帰宅した夜、千恵が深刻な顔をしてリビングのソファに座っていた。こんなに遅くまで千恵が起きて自分を待っていることはめずらしい。「何かあったのか」と問うと無言で寝室へ連れて行かれた。ベッドに押し倒され、いつになく真剣な表情をした千恵に「子供が欲しいの」とねだられた。突然のことに驚いて事情を聞くと、五年経っても子供に恵まれない息子夫婦を心配して、河辺の母親が千恵に何かを吹き込んだらしかった。
 千恵はもうすぐ三十三になろうとしていた。年齢的な焦りもあったのだろう。だが義務感に駆られ、求めてくる千恵に河辺はどうしても勃起することができなかった。仕事で疲れていたのもあったのかもしれない。
 そうして、失敗が二度、三度と続き、一月経っても満足に挿入が行えない状態が続くと、河辺は次第に自分に自信が持てなくなっていった。千恵は「私のことをもう愛していないからできないんでしょう」と言って泣いていた。
 申し訳なかった。千恵にそのようなことを言わせてしまったことも、千恵を苦しませてしまったことも申し訳なかった。それ以上に自分が情けなかった。
 自慰をしても反応は鈍く、射精まで至ることができない。かといって、バイアグラを試す勇気はなかった。医師の処方が必要だったからだ。会社では課長というそれなりの立場にいる自分が、この年でそんな薬を買っているのを万が一誰かに目撃されたら……と思うと怖くて手が出せなかった。
 このまま一生不能の烙印を押されて、子供が作れないばかりか、誰ともセックスができない体になってしまったらどうしよう。不安が募り、眠れない夜が何日も続いた。
 今思えば、あのときは少しノイローゼ気味だったのかもしれない。残業を終えて疲れた体に鞭打ち、河辺は血走った目でインターネットを隅々まで検索した。
 勃起の方法を調べていくうちに、男には肛門側から前立腺を刺激してやると勃起を促す効能があることを知った。
 藁にも縋る思いで、河辺はさっそく拡張具をインターネットで通販してみた。やり方がわからなかったのでアナルオナニー入門というビデオも一緒に取り寄せ、視聴してみた。
 ビデオの中では、ピンク色のナース服を着た綺麗な女優が、顔に黒いレスラーマスクを被った男性相手に、アナルを使って快感を得る方法を事細かに説明していた。
 河辺はビデオを見ながら、必死に注意書きをメモに書き取り、千恵が寝静まった深夜や習い事で家を空けている休日の午後を利用して、せっせとアナルオナニーに励んだ。
 最初は慣れない異物感に戸惑うばかりだったが、河辺は器具を変え体勢を変え、ひたすら研究に没頭した。そして、アナルの開発を始めて二週間ほど過ぎた夜。突然今まで感じたこともないような強い快感を覚え、河辺は驚いて手を止めた。オモチャの先端が少しその場所を掠めただけで、あれだけ何をしても勃起する気配を見せなかったペニスがだらだらと涎を垂らし、直角に持ち上がる。
 河辺は歓喜した。これだと思った。イイところに当たるように恐る恐る手を動かし続けると全身が震え、ほんの数分もかからず射精までできた。河辺は感動した。普段だったらありえないところに直接刺激を加えることで驚くほど効率的に勃起できることがわかった。
 自分は不能なんかではない。努力の末、ようやく証明された事実に勇気を取り戻した河辺は、さっそく千恵を相手に本番に挑んだ。
 だが、いざ千恵を前にすると、どうしたことか息子は萎縮してなかなか言うことをきかなかった。まさか尻にオモチャを入れたままセックスを行うわけにもいかず、河辺は途方に暮れた。
 千恵の冷ややかな視線が突き刺さる。別れを切り出されたのはその翌日だった。
 最初は何が起きたのかわからなくて、テーブルに置かれた白い紙を呆然と見つめた。やっとの思いで紙の左上に書かれた「離婚届」という文字を読み取ると、目の端にじわりと涙が浮かんだ。
 自分は夫婦の仲を円満に保つため、恥を捨てこんなにもがんばっているのに、どうして別れを告げられなくてはいけないのだろう。
 言いたいことは山ほどあったが、セックスレスの原因がすべて自分にあることもわかっているため、河辺は千恵に向かって何も言うことができなかった。
 以来、千恵は頻繁に家を空けるようになった。一人になった家で、することもなくて自棄になった河辺はアナルオナニーを続けた。ほかに趣味と呼べる趣味もなかったから、時間の潰し方がわからなかったのだ。
 一度はまると、アナルの拡張はやめられなくなった。手持ちのディルドの中で一番太いものが入るようになると、今度はどこまでいけるか試してみたくなった。ディルドだけでは飽き足らず、きゅうりも茄子も問わず入れた。棒の形をしているものなら何でも構わなかった。
 何か、何かもっと太いもので自分のお尻をめちゃくちゃに犯して、すべてを忘れさせてくれる棒はどこかにないだろうか。
 日々寂しくオモチャを使って自分を慰めているうちに、虚しくて、自分が可哀相になって少しだけ泣いた。
 大学を出てからの人生はそこそこ順風満帆だったはずだ。決して給料は高くないがそれなりに名の知れた製薬メーカーに就職し、結婚し、課長に昇進して一戸建ての家まで買った。何もかもがこれからというときだった。
 今まで贅沢をしたことも、我が侭も言ったことがない。給料はすべて家に入れているし、浮気なんてもってのほか。自分はいい夫であったはずだ。それなのに千恵は自分に愛想を尽かして出て行ってしまった。あとどれだけ我慢をして努力をすれば、千恵を繋ぎとめることができたのだろう。……わからなかった。
 考えているうちに疲れて、何もかもがどうだっていい気分になってきた。アナルオナニーに没頭しているときだけが、唯一現実を忘れられる癒しの時間だった。
 だが、それも慣れれば刺激が足りなくなり、河辺は次第にどのアダルトビデオを見ても男優の股間ばかりに目がいくようになった。高い嬌声をあげ、しどけなく乱れる女優よりも、画面の端で見切れる浅黒い肌をした男の腰づかいに興奮した。
 自分でもおかしくなっていることは自覚している。だが、想像するのだ。オモチャでさえあんなに気持ちがいいのに、生身の熱をもった肉塊が自分の中を滅茶苦茶に犯す。その背徳的な妄想に河辺は酔いしれた。
 男に興味があるわけではなかった。河辺に同性愛の嗜好はなかったし、今まで好きになった相手も全員女性だ。男を恋愛対象として求めているわけではない。
 ただ、棒が欲しかった。逞しい息吹を持った灼熱の棒で自分を貫いてみてもらいたかった。そこに一体どんな快感が待ち受けているのか。たった一度。一度だけでいい。男とセックスをしてみて新しい世界が開ければ、何もかもが吹っ切れるような気がした。
 そう思うとたまらなくなり、河辺は欲望に突き動かされ、インターネットを調べた。
 どこかに自分の相手をしてくれる男はいないだろうか。会社や地元の知り合いは駄目だ。できるならまったく自分の素性を知らない相手がいい。そう、例えば偽名を使ったところで決してばれることのない、一晩だけの後腐れのない関係なんかが理想だ。
 どこか、ゲイの集まる場所で初心者でも入りやすそうな、雰囲気のいいところはないだろうか。そういえば……と河辺は、よく行く出張先の繁華街の近くにそのような界隈があるのを思い出した。インターネットで検索するとすぐにその店はヒットした。それが「紅」だった。
 出張先にあるこのバーならば、今住んでいる場所よりも誰か知り合いに出会う確率はうんと低くなる。素知らぬ顔をして店に滑り込んでしまえば、あとはどうにかなるだろう。あたかも相手を探しにきたゲイの一人を装えばいい。そうは思っていてもなかなか勇気が出なくて、半年ほどは「紅」を遠巻きに見るだけで終わっていた。
 だが、その日はだいぶ酔いが回っていたせいもあったのだろう。ピンク色のネオン看板に吸い寄せられるように、河辺は雑居ビルの階段をのぼった。初めて就職活動の面接に向かう学生のように、心臓がどきどきしていた。
 身構えながら「紅」の扉を開けると、そこは思いのほかシックな雰囲気の漂うバーだった。奥に長い小ぢんまりとした店内に、スズランの形を模した橙色のシーリングライトが灯る。
 カウンターの中から「いらっしゃい」とマスターに声をかけられた。長い黒髪を後ろで一つに束ねた妙に色気のある男前のマスターだった。
 カウンターの席につくと、まず二枚のコースターを手渡された。店のロゴの入った、白と黒のシンプルなものだ。なぜ二枚なのだろうと首を傾げていると、それがネコとタチを識別する意味合いを持つものだとマスターが説明してくれた。不慣れな様子の河辺を見て気を遣ってくれたらしかった。河辺は羞恥に頬を染めながら、そっと白いコースターを選びテーブルの上に置いた。
 店の中には色んな客がいた。カウンターの後ろに三つほどあるテーブル席には、男二人連れのカップルらしき客が座っているのが見えた。店の中で堂々と抱き合い、キスを交わす男同士の姿を物珍しく横目で眺めていると、体の右側から誰かの視線を感じた。
 振り向くと、カウンターの一番奥のスチール椅子に座った一人の男と目が合った。
 これといって特徴のない平均的な顔だ。どこかで見たことがあると言われればそのような気もする凡庸な雰囲気の男。
 目に付いたのは、薄暗がりの中でもはっきりとわかる異様に大きな男の股間の膨らみだった。男の手元に置かれたコースターの色は黒だった。タチだとすぐにわかった。
 男と視線を絡ませて、しばらくすると、男が立ち上がった。河辺のもとへまっすぐ歩いてくる。緊張しているのか、男の喉がごくりと鳴るのがわかった。
「亘(わたる)ちゃん、その人を口説くなら何か注文しなさいな」
 マスターが男を茶化して言う。おしゃれな顎髭を生やしているのに、マスターが女言葉で喋るのにも驚いたが、
「ビールでいいですか」
 と男に生真面目に訊かれ、河辺はますます体を強張らせた。黙って頷く。
「どうも」
 男が隣の椅子に腰かける。だが、小さく会釈をしたきり何も喋らない。マスターに自分の分のビールも頼むと、グラスを傾けずっとそれを飲んでいる。時折河辺に視線を遣るが、会話の糸口が見つからないのか、気まずそうに目を伏せるばかりだった。
 河辺も男に倣い、ビールを飲むふりをしながら、男の胸元と股間の周りばかりを見ていた。ズボンの膨らみのその下の大きさを想像して体が熱くなる。
 平常時でさえこのサイズなのだから、この逸物が勃起したらどれぐらいの大きさになるのだろう。自分が持っているディルドの中で最も大きなものよりも太いかもしれない。
 この男のペニスで力の限り突かれたら、さぞかし気持ちいいだろう。もしかしたら壊れてしまうかもしれない。この太い肉棒で滅茶苦茶に犯されるはしたない自分の姿を妄想して、思わず喉が鳴った。
「岡部さん。この人は槌木亘(つちきわたる)っていううちの常連さん。悪い男じゃないから、よかったら話し相手になってやってあげて?」
 マスターが河辺に話しかけてくる。会話の弾まない二人を見かねて間に入ってきてくれたようだ。
「岡部さん?」
「あ……」
 男が訊いてくる。河辺はさっきマスターに名前を訊かれたとき、咄嗟に偽名を使ったことを思い出し、慌てて頭を下げた。
「岡部真澄です。初めまして」
「……槌木亘です」
 男が応えるまでに一瞬の間があった。男は目を細め、じろじろと河辺の全身を観察してくる。怪訝そうな表情だ。
「ここへは出張で?」
「え?」
「そんなに大きいカバンを持ってらっしゃるから」
「あ、ああ。これは……」
 河辺は足元に置いた鞄を体の近くに引き寄せ、なんと説明したらいいものか迷った。
 鞄の中には出張用の着替えやパソコンに加え、営業で使うカタログや新薬の見本なども入っている。社名がばれるのはまずい。
 河辺は曖昧に微笑んで男の質問を誤魔化すことにした。
「何のお仕事をされてるんですか?」
 肩に手を回される。耳にかかる男の熱っぽい吐息がやけになまめかしく感じた。