死神と猫


<本文サンプル>

 霧のようにけぶる雨が降り続く秋の夜。
 前触れなしにアパートにやってきた深沢は、菅谷が玄関を開けるなり、ずいと薄汚れた段ボールの箱を押しつけてきた。
 みかん箱よりひと回り小さな段ボールの中には、ピンク色のタオルに包まれた黒い毛玉が入っている。
「何ですか、これは」
 思わず眉をひそめ、菅谷は固い声で尋ねた。
 毛玉は菅谷の声に反応して、白いヒゲを揺らしながらひくひくと鼻先を上に向ける。
「見りゃわかるだろ。猫だよ猫。そこの空き地に捨てられてたから拾ってきた」
 平然と答え、深沢は濡れて頬に貼りついた髪をうっとうしげに指先で払う。
 どうやら雨のなか傘もささず両手で箱を抱えてきたらしい。襟ぐりの伸びた紺色のTシャツは、胸元から腹部まで濃く色を変えている。
 もう一度箱の中を覗きこみ、菅谷は小さくため息をついた。
 生まれて間もないのだろう。ぼろタオルにくるまりぶるぶると震えている黒猫は、片手の上に乗りそうなほど小さな体をしている。
「拾ってきたのは見ればわかります。それをどうして僕の家に持ってきたんですか?」
「官舎じゃ飼えないからな」
「それはこのアパートだって同じです」
「でも隣の家、犬飼ってるだろ? たまに鳴き声が聞こえる」
 たしかに隣人は大家に無断でこっそり犬を飼っている。時折響く鳴き声には迷惑していたが、わざわざ苦情を入れるほどの熱意はなく、仕方ないと諦めていた。
 だが、問題はそこではない。猫だ。
 先週の暮れから、アパートの前の空き地にこの猫が捨てられていることには気がついていた。
 けれど、見てみぬふりをしていた。
 可哀相だとは思ったが自分には関係のないことだし、たまに誰かが餌をやっている後ろ姿を見かけては、無責任なことを……と苦々しく思っていたぐらいだ。
 それをまさか深沢が拾ってくるとは思わなかった。
 もしかしたらこの男は見かけによらず動物が好きなのだろうか。
 いつになく目尻を下げて、子猫の頭を人差し指で優しく撫でている深沢の横顔を、菅谷は信じられない気持ちで凝視した。
「何だよ。俺みたいな男が猫を好きじゃ悪いか」
 すると、視線に気づいたのか、深沢がむっと眉間に皺を寄せた。
「……いえ。少し驚いただけです」
 その通りだと答えるわけにもいかず、あいまいに言葉を濁す。
 深沢は何か言いたげに菅谷を睨んだが、今日は不思議と癇癪を起こさず、口をへの字に曲げ、言い訳のようなことをぼそぼそと語り始めた。
「昔、妹が拾ってきて、親に見つからないように兄弟でこっそり飼ってたんだよ。家の中に生き物がいるってのは結構いいもんでさ。それまで喧嘩していても、猫に邪魔されるとなんだか怒れなくなったりして。……だから、こういうのを連れてくれば、あんたの情操教育にいいかと思ったんだ」
「え?」
 後半がうまく聞き取れず、問い返すと、深沢はばつが悪そうに目を逸らした。
「ペット禁止だろうと、少しぐらいなら別にいいだろ? 大きな声で騒ぐわけでもないし、このまま放っておいたらこいつは死ぬんだ。里親見つかるまででいいから、面倒みてやれよ」
 深沢は段ボールをさらに菅谷に押しつけてくる。
 猫はピーピーと小さな声で鳴き、深沢からミルクをねだろうと小枝のように細い前脚を懸命に動かす。
 黒い毛並みに艶はなく、金茶色の瞳は片方しか開いていない。栄養状態の悪さが一目で見てとれる。
 けれど、だからといってすぐにこの猫を預かることを了承するほど、菅谷はお人好しではなかった。
「困ります」
 まさか断られるとは思っていなかったのだろう。深沢はみるみるうちに不機嫌な表情になった。
「何だよ。猫、嫌いなのか?」
「嫌いというより苦手です。今まで動物を飼ったことがないので、どうしたらいいのかわかりません」
 正直に答え、菅谷は段ボール箱を深沢に突き返した。
 無慈悲な人間と思われても仕方ない。
 猫の世話をするなんて絶対にお断りだ。
 今まで動物を飼った経験はないし、さして好きでもない。しかも弱った子猫なんて、自分の手に余る生き物をどう扱えばいいのか。
「可哀相になぁ。お前はこんなに可愛いのに」
 前脚の下に手を差し入れ、深沢が猫の体を持ちあげる。下半身が宙にぶらんと伸びると、猫はまるで洗濯竿に干されたぬいぐるみのように愛らしく見えた。
「抱いてみるか?」
 深沢が猫を菅谷に差し出してくる。
 とんでもないと、菅谷は力の限り首を横に振った。
 抱く、抱かないの問題以前に深沢はよくこの猫に素手で触れるものだと思う。
 毛は泥だらけだし、皮膚炎を起こしているのかところどころ不自然に禿げあがっていて不潔だ。ノミや寄生虫だっているだろう。
「僕はいいです」
 しかし、その言葉は遠慮と取られたらしい。
「大人しいやつみたいだから、別に噛みついたり引っ掻いたりしないぞ? ほら」
「でも」
「いいから、つべこべ言わずに抱いてみろって。一度抱けば可愛くなるから」
 猫好きの人間にありがちな言葉を吐いて、深沢は菅谷の手に猫を無理矢理押しつけてくる。
 仕方なく受け取ったものの、菅谷は早速パニック寸前に陥った。
 手の中で震える頼りない体は、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうで緊張する。どう扱えばいいのかわからず、知らず腕のあちこちに変な力が入ってしまった。
 深沢は大丈夫と言っていたけど、こんなぎこちない抱き方をされたら猫も嫌がって、すぐに暴れだすだろう。
 一体何の拷問だ。心臓がばくばくと脈打つ。
 早く引き取ってくれ。嫌だ。もう我慢も限界だ。
 何度か助けを求める視線を送るが、深沢は満足げに目を細めるだけで菅谷を助けてくれない。
 まるで悪気のない男の様子に殺意すら覚えた。
「どうだ?」
 感想を求められても返事に困る。
 傍目から見ているならまだいい。だが実際に触れてみても可愛いなんて思えないし、恐怖は増す一方だ。
 自分に関わり、触れた人間は大抵が死んでいく。教誨師として勤める拘置所で、死神とあだ名されていることは知っている。
 まさかこの猫にまでその呪いが降りかかるとは思えないが、人だけでなく命ある生き物とはできる限り余計な接触を避けておきたかった。
「なんだかぐにゃぐにゃしていて……生温かいです」
 感じたままを口にすると、
「もうちょっといい感想はねぇのかよ」
 と言って、深沢は呆れたように笑った。
 猫を抱いたまま玄関で立ちすくむ菅谷を放置し、我が物顔で部屋にあがってくる。
「念のため明日の朝一で病院に連れていくから、今日はしばらくそのまま抱いててやれ。身体が冷えると下痢を起こして、すぐ脱水症状になっちまうから」
 しばらくこのまま?
 さらりと恐ろしいことを命じ、深沢は勝手に戸棚からタオルを引っ張り出し、濡れた髪を拭いている。
 この猫を菅谷の家で預かるのはすでに決定事項のようだった。


(本編に続く)


菅谷に猫を与えるとこういう化学反応が起きますという話。
無自覚な菅谷相手に深沢ががんばります。